『知ってた? 赤ちゃんって、お腹の中にいる時も耳が聴こえてるんだって。その話を聞いて、もし私に赤ちゃんができたら、お腹にいる時からいっぱい声を掛けてあげられたらいいなと思ったの。未来を想像すると自分がどうしてるのかもわからないし不安になるけど、そういうことを考えると楽しくなってくる』
キラキラした瞳で無邪気にそんなことを言う彼女は、光り輝くようにきれいだった。 交わることのない、遠い世界に住む人。こんなに近いのに、二人の間には手が届かないぐらいの距離がある。
『だから、男の子でも女の子でもおかしくない名前にしたいなと思って』
『朋ちゃんは、本当に子どもが好きなんだね』
嬉しそうに笑う彼女を俺はそっと見つめる。 この視線が彼女にとって疎ましいものでなければいい。ただ、それだけでじゅうぶんだと思いたい。 お腹をさすりながら、これから生まれてくる赤ん坊に話し掛ける彼女の姿は、容易に頭に浮かんできた。 それは、なんて幸せそうな光景なんだろう。
そして、その隣に浮かぶぼんやりとしたシルエットは、彼女と共に人生を歩む誰かのものだ。 どんな男なのか俺には想像もつかないけれど、それが俺ではないことは確かだった。
『そうね。子どもは好きよ。どの子もみんなかわいくて一生懸命だし、健気ですごく素直。本当に、天使みたい』
ゆっくりと視線を移動させて、彼女は明るい窓の外を眺める。それを追いかけるように俺は同じ方向へと顔を向ける。 よく磨き上げられたガラスの向こう側で、まだ小学校にも上がっていないような年頃の女の子が、母親と手を繋いで歩いている光景が目に入った。 女の子は好奇心旺盛にキョロキョロと周りを見ながら、母親に何かを話しかけている。愛らしい無垢な笑顔が眩しい。 もう一度前に向き直れば、俺の対面で彼女はその親子をまだじっと見つめていた。少女の面差しを残した年上の人は、窓から降り注ぐ陽射しを浴びてキラキラと煌めく。 いつか自分に訪れる将来を、彼女は思い描いているんだろうか。 目を細めながら、俺はぼんやりと数年後の未来を思い描こうとする。
いつか彼女は運命の相手と結婚し、子どもを授かるに違いない。子どもが大好きな彼女は、きっと天使のような子を生むだろう。 胸の痛みは覚えるけれど、幸せそうな彼女の微笑みは容易に想像できた。
俺は一年前に彼女に振られてからも、初恋相手に対する想いを昇華できないままでいた。身代わりにするように彼女を作っては、何とか気持ちを紛らせて毎日を過ごす。 虚しい代償行為だった。最低な男だと言われても仕方ない。俺と付き合う女の子は皆、俺が本気じゃないことに気づき、やがて悲しい顔をして離れていく。 学校の近くで朋ちゃんと会っていると、校内で彼女と俺の関係について噂が立ったこともあった。その度に俺は、彼女の名誉を守ろうと親族なんだと説明を繰り返した。 宝石のようなひとときを、誰にも邪魔をされたくはなかったからだ。
そうして緩やかに続いていた彼女と俺との関係は、突如変調を来たす。 ある日突然、彼女と連絡が取れなくなったんだ。
十回目のコールが聴こえたところで諦めてボタンを押す。習慣になった毎晩一回の電話に、今夜も彼女は応えてくれない。 あの透き通るような響きの声を、聴くことができない日々が続いていた。 バイトにでも行ってるんだろう。いや。試験前だから、大学で勉強していて帰りが遅くなっているのかもしれない。 鳴り続ける呼出音に、いろんな理由をこじつけては自分を落ち着かせようとした。けれど、ぼんやりとした嫌な予感は日に日に色濃くなっていった。 今までこれだけ長い間連絡が取れなかったことはなかった。この頃彼女がふとした折に思い詰めた表情をしていることにも気づいていた。
もしかすると、彼女の身に何かあったんじゃないか。
居ても立っても居られないほど気持ちは逸るのに、家へ押しかける度胸もない。 俺のことを避けているのかもしれない。だけど、嫌がられても彼女の無事だけは確認したかった。 焦燥感に駆られた俺は、思い切ってそれまで行ったことのなかった彼女のアルバイト先まで足を運んだ。 彼女は学校から電車で二駅離れたところにある飲食店で週に4日、ウェイトレスとして働いていた。夜はダイニングバーになる、小洒落たカフェだ。 店内に足を踏み入れて、彼女がいないことを確認した俺は、大学生風の女性店員を捕まえてありのままを打ち明けた。 俺が羽山朋未の親戚であること。彼女と連絡がつかなくなって困っていること。 不審がられると思ったけれど、その人は拍子抜けするぐらいあっさりと俺を信用して、真摯に耳を傾けてくれた。 当時は今みたいに個人情報にうるさい時代じゃなかったというのもあった。それに、アルバイトの合間に彼女から俺の話を聞いたことがあったらしい。俺の欲しかった情報は、容易く手に入った。
『朋未、辞めたのよ。もう一週間になるかな。大学を辞めて引っ越すからって。どこへ行くのか訊いたけど、はっきりと決まればまた連絡するって言われて教えてもらえなかったな。深刻な感じじゃなかったし、そこまで追及しなかったんだけどね』
今まで必死に繋いできた糸が、知らないうちに切れていたことに気づいて、俺は愕然とした。目の前が真っ暗になった。 店を飛び出して駅まで駆けて、ホームに来た電車に飛び乗った。学校の方向まで戻るためだ。 俺は初めて、朋ちゃんが独り暮らしをしている家に向かおうとしていた。 もうそこにはいないかもしれない。それでも、行かずにはいられなかった。 電車を降りて駅から出ると、曇り空から雨が降り出していた。 頬にあたるぬるい感覚は、まるで涙のようだ。 初めはポツリポツリとアスファルトに染みを作る程度だったのに、次第に雨足が強くなっていく。 俺は傘を調達することもなく、降りしきる大粒の雨に濡れそぼりながら、ただひたすらに走り続けた。
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