第18章 群青シャットアウト

 
 まだ目がぼやったい感触がする。
 早朝。風呂場に設置されている鏡の前。洗面台もないワンルームに住む私はいまだ腫れぼったい瞼と必死に睨めっこをしている。目が開かないせいで見にくく、睨めっこは半分くらい腫れに負けている。原因は分かりきっているが、それにしても酷い腫れだ。
 
 なんでちゃんと処置しなかったんだよ……昨日、泣き疲れて家に帰ってからすぐに眠ってしまった自分に文句を垂れる。それだけでは収まらず、鏡の向こうに映る赤らんだ瞼の自分を恨みがましく数秒睨んだが、諦めてため息をついた。早起きして正解だ。これは治すのに一苦労しそうだが、クラスメイトやサッカー部の面々にこんな顔は絶対に見せたくない。大きな決意を固めると、冷凍庫をがばりと開けて保冷剤を手に取った。緊急処置の時間だ。





 
 その1時間後。
 いつもの時間にいつもの場所で、豪炎寺と待ち合わせして学校へ向かう。
 
 この習慣にも慣れたもの。私も豪炎寺も早めに準備をして到着するタイプなので、待ち合わせにどちらが早く着くかはランダムだが、今日は豪炎寺の方が早かったようだ。「おはよー」少し遠目から手を振ると、片手に本を持ち読書をしていた豪炎寺はそっと顔を上げて小さく笑みを浮かべた。



「おはよう、葵」
「ごめん、待った?」
「いや、ちょうどさっき本を開いたところさ」



豪炎寺は本を閉じて鞄に入れた。いつもは待ち合わせの数分前には到着するのだが、実は今日は少しだけ待ち合わせより遅い。口ではそう言ってるが待っていたはずだ。相変わらずのスマートな優しさが、嬉しいしありがたい。
いつものように豪炎寺と歩きだすと、そっと彼の方を盗み見た。いつもと様子は変わらない。よかった、応急処置は効いたようだ。



「……?葵、俺の顔何かついてるか」
「ううん、なんでもないよ。いつも通りだなって思っただけ。……ふふ、さ、いこ」



 豪炎寺が不思議そうに顔を傾げるのを楽しげに見つめながら、学校へと向かう。
 もうすぐ学校だというところで、今度は校門より前の通学路で高級車を見つけた。あのお坊ちゃんがいる場所はわかりやすい。「あれ鬼道だよね」「ああ」言っている間に、執事に扉を開けてもらって鬼道が降りて来た。



「豪炎寺、神崎。おはよう」



 本当に昨日と全く変わらない太々しい態度だ。ただし、昨日の大目立ち事件のことは覚えてくれていたのか、校門前で降りるのはやめたようだ。鬼道と一通り挨拶を交わすと、鬼道がさりげなく私の様子を見ている気配がした。豪炎寺は誤魔化せたが、鬼道には目が腫れ気味なのはばればれだろう。私は横に並んだ鬼道に小さく口早で言った。



「昨日、その、ごめん。助かった」
「ふ、いいさ。気にするな」



 本当にいつも通りの様子に安心する。鬼道の口から昨日のことが漏れることはまずなさそうだ。
 会話が聞こえて来た豪炎寺は疑問符を浮かべる。



「葵、鬼道、なんの話だ」
「豪炎寺。ううん。なんでもない。鬼道が案外優しかった、て話」



 にこりとしてそう言うと、間髪入れずにツッコミがきた。
「お前、本当にそう言うところは天然だな……」鬼道が呆れたような表情でこちらを見ている。私に対して言ってる?失礼な。「は?なにいってんの」間髪入れずに言い返すと、鬼道は大仰な仕草で首を振った。本当にいちいち喧嘩を売ってくるな鬼道。



 「いやこっちの話だ。お前のそれは今に始まった話じゃ無い。……ああ豪炎寺、気にしなくていいぞ。俺は此奴のことなんとも思ってないからな」
 「はあ?何とも思ってない?失礼すぎない?」
 「ほら見てみろ、こんな可愛げの無い反応ばかり返してくる」


 
 豪炎寺は絶えず苦笑気味にくすくすと笑っている。ほら、豪炎寺に笑われてしまったじゃないか!



「葵と鬼道は妙に仲が良いというか……息はぴったりだよな」
「ぴったりじゃない!」「ぴったりじゃないぞ」



 そういうところだ、と豪炎寺は笑った。
 それが、3人で登校する最後の日になるとも知らずに。



 
 第18章 群青シャットアウト

 


 それからまた数日が経っていた。また転校生がやってきた、らしい。
 アメリカからの帰国子女だとクラスでも早速話題になって女子たちが騒ぎ立てている。昼休みだというのもあり女子のあまり囃し立てる気にもなれず廊下の方をなんと無しに眺めると、不意に教室の向こうの窓を茶髪が横切った。



 ――――フィディオ!?



