the 4th day[15/15]

軽く羽織ったシャツのボタンを留めようと両手を伸ばし、はだけた胸元に触れる。
ボタンを丁寧にひとつずつ留めてやると、至近距離で視線が緩やかに交わった。甘く濡れた眼差しに引き寄せられるまま唇を啄ばむ。
ハルカは照れくさそうに俺を見つめて笑った。

「なんだか子どもみたいだね」

「俺からすれば、ハルカは子どもみたいなもんだよ。十四も年が離れてるんだから」

二人で額を寄せて笑い合う。自分でする方が早いのはわかっているだろうが、ハルカは動かずに身を任せてくれていた。

「……タクマさんは、義理のお兄さんのことを恨んでる?」

ふとそんなことを訊くハルカの表情を窺えば、真剣な眼差しで俺をじっと見上げていた。

「──そうだな……」

このシャツを着てしまえば、ハルカの身支度は終わってしまう。だから、俺はできるだけゆっくりとボタンを嵌めていく。触れる体温は、もう程よく冷めてしまっていた。時が経つにつれて情事の余韻は少しずつ薄れていく。それが今は淋しくて堪らない。

「兄貴がしたことは、世間的にすごく悪いことだ。なんせ、妻と子どもがいるのに、よりによって妻の妹と駆け落ちしたんだからな。実際、残された家族は本当に大変だった。兄貴の奥さんの家族も、うちの家族もすっかり混乱してしまったし、今では結局絶縁状態だ。兄貴が書き置き代わりに残した離婚届を、奥さんはすぐに提出したみたいだ。それから奥さんと子どもがどうしているのか、俺は知らないんだ。兄貴も姿を消してから連絡はなくて、生きているのかどうかさえわからない」

とうとう最後のボタンを留めるときがきた。そっと指先で摘まんで、名残惜しいままに白いプラスチックを小さな穴に通していく。

「だけど、家族をめちゃくちゃにして、しかも俺の好きだった人を拐っていった兄貴のことを、なぜだか俺は憎めないんだ。きっとどこかで生きてると信じてるし、二人で幸せに暮らしててほしいと思う」

「タクマさんは、それでいいの?」

見上げればそこには、不安げに揺れるふたつの瞳があった。俺は笑ってハルカを見つめ返す。

「ああ。兄貴は小さな頃から俺の憧れの人で、ヒーローなんだ」

何度も目を瞬かせてから、ハルカは口元を緩ませた。
ああ、かわいいな。その微笑みが眩しくて、俺は目を細める。
全てのボタンを嵌め終えて、俺はハルカの細い手首を取った。その内側で色濃く存在を主張していた誰かの所有印は、もう淡く滲んでいる。
あと何日か経てば、きれいに消えるだろう。
行くところがない。
四日前に出会ったたとき、ハルカは俺にそう言っていた。
俺は両腕を伸ばして、華奢な身体を抱きしめる。躊躇いがちに回された腕が、確かに俺の背中を引き寄せる。
この愛おしい匂いを、俺は生涯忘れることはないだろう。

「ハルカ、大丈夫だよ。立ち止まったり振り返ったりしながら、ちゃんとお前は辿り着くから。だって、こんなに素敵な人を神様が幸せにしないわけがない」

「タクマさん」

ハルカの唇が俺の首筋から鎖骨、さらにその下へと滑り落ちる。チクリと小さな刺激を感じた瞬間、ハルカはゆっくりと離れてきった。

「ごめんなさい」

そう言って、悪戯っ子のように笑う。まだ微かに熱の疼くそこに目をやれば、うっすらと桜色の印が刻まれていた。すぐに消えてしまいそうなぐらい、微かなものだ。
けれどこれは紛れもなくこの四日間、ハルカが俺を愛してくれたという証に違いなかった。

「嬉しいよ」

初めて好きになった彼女と同じ匂い。その甘やかな香りを胸いっぱいに吸い込みながら、華奢な身体をきつく抱きしめる。

「ありがとう──アスカ」

腕の中の身体が、小さく身じろぐ。
うん、とっくに気づいていたんだ。黙っててごめんね。
でも、俺の中でお前は永遠に愛おしいハルカだから。
そっと身体を離せば、潤んだ瞳でじっと俺を見つめている。
胸の内に秘密を共有しながら、俺たちは仄かな熱を含ませて間近で視線を交じらせた。

「大好きだよ」

ありったけの想いを込めてそう囁けば、今にも泣きそうな顔で微笑みながら頷く。

「僕も、タクマさんが大好き」

壁に掛かる時計の針が、真上で重なろうとしていた。
柔らかな唇に口づければ、胸の中にあたたかな想いが広がっていく。
甘やかなぬくもりに懐かしい匂い。初恋の人と同じで異なるこの人を、俺は絶対に忘れることはないだろう。
大丈夫だよ、ハルカ。この夜は必ず明けるんだ。
だから、どうか。どうか幸せに。

「さよなら、タクマさん」

「バイバイ、ハルカ」

午前0時。
美しい天使はこの腕の中から羽ばたいて、いつか光射す闇の向こうへと消えていく。








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