「いただきます」スープをそっと飲めば、優しい甘みが口の中に広がる。ややぬるい舌触りは、肌を寄せ合い眠るときに感じるユウの体温を彷彿とさせる。穏やかで静かないつもの時間が、心地よく僕たちを包み込んでいた。そんな中で僕は、まだユウに今朝の言葉の意味を問いただせずにいる。食事が進む度に、カトラリーが食器に触れる音が、やけに大きく響いていく。すっかり食べ終えてから冷めてしまったカフェオレを飲み干そうとしたそのとき、おもむろにユウに名を呼ばれた。「アスカ」視線を上げれば、そこにあるのは真っ直ぐに僕を見つめるユウの真摯な眼差し。「今朝の話だ」「 ─── うん」こくりと頷いたまま、俯く。ユウがこれから口にしようとする言葉に、僕は怯えていた。ユウの本意を知るのが怖くて堪らない。少しの沈黙の後、宥めるような優しい声が聴こえてきた。「お前の仕事はそろそろ潮時だと、前にも言ったことがある。今すぐじゃなくてもかまわないが、心づもりをしておいた方がいい」そっと視線を上げれば、ユウの真剣な表情が視界に入る。僕が赦されるためにしてきた、4日間の契約。この生活が終わることを、僕はうまく想像することができない。まだ、罪は償えていない。けれど、僕の噂は恐らく僕の思う以上に世間に広がっていて、ユウにもユウのお店にも迷惑をかけていることは容易に想像がついた。「 ─── だから」空になったカフェオレボウルをそっと置きながら、僕はユウの様子を窺う。「だから、あんなことを言ったの?」僕にはどこにも行くところがない。それがわかっているから、ユウはおぼつかない僕の居場所をこれからも提供すると申し出てくれた。ただそれだけで、あの言葉には深い意味などなかったのかもしれない。再び降りた沈黙の中、ユウは僕を射るように見つめて、やがて口を開く。「アスカ。お前は、俺が今までつまらない同情や責任感だけで接してきたと思ってるのか」その言葉を聞いた途端、僕の心臓は危なっかしい速さで鼓動を刻み始めて、その激しさに思わず胸を手で押さえる。僕は弱々しくかぶりを振る。それは否定の意味ではなかった。「……わからない」やっとのことでそう呟けば、ユウは微笑みの形に口元を緩ませる。「ちゃんと食べられるようになったな」そう言って席を立ち、食器を下げにキッチンへと向かっていく。そうだ。僕はここのところずっと、まともに食事をしていなかった。まだ収まらない鼓動を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐く。窓から見える昼の白い空を、僕はガラス越しにぼんやりと見つめていた。これと言った会話もないまま徒らに時は過ぎていき、ユウが家を出る時間になった。今日は金曜日だ。PLASTIC HEAVENには多くの人が訪れるのだろう。「行ってらっしゃい」玄関先で見送る僕を見下ろしながら、ユウは口を開く。「アスカ。帰ったら、少し話せるか」瞳を覗き込まれて、その真剣な面持ちに僕は戸惑いながら頷く。「約束を」伸びてきた腕が僕の身体を引き寄せて、しっかりと抱きしめられる。こうして触れ合うことには慣れているはずなのに、体温を感じた途端心臓がドクリと大きな音を立てて跳ね上がった。そうして与えられるのは、触れるだけのささやかなキス。そっと押しつけられた唇から流れ込む熱い吐息に、ユウがどうしてそんなことをしたのかを悟ってしまう。「……ここで、待ってる」僕が告げる短い誓いの言葉に、ユウは満足げに頷いて身体を離した。そのまま踵を返して、外の世界へと出て行ってしまう。扉の向こうに消えた残像を視線でなぞりながら、僕はその場に立ち尽くしていた。ユウは、自分がいない間に僕が出て行くことを恐れている。そう感じた途端、僕はひどく狼狽えてしまう。それは本当に不思議な感覚だった。今までここにいられなくなることを恐れていたのは、僕の方なのに。ガラスの向こうに広がるビルの群れを眺めながら、僕は縺れた思考を少しずつ解していこうとする。天上に少しだけ近いこの場所で過ごす時間は、僕にとって本当に優しいものだった。犯した罪の重さに苛まれ、淋しさや悲しみに襲われる度に、そんな僕をいつも献身的過ぎるほどに全身で支えてくれたのは、ユウだった。ユウがいなければ、僕は確かにこの世界に存在しない。サキを失い、ここへ逃げ込んでからの僕は、ユウの掌に包まれながら護られてきた。契約の4日間を終えては、この場所に帰る。その繰り返しは、確かに僕の生きる理由となっていた。けれど、ずっとこうしているわけにいかないことは、最初からわかっていたはずだった。ユウから与えられてきた仕事も、終わらせなければいけないのだとすれば ─── 僕はもういい加減、我が身の振り方を考えなければならない。何ひとつ、赦されないままに。暗闇の中、玄関からシリンダーの回転する音がした。僕のいる寝室の前を、聴き慣れた足音が通り過ぎる。きっとそのままバスルームへ向かうのだろう。1人で待つ時間も、あと僅かだ。窓の外を見れば夜の海に光の宝石が沈み、色とりどりの輝きがキラキラと瞬いている。真夜中のしんとした静けさが、僕は好きだ。このまま闇に呑まれて僕という輪郭がなくなってしまえばいい。幾度そう願ったか、わからない。 - 2 - bookmarkprev next ▼back