 驚いて思わずがたりと席を立つ。前で読書をしていた豪炎寺や近くのクラスメイトが吃驚してこちらを向いたのを気にも止めず、慌てて教室を出てシルエットを追いかけた。目当ての生徒は果たして……いた。土門と楽しそうに話しながら廊下を歩き、やがて教室へと入っていく。茶髪を横に流している茶色の目をした男の子。見た目は生粋の日本人だ。フィディオでは……ない。

 なんだ、見間違いか。どくどくと跳ね上がっていた鼓動が落ち着くのを感じる。フィディオが追いかけてここまでやってきたのかと思ってしまった。今はイタリアもフットボールフロンティアの途中だから、そんなことあるわけがないのに。
 落ち着こうと深呼吸をしたら、そっと肩に手を置かれた。横にはいつの間にか豪炎寺が立っており、心配そうに私の様子を伺っている。



「葵、大丈夫か?」
「豪炎寺……、うん、ちょっと知り合いに似てるなと思って……」



 豪炎寺はそうか、と安心したように笑みを浮かべ、男の子が過ぎ去った方を見ていた。「一之瀬を見ていたのか?」一之瀬?突然出て来た名前に首を傾げ、オウム返しのようにその名前を繰り返した。豪炎寺は彼を知っているようで、すらすらと教えてくれる。



「今日転校して来た奴だ。一之瀬一哉。アメリカに居たらしいが、円堂と意気投合してこっちでサッカーをしたいと言って」
「い……、一之瀬一哉ぁ!?」



 有名人じゃないか!
 豪炎寺の言葉を遮り、思わず叫んだ。今度はクラスがしんと静まり私を見る。まずい、大き過ぎた。「ご、ごめん何でもない……」小声で言うと恥ずかしくなって豪炎寺の服を少し掴み、早歩きで自分の席に戻った。おいおい、とか、大丈夫かよ、とか笑い声がいくつか聞こえ、次第に元のクラスの空気に戻った。あたたかいクラスで助かった。
 
 どうやら豪炎寺が一番吃驚したようで固まっていたので、ぺちぺちと右頬を叩いた。少ししてはっと意識が戻ってくる。いや本当に申し訳ない。



「葵、お前一之瀬と知り合いか」
「う、ううん初対面。でも一之瀬一哉ってあの”フィールドの魔術師”でしょ。アメリカの。雑誌でも取り上げられるくらい有名だよね?イタリアで聞いたことあったの」
「そうか」



 詳しく言ってしまえば、フィディオが一度彼のプレイを見て興奮気味に話しかけてきたことがあった。フィディオは超がつくほどサッカーオタクだ。特にテクニックの研究には余念が無く、自分ができるようになるまでひたすら動画を見るのなんて日常茶飯事。以前、偶然一之瀬が映る試合の動画を見た時も食い入るように見つめて、一之瀬のプレイをそれは絶賛していた。



「見ろよ葵!このイチノセってやつ、自分のプレイで味方や相手の動きを誘導してるんだぜ!?フィールドの魔術師と呼ばれるだけのことはある…!」



 その時のフィディオの時の表情はよく覚えている。一瞬で夜空を駆けていく流れ星を夢中で追いかけるかのように青い瞳をきらきらと瞬かせて、画面の中の彼らを追いかけていた。
 フィディオの表情を思い出すと、自然と顔が緩んだ。そうか。あの時の選手が雷門に来たのか。きっとフィディオが知ったら羨ましがるだろうな。



「そういえば鬼道も一之瀬のことを知っていたな」
「ああ、鬼道は選手の情報を調べ尽くしてそうだね……」



 豪炎寺の言葉に、思わず呆れを滲ませて頷いた。きっとフィディオと同じ雑誌でも読んだのだろう。
 なにせ私の住所まで調べていたやつだ。鬼道がアメリカで活躍する日本人選手の情報を知っていたって不自然じゃ無い。



「一之瀬一哉か……一度お手合わせしてみたいものだけど」
「頼んだらすぐにしてくれると思うぞ。何せ、円堂と同じくらいのサッカーバカだ」
「お、それは間違いないね。ということは、もしかしなくてもサッカー部に?」
「ああ。円堂と一緒にプレイしたいってだけでアメリカ行きのチケットを破って雷門まで転校してきたやつだからな」
「すっご……」



 思っていたよりもサッカーバカだった。フィディオとも気が合いそうだ。
 次はとうとう全国大会の準決勝だし、一之瀬の活躍も見られることだろう。今の状況の中では、手合わせをすることは難しそうだが。
 試合を見られることを楽しみにしておくね、そう微笑むと豪炎寺はほんの少しだけ表情を暗くした。なぜだろう。喜ぶかと思ったのだけれど。



