the 3rd day[1/2]

目が覚めると、リビングの天井が見えた。
どうやらソファで二人折り重なるように眠っていたらしい。頭がガンガンと響くように痛い。
顔を上げると俺に被さるアスカと目が合った。てっきり寝ているものだと思っていたのに、目を開けてただじっとしていただけだった。

「おはよう、リュウジさん」

アスカは顔を上げて微笑んだ。どことなく痛々しい笑い方だ。

「……水」

貼りつくように渇いた喉で絞り出した声は酷く掠れている。アスカは起き上がり、俺の腕を引っ張った。

「一緒に歩ける?」

手錠を外せばいいじゃねえか。そう言いたいのに、声が出ない。俺はアスカに支えられて渋々起き上がる。
おぼつかない足取りでキッチンまで歩いてミネラルウォーターを飲むと、ぼんやりしていた意識が少しずつ戻ってきた。

「シャワー、浴びようか」

アスカは今度は俺を浴室まで引っ張っていった。
その瞬間だけ手錠を外し、俺たちは服を脱ぐ。全裸になればすぐにまたアスカは互いの手首を繋ぎ直した。
シャワーを浴びているうちに、身体中を回っていた酔いが少しずつ醒めていく。
風呂から上がれば、アスカはバスタオルで俺の身体を丹念に拭いた。

「そうだ、金魚に餌をあげないと」

服も着ないまま、アスカは俺を寝室まで連れて行く。金魚に餌をやると、今度はベッドに寝るように言ってくる。
俺はアスカに言われるままに横たわった。天井がゆっくりと回っていて気持ち悪い。

「リュウジさんの話が聞きたい」

まだ性欲を満たせるほど身体は動きそうになかった。視線を合わせれば強く真摯な眼差しに目を奪われる。

「……つまんねえ話だよ」

退屈しのぎに、俺は翔子と航太との想い出を語っていく。





結婚して5年目に、子どもが出来た。
翔子の妊娠がわかったとき、俺は素直に喜べなかった。子どもに翔子を取られるような気がしたからだ。だが、実際産まれてみれば子どもはかわいかった。
初めて我が子をこの腕に抱いたときのことは、今でもよく憶えている。俺の親指を握るこの小さな手を、生命に換えてでも守らなければいけないと心から思った。

『どんな荒波も乗り越えていけるように』

航太。俺がお前に与えた最初の贈り物は、その名前だった。
歳月を経て航太は健やかに成長していく。翔子は良き妻であり、良き母でもあった。慈しみながら航太を愛し、それまでと変わらず俺を愛した。

『琉司さんは長男、航太は次男』

翔子はそう言って陽だまりのような笑みを浮かべる。
三人で手を繋げば幸せは永遠に続く気がした。





航太が3歳になってすぐの夏祭りだ。
俺は航太と一緒に金魚すくいをした。小さな手に手を重ねて掬った金魚はたったの三匹だった。
家に持ち帰ってから水を張ったバケツの中に入れたが、翌朝には二匹が死んでいた。号泣する航太を見て、俺は慌てて水槽を買いに走った。
新しい水槽に移した金魚は、赤と金の混じる美しい体を揺らしながら優雅に泳ぎ回った。

『ぜったいに、しんだらだめ』

航太が金魚に懇願する。なんと無邪気な願いなのだろう。
俺と翔子は死なないようにと祈りながら交互に金魚の世話をした。





「子どもって、かわいい?」

「かわいいさ。愛する女との血を引いてるんだからな」

そう答えるとアスカはそっと目を伏せた。睫毛が長く影を落とす。

「男の人って、やっぱり自分の子どもを産んでくれる人を愛おしいと思うのかな……」

何か引っかかるような言い方だった。アスカは眉根を寄せながら瞼を閉じる。嫌な記憶を反芻しているかのように。

「そうとも限らねえよ」

俺の言葉はアスカには届いていないのかもしれなかった。





秋空が美しく澄み渡る日だった。
航太が幼稚園から帰ってきたら、二人で近所に買い物へ行ってくる。翔子からは、そう連絡を受けていた。
いつもなら、どれだけ遅くとも夕食を作る時間までには帰ってくるはずだった。なのに午後6時を過ぎても連絡がない。職場で答案の採点をしていた俺は、苛立ちながら翔子に電話を架けた。

