下
――うん? おかしいな。
いつもならば、ソニアさんを雌猫と呼ぶな、とか。ソニアさんは絶対に渡さねえからな、とか。色々言ってくる筈なのだが。
疑問の渦に飲まれていると、雑種は伏せた目を躊躇いがちにこちらへ寄越し、すぐにまた視線を逸らした。
普段とは違うしおらしい態度に感動と興奮を覚えながらも、俺様はどうかしたのかと聞いてみた。
「いや、何つうか、その――」
――お前って、俺のことが嫌いなのか?
と、雑種は悲しそうに、寂しそうに呟いた。
俺様が、雑種のことを、嫌い、だと?
「何故だ」
思わず声が漏れる。図らずも威圧的な物言いになってしまい、雑種がびくりと身体を震わせた。
ああ、怯えさせてしまった。違う、違うのだ。怯えさせたい訳じゃないのに、何故上手くいかないのだ。俺様は、俺様は貴様のことが――。
「――好きな、だけなのに」
「えっ?」
しまった――と口を手で押さえたが、もう遅かった。雑種は目を丸くさせ、俺様を見つめている。どうしよう、何でこの口はよく滑るのだ!
「えっ、と。好きっていうのは、どういうことだ?」
雑種が訝しげにこちらを睨む。いや、睨んでいるつもりはないのだろうが、元来の目付きが頗る悪いせいで、そう見えているのだろう。
何とも損な顔をしているが、俺様はそんな雑種も愛おしいと思っている。恋は盲目、痘痕も靨とは云うが、好きなものは好きなのだから仕方ない。
「――へ、あ、えっ? 愛お、しい? 好きなのだから? え、えっ?」
「――えっ?」
雑種の顔が段々赤くなっていく。恋は盲目だの、痘痕も靨だのと呟きながら。
――まさか、今の脳内発言も、口から出ていた?
「――う、うわああああああああっ!」
俺様は奇声を発して立ち上がり、コテージの扉を蹴破るようにして外へ逃げた。
後ろから俺様を呼び止める雑種の声が聞こえたが、今の俺様には立ち止まる勇気がなかった。
――――
最悪だ。もう合わせる顔がない。
全力疾走で逃げてきた俺様は現在、砂浜に佇んでいる。波の音が心地良い。
もうこのまま砂浜で暮らそうか――などと馬鹿げたことを思い付いてしまうくらい、俺様の精神は崩壊寸前だった。
こんなことになるくらいなら、口を縫い合わせてしまえば良かった。何故あんなことを、本人の前で言ってしまったのだ。
独り言を呟く癖を直しておくべきだった。そうしていれば、あんなことにはならなかったのに。
だがもう遅い。何もかも、もう遅いのだ。
終わった。俺様の人間生活は幕を閉じました。
さようなら母さん。糞不味い食事ばかりでしたが、それでも俺様は母さんが大好きでした。俺様は一足先に魔界へ帰りますが、母さんはゆっくり人間生活を送ってから来てください――。
「――何やってんだ!」
その怒声によって正気に戻った俺様は、我が身の現状に驚いた。
服を着たまま、海の中を歩いていた。一体どうなっているのだ、これは。
「おい、馬鹿! 入水自殺とか洒落になんねえよ! さっさとこっちに来い!」
何かが俺様の腕を掴み、ぐっと引っ張る。何事かと振り返れば、今にも泣き出しそうな雑種の顔がそこにあった。
「なっ、雑種、貴様――」
「良いから、早く来い!」
状況が把握出来ていないが、雑種があまりにも必死に俺様を引っ張るので、温和しく従うことにした。
――――
海水を吸って重たくなった服を引き摺るようにして、俺様と雑種は海中から上がってきた。砂浜にぼとぼとと海水が滴り落ちる。身体が怠い。靴が重い。
砂浜に生えた椰子の下を見ると、俺様が入水する前に避難したのであろう破壊神暗黒四天王達が、不安そうにこちらを見ていた。
「雑種よ、俺様は一体――」
と言いかけた瞬間、頬に衝撃が疾り、視界が揺らいだ。何が起こったかすぐには理解出来なかったが、どうやら俺様は雑種に頬を張られたらしい。びりびりとした痛みが、皮膚の表面を掻き毟る。