「豪炎寺、何かあった?」
「……」



 私の問いに豪炎寺は口を引き結ぶ。否定は、無い。何かあったのは確かだろうが。事情を話すつもりは無いらしい。あまりすっきりとしない表情だ。どこかで見たことがあるような顔だと思った。そう、あのときだ。転校してきて間も無いとき。まだサッカーは辞めたのだと苦しそうに守に言ったとき。夕香ちゃんのことを思って耐え忍ぶような顔をしたとき。
 そしてその表情を見て、私は昨日のことを思い出した。鬼道のあたたかな手のひらの感触。ずっと冷静で落ち着いて硬い印象があったのに、あのときだけはほんの少し柔らかくなった、声。



「誤魔化すとき、少し表情が硬くなる」
「安心しろ、俺はお前を暴きにきた訳ではない。お前に借りを返しにきたんだ」
「きっと、この間お前がしてくれたことは周りから見れば”おせっかい”だ。だがな、そうだとしても、俺はお前の言葉のおかげで引き上げられたんだ。俺はお前がくれた”おせっかい”を返したいだけさ」



 きっと、豪炎寺の中でも私と同じことが起こってるんだと思った。いつの間にか作り上げてしまった心の壁が、私と豪炎寺を少しだけ隔てている。それが悪いことだとは思わない。でも。



「ね、豪炎寺」
「なんだ?」
「抱え込みすぎちゃだめだよ」
「……、葵」
「きっと豪炎寺のことだから、倒れることなんてないんだろうけど。でも、あんまり抱え込みすぎちゃだめだよ」



 私から事情を聞くことはしないでおこうと思った。豪炎寺が必要無いと感じたのであれば、私が豪炎寺を問い詰める必要などない。それでも、もしも豪炎寺が話したいと思ったとき、話しやすい場所だけは開けておきたかった。
 豪炎寺は少しだけ目を見開いて、数秒ののちにふ、と笑みをこぼした。先程の硬さが少しだけ柔らかくなったような気がした。



「ああ。……ありがとう」
「ん。準決勝、応援してるね」



 多くの言葉は要らなかった。私の言葉をじっくりと咀嚼するかのように、豪炎寺は静かに佇んでいた。
 私はまっすぐ豪炎寺の瞳を見た。豪炎寺の黒い瞳は、迷いの無い澄んだ色をしていた。







 日曜日になり、フットボールフロンティアの準決勝の日を迎えた。
 前日の夜の携帯にはいつも通り、応援してくれというメールが何通も来ていた。少しずつ増えてきていて、今回は一年生や春奈まで送ってくる始末だ。他の人にもしてるのかと呆れたが、どうやら送られてくるのは私だけのようだ。以前何故かと部員に聞いてみれば、豪炎寺とメールのやり取りしていたことがあれよあれよと広まり、今では神崎にメールで応援してもらえたら試合に勝てる、という軽いジンクスになっているらしい。私は勝利の女神か何かとでも思っているのだろうか。呆れたけれど、皆が必死なのが面白かったので、律儀にそれぞれ返信してやった。これは勝ってもらわないと割に合わない。
 
 古くて小さなテレビの電源をつけた。そろそろ準決勝が始まる時間だ。テロップでは雷門中と対戦相手の学校名が表示されている。木戸川清修。豪炎寺が以前通っていた中学校。サッカー部の面々からのメールを見て、先日の口を引き結んでいた意味を知った。瞼を閉じて静かに眠り続ける三つ編みの少女が脳裏を過った。



 ――――夕香ちゃん。



 「一年前、事故に遭ったんだ。俺がまだサッカーをしていた頃……この時期の、丁度フットボールフロンティアの決勝戦が始まる直前だった。俺はレギュラーで、応援しに来てくれようとした夕香は、来る途中トラックに轢かれて……」



 決勝戦の、直前。夕香ちゃんの寝顔を悲しそうに見つめて豪炎寺はそう言っていた。
 
 夕香ちゃんが事故に遭った後、豪炎寺がどう行動したのかは想像に難くない。帝国の40年間無敗記録がそのとき何が起こっていたのかを物語っている。決勝戦が終わった後、木戸川清修のサッカー部で何が起きたのかも。

 テレビの中に雷門中サッカー部が映る。ベンチで何かを話している豪炎寺の姿は小さく、表情は窺い知ることができない。だが佇まいは見えた。凛とした立ち姿。背筋がしゃんと伸びていて、確固たる自信が伝わってくる。

