ああ。僕が足をつけていた場所は、なんて脆かったのだろう。「ユウは、それでいいんだね」訊くまでもなかった。契約を交わしてきたのはユウに他ならない。「アスカ、お前のためだ」「意味がわからないよ。僕のためって、どういうこと?」そんなのは言い訳だ。ユウは僕といることができないから、こうして突き放そうとしている。いつだってそうだ。あたかも僕の意思に従うかのように、ユウは全てを決めてしまう。水が落ちるように融けていく世界の中で、ユウの姿だけがはっきりと僕の視野に映り込んでいた。その面差しからは、やはり何の感情も読み取れない。「 ─── ユウは、僕がその人に抱かれても……いい?」渇いた言葉が上滑りに響く。こんな言い方は、狡いとわかっていた。相手と身体を重ねるかどうかを決めるのはユウではない。ユウは契約を取るだけで、4日間をどう過ごすかは僕に委ねられている。ユウは口を閉ざしたまま歩み寄り、僕との距離を詰めた。何も答えずに、手を伸ばし僕の髪を撫でてから食むように口づける。そのキスが以前と同じ無機質なものに変わっていることに、僕はひどく絶望を覚える。条件反射で力を緩ませた唇の隙間を縫って、ざらりとした舌が入ってきた。失ったのは僕の方なのに、どうして。「アスカ……」ユウはこんなにも悲しげに僕の名を呼ぶのだろう。すぐにでも顔を上げてユウの顔をきちんと見たいのに、振り解くこともできないほど強く抱きしめられてそれは叶わない。この何日かで身体のあちこちに付けられた烙印が、ジクジクと小さく疼く。その蠢きを収める方法を、僕はひとつしか知らなかった。だから、このあさましい身体を支配する欲望を口にする。「ユウ、抱いて……」身体を重ねただけでは心の隙間を埋められないことはちゃんと知っているつもりだった。それでも、他にどうやって慰めてもらえばいいかわからないんだ。だから僕は、容易く流されることを選んでしまう。この身体を開けば与えられる、理性も思考も灼き尽くす熱が、今はただ欲しくて堪らない。余計なことは何も感じることができないほど、激しく抱かれたかった。籠の中に青い鳥はいない。「 ─── っ、あ、ぁ……ッ」幾ら喘いでも胸の内が満たされることはない。どうして"ずっと"を約束したのだろう。永遠が存在しないことを、僕はサキに教えられたはずなのに。ユウから流れ込む灼熱は僕の身体を貫き魂をも揺さぶっていく。唇から途切れることなく零れる耳障りな音が、嬌声なのか嗚咽なのかもわからない。僕にはどちらだってよかった。ただ、こうして強い感覚を与えてもらうことができればそれでいい。「ユウ……、ユウ……」啜り泣く僕をユウは目を細めてじっと見下ろしていた。凪いだ海のような、美しい瞳で。快楽を求めて疼くそこに楔を打ち込まれながら、溺れる者がもがくように僕は手を差し伸ばす。ユウはその手をしっかりと取って、手首に噛み付くように口づけた。強く吸われる感覚に、身体がビリビリと痺れる。「あぁ、あ……ッ」痛みと熱と快楽と。それらの区別さえつかないまま、僕はただ闇雲に喘いでいた。だらしなく開いた唇を塞ぐようにユウが僕に口づける。激しい律動に合わせて咥内を這う舌は僕の歯列をなぞり、舌を絡め取っていく。熱い吐息を閉じ込められれば、行き場のないぞわぞわとした感覚に背筋の震えが止まらない。限界をとうに超えた肉体は息苦しささえ容易く快感にすり替えていく。淫らな身体はこんなにも感じているのに、そこから乖離した心は凍えそうに寒くて震えが止まらない。与えられる業火がこの肉体を灼き尽くし、打ち付けられる肌の感触に心まで融けてしまえばいい。けれど、それは叶わない。ここにはいられない。消えることも赦されない。だから、僕は。「ユウ……、 あぁ、イ、ク……ッ」ずっと、独りのままだ。全てが終わり力の抜けた身体をベッドに預けて放心する僕を、ユウが静かに見下ろしている。その瞳は、本当は美しい鳶色をしているはずなのに。この世界はあまりにも暗くて、よく見えないんだ。ずるりと引き抜かれて栓を失い白い熱を吐き出す後孔を、撫でやかに指でなぞられて小さく喘ぐ。屈み込んだユウは僕の内股に舌を這わせ、唇を押しあてた。「 ─── っ、あ……」そこを強く吸われる感覚にまた涙が零れ落ちる。何を思いそんなことをするのだろう。刻み込まれるのは、穢れた者の背負う罪の証。冥暗に抱かれながら酩酊する意識の中で、僕は静かに涙を流し続ける。このまま籠の中で朽ちていくことができればいいのに。僕は足に枷を填められたまま、また何処かへと放たれるのだ。「行ってくるね」玄関でゆっくりと振り返る僕を、ユウはいつもと同じように見送ってくれる。差し伸ばされる手が頬に触れて、どちらからともなく顔を近づけた。ぬるい熱を確かめるように、唇が優しく触れ合う。別れのキスは短かくて、それ以上深くなることもなく離れていく。「アスカ、気をつけて」ねえ、ユウ。閉じ込めてもらえるのなら、僕はこのままここに繋がれていたかったんだ。この罪を背負いながら、ユウの中のサキと一緒に。鳶色の瞳が静かに煌めきながら僕を映しだす。その光に囚われたまま、僕は踵を返して扉を開け放つ。冷たい空気が真夜中の近づく匂いを纏いながら流れ込んでくる。そして僕は、振り返ることなく闇の世界へと踏み出した。ようやく辿り着いた世界の果ては、誰かの掌に遮られていた空間でしかなくて。愚かな僕がそこを深淵と思い込んでいたに過ぎなかった。だから僕は、ここから出なければならない。この旅の終焉に辿り着くために。"Stigmatic Kiss side A" end - 9 - bookmarkprev next ▼back