the 1st day[1/6]

事務所に戻ると、四人のボーイが待機していた。
まだ仕事が入りにくい時間帯だ。本当に賑わうのは夜。それでも、この店は客が途切れることがないし、ノルマノルマとうるさく言われることもない。

「ヒナ、おかえり」

人懐こい笑顔でユイが俺を迎えてくれる。
ユイは小柄できれいな顔をしてる。黙っていれば女の子にしか見えない。だから休みの日に街を歩いていると、しょっちゅう男にナンパされるらしい。年齢は俺と同じで、このゲイ専門デリバリーヘルス『CAGE』不動のナンバーワン。
顔もきれいだけど、心もきれいだ。かわいくて親切で、ユイを見てるとまるで天使が地上に降りてきたみたいだと思う。
俺がこの仕事をすることになった時に、住込み先の寮で仕事や人間関係、ここでやっていくために知らなければいけないことを丁寧に教えてくれたのはユイだった。だからユイは、この店で俺が唯一信頼してる大切な友達だ。

「新しいドライバー、どう?」

ユイもやっぱりアスカのことが気にかかってるらしい。隣の席に掛けながら、俺は答える。

「こういう仕事は初めてだって言ってたけど、しっかりしてる。若いけど運転は上手いし、よく気がつく感じ」

「あの人、あんなにきれいなんだからドライバーじゃなくてボーイになれば絶対売れるのにね。店長が食いついて散々こっちに誘ったらしいよ。だけど、どうしてもドライバーがいいって断られたんだって」

そんなことを言いながら、ユイはいつもの甘そうなホットミルクティを飲んでいる。
ユイがどうしてこの仕事をしてるのか、俺は知らない。俺みたいに訳ありなのかもしれないけど、少なくとも嫌々この仕事をしてるような感じじゃなかった。
おもむろに事務室の扉が開く。途端に、ユイが花の咲くような笑顔を浮かべた。その顔を見ただけで、振り返らなくても誰が入ってきたかわかる。

「ユイ、指名だ。用意しろ」

この店のマネージャーを務める澤井さんは、多分二十代後半ぐらい。いつもスーツをカッチリと着こなして、洗練された雰囲気を漂わせてる。長身で整った顔立ちだから、密かに澤井さんに憧れるボーイは多い。でも俺は寡黙で無表情な澤井さんがちょっと苦手だし、会うと変に緊張してしまう。それは、澤井さんとの初対面がこの店の実技講習の時だったからかもしれない。
ユイはニコニコしながら澤井さんの後に続いて、俺に手を振ってきた。

「ヒナ、あとでね」

事務室を出て行く二人を目で追いかけながら、俺は複雑な気持ちになる。
ユイは澤井さんのことが好きだ。見ていれば嫌でもわかる。澤井さんと同じ空間にいるとき、ユイの表情はガラリと変わる。うっとりとした眼差しで澤井さんを見つめるユイは、俺でもドキリとするぐらいかわいい。
好きな人がいて、しかもその人の前でこんな仕事をしてることを、ユイはどう思ってるんだろう。辛くないのかな。
ユイは俺には理解できない次元で生きてるのかもしれない。
もし、俺だったら──それが不毛な想像だと気づいてやめる。
まだ今日は長いから少し休もう。溜息をついてゆっくりと机に突っ伏した。