 きっと、大丈夫だ。サッカーができず苦しそうにしていたあの頃の面影はもう少しも見えないから。いつもの真っ直ぐで、内に秘められた情熱を感じられる黒い瞳を思い浮かべた。おそらく今このときも、その熱は絶えず燃やされ続けている。そう確信して、試合の開始を待った。



 ぷるるるるる。



 然し、試合が始まる直前というところで、異質な音が鳴り響いた。部屋の真ん中に置かれている木製のテーブルの上で、携帯のバイブが振動してがたがたと揺らしている。私に電話をかけてくる人物など、2人しかいない。
 試合は気になるが仕方がない。フィディオなら後でにしてもらおうと携帯を開いたところで、私は目を見開いた。

 電話の相手は瞳子姉だ。

 すぐに応答ボタンを押す。瞳子姉が電話をかけてくることは滅多にない。何か情報を掴んだのだと考えて間違いなかった。
 


「姉さん?」
「葵!」


 
 お互いの名前を呼ぶのはほぼ同時だった。瞳子姉の声を聞くのは久しぶりだ。だが、いつもの平静さは無く、声には焦りが滲んでいる。
 


「もしもし、姉さん?なにかあった?」
「エージェントが、動き出したわ!」


 
 私の問いかけに寸分の余白もなく、瞳子姉は切り込んできた。エージェント?驚愕に目を見開き、うそだ、という言葉が小さく溢れた。もうすぐだとは思っていた。だが、今なんて!テレビを見れば丁度準決勝が始まったところだった。楽しみにしていた試合だが、見る余裕はもうなくなってしまった。彼らが勝てますようにと心の中で祈り、思考をこちらへ完全に戻す。

 瞳子姉は私のこぼした言葉に、いいえ、本当よ、と言い聞かせるように返答すると、落ち着かせるような声音で説明した。



「今私は三重にいるわ。エージェントを大阪の方で偶然見つけて、しばらく尾行していたのよ。…そして、わかったことがある」
「、なにがわかったの!?」
「いい、葵。落ち着いて聞きなさい」



 瞳子姉はそこで一息ついて、言った。


 
「エージェントは中学校を偵察している。それも……フットボールフロンティアで出場し、勝ち上がったチームを次々とね」



 一瞬を静寂が支配した。耐えきれずに冷や汗が頬を伝っていき、ぽたりと床に落ちる。今言われた内容が、頭の中でリフレインしている。フットボールフロンティア。偵察。勝ち上がったチーム。エージェント。吉良星二郎。ハイソルジャー計画。強化された子どもたち。5つのチーム。


 ……まさか。



「まさか……ハイソルジャー計画で狙われているのは……」
「ええ。彼らはおそらく、フットボールフロンティアでサッカーへの関心が最高潮に盛り上がったところを狙うつもりだわ」



 そして、狙われる先ももう想像がついていた。
 顔が真っ青で震えたまま、テレビへゆっくりと視線を戻した。テレビの中では雷門と木戸川清修が戦っている。そう、雷門が。私の幼馴染と、友達と、後輩があそこで必死に戦っている。何も知らずに、ただ目の前だけを見つめている。



 ――――雷門も、標的なの?



 私の友達が、私の家族に潰されるのか。その光景を想像するだけで吐き気がした。連鎖的に引っ張り出されて、2年前の光景が過ぎった。ハイソルジャー計画のユニフォームを纏った家族が皆揃って、暗く冷たい感情の見えない瞳で私を責め立てているのが見える。お腹がきりきりと酷く痛んでいた。
 私の様子を知ってか知らずか、瞳子姉は話を続ける。



「確信を持ったのは、此処が普通じゃ来ない場所だから。三重って言ったでしょう。エージェントが偵察していたのは戦国伊賀島中学よ。葵も知ってるんじゃない?」
「……雷門が、全国の一回戦で当たったところだ……」


 
 知っているも何も、宮坂と共にスタジアムまで足を運んだのだ。一朗太に勝負を挑んだ選手のことも、忍のような立ち振る舞いで雷門を翻弄した戦国伊賀島の選手たちも、忘れる訳がない。今思えば、なんて無謀なことをしてしまったのか。焦りが体の奥底からじわじわと迫り上がってきて、思わず唇を噛んだ。



 「おそらく彼らはすでに全国大会出場校の偵察に移っているわ」



 それは、雷門へ偵察に来る日も遠くないと。そういうことなのだろう。
 瞳子姉はこちらの様子を探るように一瞬の間を空けた後、私を諭すようにゆっくりとはっきりと言った。



「葵、逃げなさい」
「……瞳子姉」
「もう悠長は無くなったわ。間違いなく雷門は標的になる。偵察へまだ来ていないのが奇跡なくらいよ」
「…………」
「……葵。そこはとても危険なの。私たちが彼処から出てもう2年が経っているのよ。ハイソルジャー計画がどのように進んでいるか、私たちは知る術がない。フットボールフロンティアで出場した彼らを使って、どんな方法で世間の関心を得ようとしているのか、私たちには全く分からないのよ。……だから、今すぐ逃げなさい」
「…………」
「ッ、葵!」


