親父と再婚したときは式を挙げていないから、きっともう亡くなった兄ちゃんの父親との式を思い出しているに違いなくて、そんな話をする母さんの表情は確かに一際若々しくてきれいだった。
2人の結婚にあたって、もうひとつ腑に落ちないことがあった。兄ちゃんは結婚して、今の姓から翠ちゃんの姓になるという。つまり、三崎誠から羽山誠になる。
それは、婿養子になるという話ではなかった。この国で多くの女性がそうするように、兄ちゃんは結婚して翠ちゃんの姓になるというんだ。 元々那谷の姓だったのが、親の再婚で三崎になり、入籍して羽山になる。兄ちゃんは、22歳にして人生で3つ目の姓を名乗ることになった。
けれど、兄ちゃんの選択を特に誰も反対することはなかった。翠ちゃんのきょうだいは妹だけだったから、向こうのご両親には歓迎されたみたいだ。 当時の俺には兄ちゃんがどうして三崎の姓を変えたかったのかがよくわからなかった。でも、今は何となくこうだったんじゃないかと思うことがある。
兄ちゃんは、自分の手で一から全く新しい家庭を築きたかったんじゃないだろうか。だから、今まで属していた2つの姓の家族から自らを切り離したんだ。
俺がそう考えるのには、理由がある。
『拓磨。俺が家を出たら、母さんのことをよろしくな』
結婚直前、俺にそう言った兄ちゃんの笑顔は、すごくきれいで本当に淋しそうだったからだ。
2人の結婚を前に、料亭の個室を貸し切って両家の顔合わせが行われることになった。 翠ちゃんは両親と妹の4人家族で、この日は全員が来るということだった。
当日、うちの家族は早く着き過ぎてしまって、着慣れない上等な一張羅を着させられた10歳の俺は、居心地の悪さを感じながらも向こうの家族が来るのを手持ち無沙汰に待っていた。 そして、約束していた時間の少し前に、羽山家が揃ってやってくる。
深紅の振袖を着て現れた翠ちゃんは本当に艶やかで、いつにも増してきれいだった。その姿に見惚れながら、俺の大好きな兄ちゃんがこんなに素敵な人と結婚することが本当に誇らしく思えた。
翠ちゃんのすぐ後に入ってきたのは、優しそうな顔立ちをした父親だ。けっして強面ではないのに人目を引きつける重厚な存在感に圧倒される。その隣には、少し年の離れた姉にしか見えないような、翠ちゃんによく似た可憐な顔立ちの母親。──── そして。
1番後ろから控えめな足取りで歩んでくる、光沢のあるベージュ色のワンピースに身を包んだ少女に、俺の目は釘付けになる。 翠ちゃんとはまた異なった美しい顔立ち。長い睫毛の下から覗く凛と澄んだ眼差し。天使のカーブを描く頬。艶を帯びた桜色の唇。
その瞬間、俺はその日の本来の目的も、兄たちの大事な席であることも、何もかもを忘れた。 心臓が大きな音を立てて鳴り響いて、身体中が沸騰したように熱くなっていく。 呆然と穴が開くほど彼女を見つめる俺は、さぞ間抜けな顔をしていただろう。
羽山朋未。
それが、翠ちゃんの妹で、俺の初恋相手の名前だった。
顔合わせの日を境に、翠ちゃんは時折妹を連れて我が家に遊びに来るようになった。俺はその度に友達と遊ぶ約束を断り、胸を弾ませながら家でしっかりと待機していた。
彼女は当時15歳だ。当時の俺にとっては大人の女性と同然で、全く手の届かない存在だった。それでも俺は、憧れの人と少しでも一緒にいたくて必死だった。
彼女が来るとわかっている日は、朝から居ても立っても居られなくて一日中そわそわとしていた。来たら来たで、もっと落ち着かなかった。彼女に近づきたいという下心があるにもかかわらず、そんなことは全く考えてもいないという顔で無邪気にベッタリと懐いているふりをした。本当にませた小学生だったと思う。
俺は精一杯の勇気を出して、彼女のことを"朋ちゃん"と呼ぶようになった。
翠ちゃんたちが姉妹で家に遊びに来ると、兄ちゃんと翠ちゃんは当然2人でいることが多かったから、俺は自然に朋ちゃんと話をする機会を持つことができた。 そうは言っても、向こうはまもなく高校へ進学するという年齢だ。俺みたいな小学生と話が合うはずもないのに、それでも朋ちゃんと過ごす時間は俺にとって最高に楽しいひと時だった。
『私、弟か妹がいればいいなあと思ってたの。だから、拓磨くんと仲良くなれて嬉しいな。年下の子って、すごくかわいくて大好き』
あのきれいな眼差しでそんなことを口にされた日には、俺はまるで自分のことを好きだと言われたような気になって完全に舞い上がってしまった。 全く馬鹿だったなと、今でも思うよ。
朋ちゃんはきれいな顔立ちをしているせいか年よりも大人っぽく見えるのに、話しているといたずらっ子のようなかわいらしい表情を見せることもあって、俺は一緒にいると目が離せなくなり言葉を失って見惚れてしまうこともしょっちゅうだった。 時折見せる屈託のない笑顔はいつも眩しいぐらいにキラキラと輝いていて、透明感に溢れている、本当に素敵な女の子だ。
春に降り注ぐ暖かな陽射しのような、穏やかで優しい年上の人。恋愛対象としてはまるで相手にされないことをわかっていながら、俺は会う度に朋ちゃんのことをどんどん好きになっていった。
こんなことを言うとおかしな奴だと思われそうだけど、俺は彼女から漂ってくる独特のいい匂いが本当に大好きだった。 傍にいるといつも鼻腔をふわりと刺激する甘く芳香な匂いは、熟れた果実のようにも香しい花のようにも感じるけれど、そのどれとも違う気もする、そんな不思議なものだった。 1日中包まれていたいぐらいに魅惑的な香りは、膨らんだ恋心をますます掻き立てていく。
当時の俺は彼女のつけている香水が欲しいと本気で思っていた。その香水があれば、いつでも彼女の傍にいる気分になれる気がしたからだ。
『朋ちゃん、何ていう香水をつけてるの』
ある日思い切ってそう訊けば、朋ちゃんは小さくかぶりを振りながら、申し訳なさそうにきれいな微笑みを浮かべて俺を見つめた。
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