「いきなり訳解んねえこと言って、いきなり入水自殺しようとすんなよ! 馬鹿野郎!」
ぼろぼろと、雑種の双眸から涙が零れ落ちる。嗚咽混じりに吐き捨てられたその言葉で、俺様は漸く自分が行おうとしていたことを理解した。
現実逃避どころか、この世から逃避しようとしていたのだ。
何と愚かなのだろうか、俺様は。うっかり死ぬところだったとは、恥ずかしさと情けなさで死んでしまいそうである。
しかも雑種に迷惑を掛ける始末。何が覇王か。覇王括弧笑いが付くレベルである。情けなすぎて涙も出ない。
「雑種――いや、左右田、すまない」
「すまない、じゃねえよ! 馬鹿! 厨二病! 自称覇王様!」
激昂した左右田は、俺様に罵声を浴びせながら泣いていた。
「何だよ、マジで訳解んねえ。何かと無視されて、希望の欠片もお前のだけ一つで、そりゃあいつも突っかかってたから、嫌われたのかと思ってたのに、なのに、好きとか――」
マジ訳解んねえ――と左右田は泣きながら言い、俺様の胸を叩いた。
「挙句の果てには、入水自殺? 訳解んねえよ、理解できねえよ。何がしてえんだよ、お前は!」
何が、したい? 俺様は、俺様は――。
「――貴様の傍に居たい」
「なら、死のうとすんなよ! 馬鹿か!」
再び胸を叩かれる。さっきより弱々しいその拳は、叩くというより縋り付くような形の拳であった。
「すま、ない」
「すまない、じゃねえよ」
「俺様は、拒絶されるのが、怖くて、だから、ずっと、隠して、いて」
視界がぼやける。ああ、涙が止まらない。死に損なった上に、こんな醜態を見せるなんて。恥の上塗りも良いところだ。
「すまない、すまない、俺様は、貴様に合わす、顔が、ない」
首に巻かれたストールを、顔が隠れるように引き上げる。海水でぐっしょりと濡れていたが――丁度良い。涙と鼻水が付いても、誤魔化せるから。
そうして暫くストールに体液を染み込ませていると、突然ストールを掴まれ、引き下げられた。歪んだ視界の真ん中に、左右田の泣き顔があった。
「拒絶するとか、合わす顔がないとか、何で勝手に自己判断してんだよ。確かに俺、軽薄な態度ばっかしてるけど、真摯に好いてくれてる奴を見放す程、堕ちちゃいねえよ」
「左右、田」
「それに俺だって、お前の好きとはまた違うけど――お前のこと、まあ、好きだし」
そう言って左右田は目を伏せ、頬を赤らめた。
ああ、そんな。そんな態度をされたら、期待してしまう――。
「うおわっ」
俺様は半ば衝動的に、左右田を抱き締めていた。突然のことに驚いたのか、左右田は素っ頓狂な声を上げた。
「な、何すんだよ」
「好きだ」
「おい」
「愛している」
耳元でそう囁けば、左右田の顔は見る間に紅潮していき――。
「――い、言っとくけど俺は、ソニアさん一筋なんだからな」
と言いつつ、左右田は俺様の背中に手を回し、子供をあやすように優しく、背中を撫でてくれた。
――――
「――ということが昨日あってだな」
「へ、へえ」
此処はレストラン。俺はついさっき、朝食を摂り終わったところだ。
先に食べ終わっていた田中がふらふらと傍にきて椅子に座り、俺が食事をしているのも構わず、勝手にぶつぶつと昨日の出来事を語り出したのが始まりで――返答に困った俺は、適当な相槌を打って誤魔化すことにしたのである。
だってまさかそんな、田中と左右田がそんなことになっているなんて――想像出来る訳がないじゃないか。
何となく、本当に何となくだが、田中が左右田に好意を抱いていることは察していた。そして、素直になれない厨二病患者である田中が、誤解を生むような反応をしてばかりいたことも。
でもまさか、その好意が友情でなく愛情だっただなんて、普通は思わないだろう。