 
 瞳子姉の声は切羽詰まっていた。私はハイソルジャー計画で重要な立ち位置を占めている。私が敵であるか、仲間であるかは計画に大きな支障が出る。私が捕まる訳にいかないことは、私自身が一番よく分かっている。

 だが、瞳子姉の言葉に頷くことはできなかった。私はテレビの方に目を移し、考えていた。家族のこと。お父様のこと。――雷門のこと。

 雷門は木戸川清修の3TOPに翻弄されていた。なかなか上手く責められない展開に歯痒そうにする雷門イレブン。然し同時に、守がチームに呼びかける声がテレビから微かに聞こえた。揺るぎのない声だ。いつもと同じ。絶対に勝利を諦めない強さを秘めている。ずっと変わらなかった。その変わらない真っ直ぐな思いが、豪炎寺を変えた。サッカー部の皆を、土門を、鬼道を変えたのだ。



「…………姉さん。一つだけ、いいかな」



 私は焦るべき状況であるにも関わらず、思っていた以上に落ち着いていた。今から言うことが瞳子姉にとって突飛なことであるのは分かっていた。それでも、この考えを言うのなら今しかなかったし、瞳子姉には伝えておくべきだと思っていた。

 瞳子姉はちっとも良くなさそうに焦燥感を空気に滲ませていたが、私が譲る気がなさそうな雰囲気を察すると、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸を一つ落とした。



「……いいわ、聞いてあげる。なにかしら」



 ぶっきらぼうな言い方だったが、話を聞く体制には入ってくれていた。瞳子姉の不器用な優しさだった。

 私は少しの間、サッカー部と出会ってからの日々を思い出していた。転校してきた日、まっすぐに友達になってくれた秋のこと。サッカー部の皆とプレイすることができた、一瞬のこと。豪炎寺が日常を当たり前のように隣で過ごしてくれたこと。一郎太が私の内側にそっと踏み込んできてくれたこと。鬼道が私と真正面から本音でぶつかってくれたこと。昨日の心地の良いゆるやかな時間のこと。

 守のこれっぽっちも変わらない、あたたかくて明るい笑顔のこと。



「私は日本に帰ってきて、これまでずっと雷門中のサッカーを見てきた。……確信したよ。きっと、ジェネシスに勝てるのは……お父様の計画を根底から覆すのは、このチームしかいないって」
 


 帝国学園との最初の試合を見ていた。噂に聞いていた通り、サッカー部自体は7人だけで助っ人を無理矢理集めてきてできた即席チームで。みんな身体をぼろぼろにして、一人は怯えて逃げ出してしまうほど、あの時の彼らは弱くて。
 それでも、諦めない心だけがそこにあった。その思いに突き動かされて、私はフィールドに立ち上がったのだ。

 練習と試合を繰り返して、強くなっていく雷門を見ていた。困難の方がずっとずっと多くあったけど、みんな楽しそうに、いつも明るい表情を浮かべてサッカーをしていた。1人ではなく、みんなで力を合わせて勝利を掴むことが、彼らにとっては当たり前で、サッカーをする理由だったのだ。
 私はそれが羨ましかった。影山に存在を認知され、それでも尚留まり続けたのは、彼らがサッカーをしてる姿に過去を重ねていたからだった。



 「……先日言っていた"何か"の答えが出た、そういうことかしら」



 瞳子姉の言葉に頷いた。帝国との決勝戦の後。此処にいたいと言ったあの時の私には、どうして彼らを見ていたいと思ったのか、分かっていなかった。でも、彼らをずっと眺めていて、過去と重ねて気付いた。私――否、私たちがずっと求めていたものはそこにあったのだと。

 お父様はずっと過去に囚われている。昔、お父様に一人息子がいたことも、その息子がサッカーをしていたことも、その息子がヒロトに似ていることも、ジェネシスのキャプテンだった私は既に知っていた。息子の復讐のためにサッカーを道具として使っているお父様には、目の前なんて見えていない。きっと、その息子が好きだったサッカーは、道具などではなかったはずなのに。



「……きっと、長い道のりにはなる。苦しくて辛い戦いになって……対立するかもしれない。でも……皆の心を変えるには、お父様が昔の優しいお父様に戻るためには、彼らの力が必要だと思う」



