深夜の薄暗いバーにいることがひどく落ち着く。先程までいた高級クラブの喧騒とは掛け離れた、訪れる客を静かに受け入れるようなこの店の雰囲気が気に入っていた。一人でいることに身体が慣れてしまっているのだろう。親戚の家と施設をたらい回しにされた子ども時代。大人の都合に振り回され、いつしか虚勢を張ることでしか自我を保つことができなくなっていた。けれどそれが自堕落な人生を送っていることへの言い訳に過ぎないことは、俺自身が一番わかっている。「どうぞ」目の前のカウンターにカクテルグラスが置かれた。その僅かな振動に、ガラスの中で白く濁る液体が小刻みに揺れる。頼んだ覚えがないカクテルだ。不審に思いながら視線を正面に移せば、グラスを置いたバーテンダーが軽く微笑む。「あちらのお客様からです」その言葉に後ろを振り返ろうとした途端、誰かが視界に飛び込んできた。「こんばんは」仄かな照明に浮かび上がるのは、艶やかな笑み。「トニックウォーターを」注文を口にして、軽やかな動きで俺の隣に腰掛ける。少年の面差しを残す若い男の姿に目を奪われる。一瞥すれば男であることは間違いない。なのに、性別を超えた美しさを纏い、全身からは色気が燻るように匂い立つ。精巧に作り込まれた人形のように整った目鼻立ちは、こちらが怖気づくほど完璧な微笑みを作っていた。「一人の方がよかった?」緩やかに注がれる、窺うような視線。見る者の心を絡め取る魅惑の眼差しだ。「いや……」「お酒はほとんど飲めないんだけど、このお店の雰囲気が好きなんだ」そう言いながらカウンターに置かれたグラスを手に、上目遣いで俺を見た。「僕の知ってる人にすごく似てるから、つい気になって声を掛けた」幼さを残した顔立ちだが、表情は大人びている。「僕たちの出逢いに」醸し出される独特の雰囲気に飲まれて、促されるままにカクテルグラスを手にする。二人のガラスがあたる澄んだ音が響いた。「乾杯」そっと口をつければ、酸味の効いた味が口の中にじわりと広がる。「ギムレットか」「そうだよ」頷きながら思わせぶりに口角を上げる。どこかで聞いたことがあった。ギムレットは何かの小説に使われていることで有名なカクテルなのだと。何だったか、確か──。「名前、何て呼べばいい?」鼓膜をくすぐる囁きに、思考は停止する。何者をも魅了する微笑みが目に入った途端、頭の芯がクラクラと痺れた。「瑛士」下の名前だけを名乗ると、美しい男は納得したように目を細めて頷いた。心臓の音がうるさい。随分酔いが回っているという自覚はあった。その証拠に、こうして見つめ合うだけで、妙な気を起こしそうになる。「エイジさんだね。僕は──」不意に何かの香りが漂ってきて鼻腔を掠める。花が昆虫を誘うような、濃厚な匂いだ。熟れた果実にも似たその香りは、酔いで理性のボーダーが曖昧になった脳を甘く痺れさせる。「アスカ」カウンターに置いている手の上に、繊細な手が重ねられた。触れる掌は少し冷たい。ふわりと花が開くように艶めく笑みが零れる。「素敵な夜になりそうだね」俺は既に、この美しい眼差しに囚われてしまっていた。この部屋の窓からも、リビングと同じように街の灯りが見下ろせる。窓辺に立ち尽くしたまま、アスカはガラスの向こうを一心に眺めていた。まるで、そこにいる誰かを必死に探しているかのように。あのバーを出てからタクシーに乗り込み、俺は今夜初めて出逢った男を自宅に上げてしまっていた。寝室が見たい。リビングに通そうとした途端そんなことを言われて、その言葉に素直に従っている。自分でもどうかしているとしか思えない。アスカはズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出して、そっとサイドボードに置いた。「夜景がすごくきれいだ」振り返りながら、きれいな形をした唇を開く。「素敵なところに住んでるんだね」女達を騙して巻き上げた金で借りているマンションだとわかっても、アスカはそう言うのだろうか。「飲み直そうか」俺の言葉に僅かに目を細めて、アスカは口を開く。 「ねえ、エイジさん」足音を立てずに歩み寄ってくる。まるでしなやかな猫のようだ。桜色の唇が、艶やかに言葉を紡ぐ。「男の人とセックスしたことある?」軽やかな足取りで歩きながら、着ているシャツのボタンを自ら外していく。反射的に小さく後ずさりをすれば、全てを見透かすかのような冴え冴えとした眼差しに捕らえられた。心臓を射抜くようなその視線に、身動きもできない。「……いや」やっとのことで首を横に振れば、俺の目の前に立つアスカは、見る者の理性を根こそぎ絡め取り引き剥がしていくような美しい微笑みを見せた。「よかった、じゃあ」身に纏っていたシャツが、するりと肌を滑り落ちる。「僕が初めてだね」 - 1 - bookmarkprev next ▼back