これが花村なら話は別だが、田中がそんな男に走るだなんて、そんな――ねえ。
ソニアと仲良くやっていたし、いつカップルになるのかなあ――なんて思っていた矢先、まさか左右田とくっつくなんて。
いや、別に俺は同性愛を否定したり差別したりする気はないぞ。寧ろそういうのもありかな――くらいは思っている。俺は女性が好きだけど。
だけどまさか、なあ。
「漸く俺様も一歩前進出来たのだ。これは世界を震撼させる偉業だぞ」
「ああ、うん、良かったな」
何が良かったな、なのか解らないけど、とりあえずそう返しておく。
「何れ左右田を魂の半身として我が領域に迎え入れ、世界の終わりまで共に在ることを誓い合い、そして魔界へと帰るのだ。どうだ、素晴らしい計画だろう」
「そうだな」
何だかよく解らないが多分、左右田と一緒に暮らしたいということだと思う。多分。
「来たるべき時のため、俺様は左右田と交流を図る、つもり、だ」
さっきまですらすらと出ていた言葉がぎこちなくなった。何事かと思って田中を見ると、これまたぎこちない動作で握り拳をこちらに差し出し、ゆっくりと拳を開いた。
手の中にあったのは紙屑――いや、これは――。
「お出かけチケット?」
紙屑かと思ったが、どうやらこれはチケットらしい。ぐしゃぐしゃになりすぎていて、使えるのかどうかも怪しいが。
「特異点よ。この魔具は、俺様にとって因縁深きものなのだ。故に俺様はこの魔具で、左右田と決着を付けねばならない」
何の因縁かは解らないが、田中の真剣な表情から察するに、本人にとってはかなり深刻なものなのだろう。
田中はふう、と息を吐き、再びチケットを握り締めた。
「今日で、この魔具を握り締めるのは、終わりだ」
田中はそう言って椅子から立ち上がり、朝食を摂り終えたらしき左右田に向かって歩き出した。
田中は、椅子に座ってぼうっとしている左右田の傍に立ち、紙屑に等しいチケットを差し出して、言った。
「左右田」
「な、何だよ」
「俺様とデートしてください!」
絶叫に近い咆哮が、レストランに響いた。
左右田にとって不幸なことに、現在レストランには修学旅行メンバーが全員揃っている訳で――。
「えっ? 田中君って左右田君狙いだったの?」
「ふんっ、くだらんな」
「おいおいマジかよ」
「男色、か」
「うげええっ、ホモかよ気持ち悪っ」
「えっ、と。写真撮っとく?」
「あら、田中さんは左右田さんとラブラブ仲良しこよしだったのですね! 私、感激です!」
「うっひゃああっ! 薔薇薔薇な世界っすか! 組んず解れつ、うっはうは!」
「希望と希望が愛し合う――ああ、一体この先にどれだけの希望があるんだろう! 素晴らしいよ!」
「でも二人共、男の子だよね。人生の難易度高そうだね」
「わ、私は、そのぉ、同性愛に偏見はありませんからぁっ」
「応! 仲良きことは美しいんじゃあああっ!」
「そんなことよりお代わり!」
――予想通りの混沌が生まれ、渦中の田中は平然としていて、左右田は顔を真っ赤にしていた。
左右田を哀れに思った俺は、助け船を出すべく立ち上がった――のだが。
「――こんの、馬鹿っ!」
そう叫ぶや否や、左右田は勢い良く椅子から立ち上がり、差し出されたチケットごと田中の手を握って、レストランから逃げ出した。
一瞬見えた、左右田に引き摺られるようにしてレストランを去っていった田中の顔は、今まで見たこともないくらいに緩みきった表情をしていた。
数日後、左右田のパンツを手に入れたとはしゃぐ覇王様がジャバウォック島に出没することになるのだが――それはまた別の話である。
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