 雷門を巻き込むことになるのは、深い罪悪感があった。本当はこんなことに巻き込みたくなんてない。だが、これまで見てきたチームの中で、こんなにあたたかくて眩しくて、サッカーのことを大切にしているチームに出会ったのは初めてだった。彼らは昔の記憶を強く揺さぶった。鳥籠の中のように、揺蕩うような幸せに包まれていたあの頃の記憶。
 私一人の力では、きっとお父様のことも家族のことも変えられない。でも、みんなと――雷門のみんなと一緒ならば、あるいは。
 


「……貴方が、そこまで言うなんてね」



 瞳子姉は私の話を聞き、そしてぽつりと一言だけそう漏らした。
 確かに、私が他人に対してここまで入れ込むことは稀だ。それこそ、お日さま園のみんなくらい。でも、雷門は――守は、私がどうしても欲しくて、でも手に入れられなかったものを持っているから。
 瞳子姉の言葉に、私は思わず自嘲するように呟いた。



「……これは、私の願望かもしれないけどね」
「……、葵?」
「……私はこれから間違いなく…………グランたちと、戦うことになる。もし、彼らを打ち負かすのであれば、それは雷門のような、あたたかいチームであって欲しいから、さ」



 彼らと戦うための逃亡であり、罰であり、これからの贖罪であるのだけれど。きっと私にとってとても苦しい時間になるだろうと、漠然と、しかし確信に近い思いを抱いていた。その時に雷門のみんなが隣にいてくれたら…きっと。瞳子姉はグラン、という言葉に反応して微かに空気を揺らした。久しぶりにその名前を私が口にしたからだろう。だが言及されることはなかった。

 数秒、思考するための余白が空いた。どくどくと鼓動が早まるのを胸に手を当て押さえつける。やがて、瞳子姉は静かに口を開いた。


 
「……貴方の言い分はわかったわ。考慮には入れましょう」
「瞳子姉!」
「確かに、貴方の言うことも一理ある。雷門には帝国学園を倒し、ここまで勝ち上がっていたという根拠もある。選択肢の1つとして数えることはできるわ」
「うん……うん……!」



 私の声音を聞いて、しかし瞳子姉は空気を緩ませることはなく、厳しい口調で続けた。
 


「でも、葵。忘れないで。私の目的はあくまで父さんの計画をなんとしてでも阻止することよ。そのためなら手段を選ばない。もっと他に良いチームがいるなら私はそっちを優先するわ……いいわね」



 瞳子姉は状況をどこまでも冷静に判断していた。実のところ、私と瞳子姉の目的は殆ど同一のものだが、最終的なところで相違がある。私はお日さま園のみんなを助けることだが、瞳子姉は、お父様の計画を阻止することだからだ。お父様の計画を阻止すれば自然とお日さま園のみんなを助けることに繋がるはずだから問題は無いし、他でもなく冷静で頭の回る瞳子姉が私の話を聞いた上で出した結論なのだ。異論などあるはずもなかった。
 


「……うん。考慮に入れてくれるだけで充分。ありがと」
「なら、その話はこれで終わりよ。さあ葵。もう時間がないわ。早く逃げないと」

 瞳子姉はそう言って私を急かした。此処から逃げないといけない。リスクは痛いほど分かっているつもりだ。だが、私はもう少しだけ話したいことがあった。
 


「……姉さん。そのことなんだけど――」
 

 


 それから瞳子姉と少し話をして、電話を切った。瞳子姉は私の提案に眉を顰めていたけれど、それが有力な手であることも理解していたようだった。大丈夫。きっと上手くいく。瞳子姉は信じているわよ、と普段と変わらない声音で言った。信頼の証だった。



 落ち着きを取り戻した部屋で、テレビの中の歓声だけがやけに大きく響いていた。見ると、雷門と木戸川清修の試合結果が表示されていた。3対2。雷門の勝利だ。つまり――彼らはとうとう全国大会の決勝まで漕ぎつけたことになる。
 決勝戦の相手は恐らく、鬼道たち帝国学園に圧勝したという世宇子中。戦力差は歴然だろう。それでも、きっと雷門が勝つ。否、勝って欲しい。そう思った。

 彼らにおめでとうと言いたかった。直接会って共に祝ってあげたかった。だが、もう言うことはできない。



 テレビから目を離し、視線を横に向けた。簡素でほとんど空っぽの本棚の上に、写真立てが一つだけ飾られている。

 引き寄せられるように写真立てに近づき、落とさないようにそっと手に取った。ガラスの上から親指でなぞる。写真立ての中には、何でもない日常のかけらがたった一枚だけ入っていた。私とフィディオがサッカーをしている写真。二人でパスをしながら相手陣内に切り込んでいく、ただそれだけのもの。でも、その写真には生き生きとした表情でサッカーをする私たちの姿があった。私が、伸び伸びと心から楽しそうにボールを蹴っている。フィディオが自信満々に口角を上げて、私のパスを澱みなく受け取ろうとしている。たったそれだけのことなのに、その写真の表情を見るだけで鮮やかな二年間がすぐに蘇ってきた。


