涙を堪えて潤む瞳が、ゆらゆらと儚げに揺れている。
「サキは……僕が生命を奪った人は、本当に大切な存在だった」
サキ、というのがアスカが殺したと言い張る相手の名前らしかった。
アスカは少しずつ、言葉を紡いでいく。
「僕は生まれた時からずっとサキに憧れてた。いつも近くにいたから、誰よりもサキのことを理解してると思ってた。でも、そうじゃなかったんだ。サキは僕の思いもよらないことをしていて、それを知った僕は、サキに裏切られたと思った」
淡々と告げられる懺悔を、俺はただ黙って聞いていた。
「僕にはサキのしたことを受け容れることができなかった。僕がサキを死に追いやったんだ。サキは僕の言葉どおり、本当にこの世界からいなくなってしまった」
感情を押し殺した、落ち着いた口調だった。無表情なのが却って痛々しく見える。
アスカは抱えた罪を少しずつ吐露していく。
「サキにちゃんと謝りたい。でも、もうサキには逢えない。だから僕は一生赦されることはない」
俺にはアスカが暗く冷たい水の中にいるように見える。
深い海の底から、後悔に包まれた独白が細やかな泡のように立ち昇っていく。
俺はアスカと同じ場所から天上を仰ぎながら、その煌めきをぼんやりと眺めている。
本当にアスカがサキを殺したのだろうか。
きっと、そうじゃない。
「─── アスカ」
繋いだ2人の手は、いつしか同じぬくもりになっていた。
「ここでは願いが叶うんだ」
俺はその無垢な瞳を覗き込む。天を仰ぎ泣きそうに揺れる双眸は、濡れて美しい輝きを放っていた。
「いいか。だから、お前は絶対に赦される」
幼い子どもに言い聞かせるようにそう言えば、アスカは目を見開いて俺の方に向き直る。
「ここは、魂が降りる丘なんだ。今、その人はちゃんとお前の傍にいて、もうお前を赦してるよ」
そう伝えた次の瞬間、アスカはそっと瞼を閉じる。その拍子に、長い睫毛の間から光の粒が零れ落ちた。
きれいな形をした唇が、ほんの少し微笑みを象る。
「そうだったらいいな……」
儚いその姿は今にも消えてしまいそうで。
この世界に留めようと、俺は繋いだ手に力を込める。
お前を置いて亡くなった奴が今のお前を見ればきっとすることを、俺が代わってしなければいけない気がした。
「アスカ、おいで」
ほっそりとした肩に手を掛けた途端、アスカは身を起こして今まで我慢していたかのような勢いで胸に飛び込んできた。
小さく震える身体をしっかりと抱きしめて、宥めるように背中をさすってやる。
「大丈夫だから。いつか、お前は救われる」
アスカ。何の保証もない言葉でも、叶うと信じたいんだ。
それでお前が少しでも楽になるのだとすれば、俺は幾らだって願いを口にするよ。
草や土の匂いに混じった甘やかな香りを深く吸い込めば、体の隅々まで、えも言われぬ幸福感で満たされていく。
まるで初めて辿り着いた楽園にいるかのような、不思議な心地がした。
「カズミさんは、優しい人だね」
この世で1番美しい涙を流しながら、俺の鼻先でアスカがはにかむ。
「その優しさに、僕は今救われてる」
どちらからともなく唇を重ねる。啄ばむようなキスを何度も繰り返すうちに服の裾が捲られて、冷たい手が右の脇腹に触れた。
同じ箇所を何度も優しく指でなぞるその動きに、俺は気づく。
ああ、あの事故で残った傷を触っているんだ。
『カズミさんの生きている勲章だ』
初めてこの傷を見たときに、アスカがそう言っていたことを思い出す。
生きている勲章、か。
なあ、空。こんな俺でも、いつか訪れる未来に誰かを救うことができるだろうか。
プラチナの星が煌めく夜空の下で、俺はアスカと互いの存在を確かめ合うように、口づけを交わし続けた。
*****
「カズミさん、これからどうするつもり?」
帰路の車内で、不意にアスカがそう訊いてくる。
泣いて少し赤くなった目尻には、もう涙は滲んでいない。
これからのこと。そんなことを考えなければならない時が来るなんて、考えてもいなかった。
「さあ、なんせ俺はおおっぴらに他人様に言える生き方をしてないからな。何かをするあてもない」
そう答えながら、この2ヶ月間自分を突き動かしてきたものを失ってしまったことを、改めて実感する。
まるで根無し草だ。
あの男を殺すことだけが、俺の生きる目的だった。
それは遂げられなかったけれど、あいつはもう二度と俺の目の前に現れないということは確信していた。
俺とあの男の人生は、交わることはない。
「正直、何もしようと思えない。当分は抜け殻みたいに何となく生きてるんだろう」
他人事みたいに言って、俺はぼんやりとフロントガラスに映る夜の世界を眺める。
目の前に掲げていた大きな目的を忽然と失い、その衝立てが崩れた途端、漠然とした未来が途方もなく広がっている。そんな状況に身を置いたばかりの今、それを訊かれたところで答えようがなかった。
「僕、思うんだけど。カズミさん、救急救命士になったら?」
さも簡単なことのように言われて、俺は耳を疑った。
「─── え?」
「まだちゃんと諦め切れてない。だから、毎日身体を鍛えることは忘れてなかったんだよね」
そうじゃない、と言いたかったがそんな言葉は却って言い訳がましく聞こえそうで、代わりに至極真っ当な否定の理由を口にする。
「まさか。今更、なれるはずがないだろう。俺はこんなチンピラ紛いのことばかりしてきてるんだ」
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