『森川翔子さんのご主人ですか?』

翔子の携帯に出たのは知らない男だった。大きな病院の名前を告げられた俺は、これ以上ないぐらいに車を飛ばしてそこへ向かった。どこをどう通ったのかも憶えていない。事故を起こさなかったことが奇跡だった。
病院に着いた俺が案内されたのは、病室ではなかった。霊安室だ。
ドラマのようだな。不謹慎にも俺はそう思った。

翔子と航太は二人で手を繋いで歩道を通っていた。そこへ、乗用車が突っ込んできた。即死に近い状態だったのだという。
俺の目の前に、顔に白布が掛かった遺体が横たわっている。長く美しい髪をした女と、小さな子どもだ。
俺は震える手で子どもの白布をめくった。

『パパ、いってらっしゃい』

今朝、玄関で俺を見送ってくれた航太が目を閉じていた。いくつかの小さな切り傷が付いているが、きれいな顔だった。その頬にそっと触れれば、いつもはつやつやとしている皮膚は、かさついてひんやりと鉛のように冷たかった。
俺の生命に換えてでも守らなければならなかった航太。その生命の灯火は、既に消えていた。
震える手で白布を掛け直した俺は、もう一方の遺体に近づく。
ゆっくりと白布をめくると、俺が散々束縛してきた愛する女の顔が見えた。

――翔子。

俺はいつものように呼び掛けた。顔には傷ひとつなく、眠っているように見えたからだ。

『琉司さん、おはよう』

今にもそう言って起き上がりそうだった。
翔子。お前、いつも俺より早く起きてるじゃないか。こんなところで寝てないで、目を覚ませよ。
翔子。翔子。

気がつけば俺は後ろから数人に羽交い締めにされていた。
後日聞いたところ、そのとき俺は翔子の身体を寝台からずれ落ちそうなほど必死に揺さぶっていたらしかった。
翔子と航太がいれば何もいらなかった。なのに、二人は何の前触れもなく突如俺の前から消えてしまった。
俺は世界の全てを失った。航太と金魚を掬ってから、たった二ヶ月後のことだった。
二人を轢いた運転手もまた即死だった。俺には怒りや哀しみをぶつける矛先さえ残されなかった。

その日から俺は恐ろしく多くの事柄についての対応に追われた。病院の関係者、警察、葬儀屋、保険屋、親族。矢継ぎ早に様々な者が俺の前に来ては、淡々と手続きを進めていく。
葬儀というのは不思議なもので、一番衝撃が大きなときに慌ただしく進められることで遺族の哀しみを麻痺させるようになっているらしい。俺は大勢の人間に囲まれながら、しなければならないことを事務的に処理していった。

気がつけば告別式が終わっていて、翔子と航太の肉体は荼毘に付され、この世界から消えていた。
この世の果てのように静かな火葬場で、俺は親族と共に二人の骨を拾って骨壺へ入れていった。
翔子の骨は、全部は入り切らなかった。焼け残って変色した結婚指輪を、俺は箸で拾って骨壺へと入れた。
航太の小さな骨は、殆どが骨壺に収まった。
やっと独りになった夜、俺は泣きながら翔子と航太の骨壺を抱いて寝た。

事故の慰謝料と保険金は莫大な額に上り、俺の懐には一生働かずに済む程の金が入った。
金はいらないから、翔子と航太を返してくれ。無理だと知りながら本気でそう願った。
俺は教師を辞めた。働く意味を失ったからだ。




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