 
 ――本当に私には身に余るくらい、恐怖や罪悪感を忘れられる幸福な二年間だった。
 


 私は携帯を取り出すと、迷いのない動作で電話をかけた。少し呼び出し音が続いた後、4コール目の途中で相手が電話に出る。思わず眉を曇らせた。出ないかもしれないと少しだけ期待したのに……こんなときだけ思ったよりも早く応答してくるなんて。



「……あれ……もしもし、葵?」



 フィディオが、寝起きの眠そうな声音で応答する。イタリアは早朝でまだ眠りこけていたのだろう。だが、この着信に気付いて電話に出ようと思ったあたり、彼の生来の勘の良さを感じた。
 努めて平静に。心の中で念じて、口を開いた。
 


「フィディオ。この前ぶり。今いい?」
「……?うん、俺は大丈夫だけど……、葵から電話って珍しいね」
「うん。フィディオに言わなきゃいけないことがあって」
「…なんか嫌な予感するんだけど」
「私、この電話で連絡取れなくなるから」



 一瞬の静寂。ガタタタッと複数の衝突音。ッテェーー………という小さな声の後、我に返ったように「っ、はぁあああ!?!?」という大きな叫び声。間髪入れずに、遠くから「うるっさいフィディオ!!!!!」という力強い女の人の声が聞こえてきた。相変わらずおばさんは息災なようだ。

 ……うん。流石、期待を裏切ってこない。



「……じ、冗談だよな?」
「ううん、本気」



 さらりと告げると、少し静かになった後げんなりしたようなため息を吐かれた。どこかで聞いたことのあるような会話だった。



「……なんでだよ」
「この電話、今から捨てるの。ずっと使ってきたから名残惜しいけど。だから、電話はもうかからなくなる」
「は?……じゃあ新しい電話ばんご――」
「それもだめ。しばらく教えられない。色々落ち着いたらまたこっちから連絡するから」
 


 そこでフィディオはその応答に様子が可笑しいと気付いたらしい。「……何かあったのか?」そう聞く彼の声はこちらを気遣う優しさが滲んでいた。だがそれに応じることはできない。



「悪いけど、教えられない」



 きっぱりと気遣いを切り捨てた。取り付く島は与えなかった。絶対に引くことはできないのだから。
 その短い会話の中で、フィディオは私の意志の強さを早々に感じ取ったようだった。イタリアから帰還するときよりもずっと、深刻な状態であることも。



「…………おい、葵。色々落ち着いたら……って、一体いつになるんだよ」
「……分からない。でも、分かったとしても、教えるつもりはないよ」



 フィディオの声音はすっかり険しいそれに変化していた。だが、問いに答えることはできなかった。私の冷たい答えに彼が絶句するのを、空気を通して感じていた。
 フィディオはその後「今どこにいるんだ」「何があったんだ」といくつかの質問を立て続けにぶつけてきたが、どれに答えることもなく私はただただ閉口した。フィディオがもどかしげにきりきりと歯を軋ませ、これまでに無く荒い口調で言葉をぶつけてくる。



「……ッそっちに行くって言っただろ、二人で一緒にサッカーしようって!その約束はどうするんだ!!」
「悪いけど、その約束は果たせない」
「そんなので納得できると思ってんのかよ!」
「君が納得できるかどうかは問題じゃない」


 
 少しずつ私と彼の間に明確な亀裂が入っていくのを感じていた。フィディオに言葉を返す度に、フィディオが傷つくのを感じれば感じるほどに、心を鋭い刃で抉られるかのようなじくじくとした痛みが私の中に広がっていく。どんどん深く抉られて走る激痛を無理矢理押さえつけて、それでも私はフィディオを突き放し続けた。

 フィディオは諦め悪く何度も質問をぶつけてきたが、私がどう足掻いても答えることは無いのだと分かると、やがて大きな大きなため息を一つだけ吐いて、最後にぽつりと零した。



「…………葵。お前が帰る前にした約束、覚えてるか」
 


 フィディオの声は不安と哀しみが入り混じり、酷く掠れていた。

 私はフィディオの顔を思い浮かべた。きっと澄んだ群青の瞳は怒りと困惑と哀しみに揺らぎ、凛々しい眉は垂れ下がり、眉間には深い皺が刻まれて、いつも不敵な笑みを浮かべる唇は引き結ばれたまま、歯軋りを必死に押し留めているのだろう。
 


「…………覚えてるよ」



 その問いにだけは答えを返した。それで十分だった。
 フィディオはそれを聞いて、そっか、と言った。覚えてるなら、いい。待ってるから。そんな声が聞こえたような気がした。