もうずっと昔のことみたいに感じられるけど、まだほんの数ヶ月しか経ってない。
大学に入って、二ヶ月もした頃だ。
地方から出てきて初めての一人暮らし。学生生活にも慣れてきて、友達もできて、合コンに参加して、飲食店でのバイトもそれなりにこなして。何の気なしに受けて入った大学の法学部だけど、いろんなことが新鮮で、授業もわりと真面目に受けてた。俺は本当に普通の大学生で、毎日を当たり前のように平穏に過ごしてた。
そんなある日、何となく思い立って久しぶりに母親にメールを送った。今思えば虫の知らせだったのかもしれない。内容は全然大したことじゃなくて、俺はこっちでちゃんとやってるから心配いらないとか、そんな感じ。
ところが、送ったメールが送信エラーで返ってきた。何回送っても同じだ。
母親がメールアドレスを変えて、こっちに伝え忘れてるのかもしれない。その程度にしか思わなくて、俺は電話もしなかった。
もし、あのとき電話してたら? 時々そんな仮定をする。でもきっと何も変わらなかっただろう。
その夜、バイトを終えて帰宅すると、マンションの玄関前に知らない男達が立っていた。
ヤバイなと直感的に思った。皆濃い色のスーツを着て身なりはきちんとしてる。でも揃って人相が悪くて、眼光が鋭かった。

『:藍原陽向(アイハラヒナタ)くんだね。ご両親のことで話があるんだ』

逃げるなんて選択肢はなかった。俺はこいつらから逃げ切れない。本能的にそう気づいたからだ。
任意を装った強制力の下、俺は男たちの車に乗り込む。それ以来、家には帰ってない。
車は俺の知らない道を延々と走り続けた。車内では誰も口を開かなくて、ただ重苦しい沈黙が流れてた。
一時間も走ったところで車を降りると、そこが大きな繁華街だということに気づいた。男達に続いて薄暗い雑居ビルに入る。
ビルのテナントの一室に案内された。何の業種かもわからない会社の応接室で、一番眼光の鋭い男から話を切り出される。
俺の父親は小さな工場を切り盛りしてて、経営はそれなりにうまくいってた。なのについ一ヶ月ほど前、一番の得意だった取引先が突然経営破綻したことで、父親の工場まで打撃を受ける。
資金繰りに困った父親は、銀行を巡って融資を受けようとする。それでも間に合わなくて、俺を連れてきた奴らの会社から五百万円の借金をした。そして、昨夜から俺の実家はもぬけの殻になっている。要約すると、こんな話だった。
俺はやっと気づいた。母親と連絡が取れなかったのは、そういうことだったんだ。

『陽向くんが働いて、ご両親の代わりに返済してくれないかな』

男の口調は穏やかだったけど、目は全然笑ってなかった。

『働くって……』

言葉に詰まる俺の頭から爪先まで、男は舐めるように見つめた。

『うちの会社の傘下で、ゲイ専門の風俗業をしてるんだが』

ゲイビデオか、ソープか、デリヘル。選ばせてやる、と男は微笑んだ。

『ふざけんな』

思わずついて出た言葉に、男は片眉を上げる。次の瞬間、俺は掛けていたソファに押し倒されていた。喉元に押し当てられた手の冷たさに、何かが背筋をゾクゾクと駆け上がる。変な汗が一気に噴き出てきた。
その冷たい眼差しが、俺に語り掛ける。

──お前なんて、どうにでもできるんだ。

身動きもできないまま耳元で囁かれる、悪魔の言葉。

『お前の親と一緒に逃げてる妹、綾乃ちゃんだっけ』

俺は息を飲む。怖くて堪らないのに、目が逸らせない。

『嫌なら、探し出して交代させてやるよ』

俺は諦めた。何をって? 何もかもだ。
その三択で、俺はデリヘルを選んだ。理由は簡単。この中で本番をしなくていいのがこれだけだったからだ。
その瞬間から、俺は何もかもを奪われた。唯一の連絡手段である携帯電話も、平和な日常も、もしかしたら待っていたかもしれないそこそこ幸せな未来も。

『淋しくなったら、帰っておいで』

上京する日の朝、俺に向けられた母親の言葉がまだ耳に残ってる。俺にはもう帰る家はない。
寡黙で職人気質だった父親。おっとりして優しかった母親。生意気だけどかわいいところもある妹。
頼むから無事でいて。頼むから見つからないで。俺が全部引き受けるから。
絶望の中で覚悟を決めた俺を待っていたのは、未知なる性風俗の世界だった。








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