the 2nd day[9/18]

『時々同じことを訊かれるんだけど、何もつけてないのよ。私、何か変わった匂いがするみたいね。自分ではわからなくて』


そう言って、きれいなラインを描く眉を申し訳なさそうに下げる。


『鼻につくよね。拓磨くん、ごめんね』


『違うんだ、謝らないで。すごくいい匂いだなと思ったから訊いてみたかっただけ。俺は朋ちゃんのこの匂い、大好き』


慌てて否定した勢いで大好きだなんて口にしてしまったけれど、朋ちゃんは安心したように『ありがとう』と嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
朋ちゃんにとっては強いコンプレックスだったのかもしれないけれど、俺には本当にいい匂いだったんだ。
ほんのりとその身体のどこかから放たれる匂いは程よい甘さで、なぜだか妙に郷愁を誘う。朋ちゃんの傍にいると俺はいつも懐かしい夢の中にいるような気分になった。
きっとこれが恋の匂いに違いない。勝手にそんなバカな思い込みをして、俺は胸をときめかせていた。

俺が朋ちゃんに好意を寄せていることは、兄ちゃんもわかっていたと思う。兄ちゃんはよく気がつくし、そうでなくても俺の態度はあからさま過ぎたからだ。
けれど、兄ちゃんはそのことにあえて触れてこなかった。俺はもちろん気恥ずかしくて口にはしないから、俺たちの間で朋ちゃんのことが話題に出ることはなかった。

誰がどう考えても、10歳のガキの恋心なんてすぐに立ち消えてしまうような淡いものだ。結婚や就職という人生における大事な局面を目前に控えた兄ちゃんにとって、幼い義理の弟のささやかな初恋なんて取るに足らないものだったに違いない。

兄ちゃんたちが決めた新居は、家から電車を乗り継いで1時間半という距離のマンションだった。そしてそこは翠ちゃんの実家からもけっして近くはなかった。どうしてそんなところを選んだのかはわからないが、兄ちゃんの会社や翠ちゃんの就職先である輸入家具を扱う会社に通勤するには便利な場所で、それが決め手になったみたいだった。

兄ちゃんたちは3月に入籍して、新居に引っ越すことになった。兄ちゃんが家を出るんだから、当然俺が朋ちゃんと会う理由もなくなってしまう。

兄ちゃんや翠ちゃんがいないのに、俺が朋ちゃんと繋がれるはずもない。5歳上の初恋相手との縁は、そこで途切れた。


*****


家に帰ってから、俺たちはハルカの用意したすき焼き鍋を囲んでいる。支度しているときから部屋にはうまそうな匂いが立ち込めていて、実際口にしてみれば味は文句なしだった。

ハルカとミチルと俺、ちぐはぐな3人で食卓を囲む光景は、まさに団欒そのものだと思う。
俺はビールを呑みながら、何かちょっとした話をしてはクスクスと笑い合うハルカとミチルをぼんやりと眺めていた。

ミチルのことを何とかしなければいけない。
児童相談所に連絡を入れて、このまま引き渡せばいい。それで全て片はつくし、俺の大人としての義務は果たしたことになる。頭ではわかっているのに、そうしたところでミチルの事情はどうにもならないんじゃないかとも考えている。

児童相談所は、基本的には家族の再統合を図ることを1番に考える機関だ。そこへミチルを送り込んだところで、しばらくは一時保護所に入るかもしれないが、遅かれ早かれ家族の元へ帰されるだろう。

それがミチルにとって本当にいいことなら、別に構わないんだ。けれど、事情を何も知らないままミチルを引き渡してはいけないんじゃないか。それではミチルの抱える問題の根本的な解決にはならないかもしれないからだ。

今日何度目かの溜息をつきながら、自分の往生際の悪さに感心してしまう。首を突っ込まないとあれだけ心に誓っていたのに、この手強い状況に俺はもうどっぷりと両足を浸けてしまっている。

食事の片付けが済んで風呂の湯を張る間に3人でリビングのテレビをぼんやりと眺めていると、ふとミチルが隣にいるハルカを意識して見ていることに気づく。

チラチラと遠慮がちに走らせる視線の先にあるのは、ハルカの細い首筋だ。よくよく観察すれば、ミチルは俺がそこにつけた所有印を気にしているのだとわかった。
それに気づいたハルカは、途端に目を細めて魅惑の眼差しを返しながら桜色の唇をうっすらと開く。

「気になる?」


指先でその辺りに散る花弁のような痕を軽く撫で上げて、花が綻ぶように可憐な笑顔を見せながらとんでもないことを口走る。


「これ、タクマさんがつけたんだ」


──── いやいや待って、ハルカ。うん、そうだよ。間違いなくそうなんだけど、そんなことをあえて言わなくてもいいよ。

思ってもみなかった発言にどんな反応を返せばいいのかもわからず苦笑いしか出てこない。そして俺は、何度も瞬きをしながらハルカの首筋に視線を留めるミチルを見てふと気づく。
ミチルはこの紅い鬱血がキスマークだとわかったんだ。それは、実際にその目で見たことがあるからに違いない。おそらくハルカもそう思ったんだろう。

ミチルは笑うでも狼狽えるでもなく、唇を噛み締めたままじっと何かを考え込んでいた。
胸の内に言いたいことを抱えている子どもは、よくこういう表情をする。だからと言って、こちらから無理に追及すればきっとこの子は殻に閉じこもるだろう。

俺が少年事件に携わってきた中で、いろんな年代の子から話を聞かなければいけない場面は数え切れないぐらいあった。子どもは大人の思惑に敏感だし、こちらが焦っていればもれなく伝わってしまう。俺も以前はそれで何度も失敗していた。


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