「……フィディオ。私は貴方のこと、大切だと思ってる」
「……、葵?」
「……でもね、大切だから。私は貴方を巻き込まないって決めたの」



 フィディオの答えを聞く必要はなかった。さようなら、またいつか。声が震えるのを必死で抑え、別れを告げた。前の別れの挨拶と同じ言葉だった。でも、意味合いは真逆だ。脳裏を鮮やかなイタリアでの記憶が際限なく流れていき、もう会えないかもしれない彼らを想った。彼らが平穏に暮らし続ける姿を想像するだけで、心を深く抉る激痛にだって耐えられた。



「っなんで!お前はそういつも一人で勝手に決めちゃうんだ!バカ!」



 フィディオが切る直前、そう叫ぶのが聞こえた。


 
 ――ごめんね、相棒。それでも私は、貴方が安全でいられる道を選ぶ。



 返事をすることはなかった。フィディオが言葉を続けるのも構わず、通話を切った。

 ぷつりと切断音が響いて、静寂が私を包み込んだ。通話が切れるのは思うよりずっとあっけなかった。先程までのフィディオの声が頭の中で繰り返し再生されていた。

 通話している時にずっと張っていた緊張の糸がぷつりと切れて、足が震え出した。それにとどまらず足の震えすらも耐え切れなくなって、数秒後には膝から崩れ落ちて床に蹲った。心がじくじくと痛んでいた。

 だが、落ち込んでいる暇はない。私は力の入らない身体をよろよろと動かし、携帯の全データを初期化してSDカードを抜く。携帯やデータは調べられないよう、水に落として完全に破壊する。携帯が電源を入れようとしても応答が無いのを確認したら、やっと一息をつくことができた。

 これで、フィディオたちの情報が漏れることはなくなった。フィディオたちはこれからも平穏に生活することができるのだ。



「これで、よかったんだ」



 だが安心した筈だったのに、実際に口から出た言葉は今までに無いほど弱々しく、まるで蚊の鳴くような小さくか細い声だった。

 それどころか、思い浮かぶのは安心とは程遠い会えないことに対する哀しみと寂しさばかりで、いつの間にか視界は白くぼやけて、目頭が熱くなっていた。目元に触れれば、耐えきれなかったらしい涙が指を濡らす。涙はぼろぼろと留めどなく溢れては床に落ちていった。

 もう見られない群青がやけに恋しくてたまらないと、未練が今になって顔を出す。



「…………フィディオ…………」


 
 言葉にすると、寂しさと虚しさが助長されて私の心を揺さぶった。フィディオにどうしようもなく会いたい。熱い雫が頬を耐えず濡らしている。フィディオとの2年間が走馬灯のように脳内を駆け巡っている。

 嗚咽が止まらず口から次々と溢れ落ち、堪らなくなってフィディオの名前を繰り返し呼んだ。だがもう返事が戻ってくることはなかった。当たり前だ。私が今完全に断ち切ってしまったのだから。
 


 嗚呼……わたし、もう、ひとりなんだ。



 思っていたよりも彼の存在に救われていたのだと、そこでやっと気付いた。だがそのことに気付くには、色々なことが遅かった。

 脳裏を数週間前の会話が過ぎっていった。



「俺が葵の元に駆け付けるのに、理由なんて要らないんだ。だって俺は、お前の相棒なんだから」



 あの時のフィディオの優しい声に、本当はものすごく勇気づけられていた。当たり前のように隣に立ってくれる存在がどれだけ私の心を軽くしたのか、きっとフィディオは知らないだろう。たとえ窮地に立たされたとしても、フィディオが助けに来てくれるというほんの少しの期待が、私の心を支えてくれていた。

 でも、そんな期待も終わりだ。私の隣にフィディオは居ないのだから。私はひとりで立たないといけない。



 よたよたと机の傍に近寄り、机上に無造作に置かれた写真立てをかろうじて手に取った。二人の変わらない笑顔がいつだってそこにある。思い出がこの手の中にあるのならば、まだ戦えると思った。
 
 お父様の暗い影が私を引き摺り込もうと追いかけてくる。逃げ道は徐々に封じられて、息苦しさは一層増している。いつの間にか縋れる人は居なくなって、覚束ない足で立っている。
 だが、それでも私は戦うと決めた。逃げてしまった罪に向き合うのだと決めたのだ。フィディオが隣に居なくたって、ひとりになってしまったって、私がやることは変わらない。



 ――皆は私が、絶対に救ってみせる。



 心が重くて満足に動けない身体に鞭を打って、ゆっくりでも確かに立ち上がった。
 辛くて苦しくて暗闇に包まれた道のりであろうと、私は全力で抗い続ける。
 たとえその道が、どれだけ孤独な道であったとしても。






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