ひんやりと肌寒い風を心地よく感じる。澄んだ夜の空気をそっと吸い込んで、ゆっくりと吐き出していく。家路につく人たちとすれ違いながら、僕は駅の方へと向かっていた。四日前に雨宿りしていたコンビニエンスストアの横を通ったときには、小さく胸が痛んだ。ここでの優しい出逢いを、僕は忘れることはないだろう。駅のロータリーに佇む車に視線が止まる。青みを帯びたシルバーのスカイラインだ。流れるような輪郭をした車へと僕は歩み寄っていく。その車が関西方面のナンバープレートを付けていることには気づいていた。助手席のドアを開けて乗り込めば、革張りのシートが背中を優しく支えてくれる。「少しドライブをしてもいいかな」僕の四日間を五万円で買ってくれたその人は、そう問い掛けてくる。遠慮がちな言葉に僕はそっと頷いた。「いいよ。午前0時までは、僕の時間はあなたのものだから」ユウと契約を交わしたとき、この人は何を話したのだろう。車は滑らかに走り出す。この人の年齢は四十歳代半ばだから、子どもがいてもおかしくはない年代だ。けれどこのスポーツセダンの車内は決して広くはない。それが意味することを、僕はぼんやりと考えていた。幹線道路は眩ゆいイルミネーションで彩られていた。スカイラインは美しい流線のボディで風を切り、人工的な光の中を滑走していく。「タクマさんは、もう大丈夫だよ」受けた依頼の目的を遂げたことについて端的に伝えれば、その人はわずかに微笑んだ。口角が上がると優しい表情になる。「そうか。ありがとう」ユウより少し年上のはずだ。けれど、二人は仲の良い友人なのだろうと感じた。僕はこの人の名前もさることながら、素性を全く知らされていなかった。ユウの店で契約を交わした誰かと四日間を過ごす。僕はそのルーティンワークに終止符を打ち、ユウに守られて生きていくつもりでいた。それでもユウがこの人と契約を交わしたのは、これが僕の請けなければならない仕事だったからだ。ユウの気まぐれなどではない。必然だった。信号待ちで停車すると、しんとした静寂が耳につく。場を紛らすためにカーステレオまで伸びてきた手を遮ろうと、僕はその人に話し掛けた。「タクマさんは、あなたのことを今でも尊敬していると言っていた」差し出された手はそのままステアリングへと戻っていく。こちらに流された視線を跳ね返すように、僕はそっと呼びかけた。「父さん」見つめ合う数秒間は、時間が止まったように長く感じられた。永遠に続くかと思える沈黙を破ったのは、父の方だった。「拓磨には敵わないな」信号が青に変わり、車が動き出す。物心ついた頃には既に家を出ていた人だ。顔も名前も知らなかった父が、僕のすぐ隣にいる。それがひどく現実離れしたことのように思えて、僕はその横顔を喰い入るように見つめた。意志の強そうな眼差しは、ルイに似ていると思った。「ユウとはずっと連絡を取ってたんだね」「時々だけどな。自分の母親と、侑には」僕の想像では、父はユウみたいな人なのではないかと思っていた。それは、ユウが僕の最も身近にいる年の離れた男性だったからかもしれない。けれどこうして実際に会ってみれば、父の雰囲気はどことなくユウに似ている。ようやく、理由がわかった。僕の家で父の話が禁忌だったこと。母が家庭を顧みずに仕事に没頭していたこと。まるで縁を絶っているかのように、親族と交流がなかったこと。父が、母の妹と駆け落ちをしたから。そして、僕が母の妹にとてもよく似ていたからだ。母の気持ちを察すれば、僕への態度は無理もないと思った。自分の夫を、そして家族の幸せを奪った妹に自分の息子が酷似していたのだ。日毎に成長していく僕の姿を、母はどんな気持ちで見ていたのだろうか。胸の中で、言いようのない鈍い痛みが燻る。「じゃあ、ユウから色々聞いてるんだね」そう尋ねる僕に、父は口を開く。「詳しくは知らない。けれど、大体のところは聞いてるかもしれない」僕がどうしてこんなことをしているのか。その事情を、この人は知っている。それはつまり、サキのことも、ルイのことも知っているということだ。だからと言って、どうということはない。僕はそれ以上のことを話す気にはなれなかった。「……そう」小さく相槌を打って、僕たちは黙り込む。幹線道路からの流れで高速道路に入った。どこへ向かっているのか、僕にはもうわかっている。フロントガラスに広がる濃紺の空に、微かに星が瞬く。静けさの中で不意に言葉が紡がれた。「俺のことを、恨んでるか」静かな問いかけに、僕はかぶりを振る。「本当に?」少し驚いたような父の声に、僕は肯定の言葉を投げかけた。 「僕にはあなたの記憶がない。知らない人を恨むことはできないし、あなたがいないことで自分を不幸だと思ったことはないよ」そうだ。僕はけっして不幸せなどではなかった。特に虐げられて育ったわけでもなく、母と姉がいて、隣に住む優しい家族に支えられた。ただそこに父がいなかったに過ぎない。最初から、僕に父は存在しなかった。それが当たり前になっていたから、今こうして僕の父だという人が傍にいることが現実味を帯びない。父の横顔は、やはりどこかユウに似ている。ユウが僕を送り出したときのことが脳裏に蘇って、また胸が小さく疼いた。「あなたは、今どうしてるの」「朋未と二人で、幼稚園を経営してるんだ。子どもはできなかったけど、たくさんのかわいい子どもたちに囲まれて賑やかな毎日を過ごしてるよ」「素敵だね」素直に相槌を打てば、父はほんの少し口角を上げる。「もしも俺たちの間に子どもが生まれたら、『ハルカ』と名付けたい。朋未は時々そんなことを言っていた」愛する人との子どもに付けたかった名前。叶わなかった願いを、この人は実の息子である僕に託した。つまらない自己満足だと口にするのは簡単だけれど、僕は不思議とそう思わなかった。眩しいものを見るかのように父は目を細める。僕に向けられた微笑みは、控えめだけれど本当に幸せそうに見えた。美しい人だ。自分の父にそんなことを思うのはおかしいかもしれないけれど、そう思った。「ねえ、父さん」真夜中の高速道路が好きだ。闇にふわりと浮かび上がるビルのイルミネーションは宝石のように美しい。テールランプとヘッドライトが融け合うこの空間を駆けているうちに、時空さえ超えられる気がした。「あなたはそれまで培ってきたたくさんのものを捨てて、僕たちの前から姿を消してしまった。その理由を聞かせてほしい」二人だけの閉ざされた空間で、僕たちは初めて父と子として会話を交わしていた。 - 92 - bookmarkprev next ▼back