夜蛾の孕む子4



捕えられた海賊狩りを一目見ようと、海軍基地の塀を登ってくる者も少なくない。そのたびゾロが一睨みしてみせれば、殆どの者が怯えてすぐに顔を引っ込めた。だが、さすがにこの格好を晒すのは憚られる。どうしたものかと、動かない身体を前に途方に暮れていた。
薬のせいか、散々嬲られたあとだからか、指先一つ動かすのも億劫なほどだった。徐々に白み出した空を見上げる気力もないまま、ゾロは瞼を閉じる。
あんなことがあったあとだ。さすがにもう、あの海兵も来ないだろう。今のゾロは、この状況を打開する術を何一つ持っていない。このまま睡魔に身を任せたとて、何も解決はしないが、とにかく眠かった。
意識を深い闇の縁に落とした頃、ちゃぷんと何かが波打つ音が聞こえ、海に漂う感覚を味わう。一人で海へ出たとき、絶え間なく周囲から聞こえていたものだ。身体の気だるさは消えてはくれないが、どこかすっきりとしている。その違和感に瞼を開けると、目の前にはゾロの身なりを整えてくれている海兵がいた。
人が来る気配さえ感じ取れていなかった。ましてや身体に触れられていた感覚もない。それほど疲弊していたのかと、ゾロは眉を寄せる。海兵は機械のように、表情一つ変えることなく作業を進めていった。未だにゾロの身を案じてくれるなど、相当な正義感を持っているのか、それともただのお人好しか。海兵は一言も話さぬまま、同じように薬と水を飲ませてくれた。
ゾロは一度、水だけを口に含むと、うがいをしてそれを吐き出した。だが、口内に広がる嫌悪感は水では洗い流せない。
「どうして、ここまでされて…我慢できる」
まるで独り言のような海兵の言葉を聞き逃しかけ、一瞬何を言われているのか理解できなかった。その言葉はゾロに対するものではなく、自身に問うているようにも聞こえる。やっと表情を崩した海兵は、様々な葛藤の中でも、必死で強くあろうとしているように見えた。
「おれには野望がある。それを達成するまで死ぬわけにはいかねェ」
「…聞いてもいいか、その、野望を」
「世界一の剣豪だ」
海兵は驚いたように眉を上げ、しばらくして喉を鳴らし始めた。笑われるのには慣れている。海に出てからはいつだって、ガキのくせにとか、お前には無理だとか、そんな否定的な言葉ばかりを浴びせられてきた。他人にどう思われようと今まで歯牙にもかけてこなかったが、結局はこの海兵もそこらの人間と同じなのだ。ここまでしてもらって恩を感じるのは当然のことだが、買い被りすぎていたようだ。落胆の色を隠せぬまま、ゾロが眉を寄せたそのとき、海兵は一言、あなたらしいと笑みを湛えた。今度はゾロが眉を上げる番だった。
「私の野望は、海軍将校になることだ。ガキの頃から正義に憧れてここに入隊した」
「お互い、大それた野望をお持ちだな」
「ははっ全くだ」
久しぶりに目を見て笑った海兵に、ゾロも口端を上げた。あんなことがあっても、こうして世話を焼いてくれ、笑いかけてくれる。それがどれだけ勇気のいることか、まるで計り知れない。だが、海兵はすぐに表情に影を落とし、足元へ視線を放った。
「これが…正義なのか」
「まァ少なくとも、おれはおめェの正義に救われてる」
ゾロの言葉を聞いて、海兵はぐしゃりと顔を歪めた。その額には包帯が巻かれており、海兵の象徴である、正義を掲げるキャップは被られていない。頭を下げようとした海兵を制し、ゾロは謝るようなことはされてねェと言い放った。それに、おれも謝らねェ。はっきりと告げれば、海兵はどこか安堵したような表情を見せた。
海兵は以前、私に力があればと悲痛に呟いていた。確かに気弱ではあるが、決して言葉どおりだとは思わない。正義に絶望し、海兵を辞めることは至極簡単なことなのだ。
「それで、お前の野望はこの程度で潰れるもんなのか?」
ゾロがからかいを含めれば、海兵は力強く首を振った。
「私が必ず、この軍を変えてみせる」
がらりと目の色を変えた海兵を見て、ゾロは頷く。他人の身の上話などに興味はないが、なぜ海軍将校を目指すのか、目の前の男に興味がわいた。案外、ゾロのように単純な理由なのかもしれない。ゾロは、世界一強くなりたいだけのことだ。
海軍基地から起床のベルが鳴り響いたのを合図に、慌てたように海兵は戻っていった。ゾロはそれを見送り、とにかく眠ってしまおうと瞼を閉じる。脳裏にはまた、麦わら帽子の男が浮かぶのだろうか。立て続けに同じ夢を見ることなど、今までになかった。だが、不快感はない。日を追うごとに鮮明に、ゾロの眼孔へその姿は焼きついていった。



昼間、暇を持て余した海兵に暴行を加えられ、やっと安息が訪れたときだった。眠ろうと目を閉じていたが、何者かが塀を登ってくる気配がした。また見世物見学にでも来たのだろう。いつもなら睨みつけるか、怒鳴りつけるかの二択だが、声からしてガキ二人のようだ。少しからかってやろうかと、ゾロは緩慢に瞼を開き、顔を出した男へ声をかける。縄を解いてくれねェかと、口許に笑みを浮かべた。
そもそも、逃げる気などゾロにはない。しかし、塀から顔を出すその男を見とめた瞬間、ゾロはまじまじと目を見張った。男の頭上で、麦わら帽子が風に吹かれ揺れている。
磔にされてから九日が経ったが、ますます鮮明に麦わら帽子を夢に見るようになっていた。相変わらず男の顔は確認できなかったが、なぜか既視感に襲われる。よく見れば、赤い服までまるきり同じだ。
覚えず男を睨みつけるが、一人の少女が磔場へ入り込んだことに、ゾロの意識は向かった。懲りずにやって来たリカを威圧するが、少女は無邪気に笑いながら、歪なおにぎりをゾロに向けて差し出してきた。正直腹は減っている。だが、もし海軍に見つかれば、この基地の者は子どもだろうと容赦しない。悪態をつき追い返そうとしたそのとき、都合よくヘルメッポが現れたことに、ゾロは舌を打った。麦わら帽子の男は、無邪気に笑みを浮かべながら、その様子を伺っている。

ゾロよりも幾分年下に見える男は、海賊の仲間を探しているらしい。決して強そうには見えなかったが、妙な雰囲気があった。夢に見続けるものと何か関連はあるのだろうか。運命や因縁などと言ったものはまるで信じていないが、何か必然を感じるものがあった。だが、海賊に成り下がる気などさらさらない。金のために賞金首を狩る生活を続けていた頃に、何度も感じたことだ。海賊が外道だという言葉に嘘はない。そして、海軍が絶対的な正義だとも思っていない。信じられる人間はただ一人、己だけなのだ。
はっきりと断ったはずだが、二度目に現れた男は、ゾロを仲間にすることを決定打にしているようだった。何が琴線に触れたのか、はた迷惑な野郎だと、刀を取り返しに行くと言い放ち、基地へ走り出した男を呆然と見送る。男の真っ赤なシャツには、所々シミがあった。ふと視線を落としたときに見えた拳には真新しい血液が付着しており、町で喧嘩でもしてきたのかと呆れ果てる。やはり、海賊になろうなんてやつは碌でもない。
しばらくして、基地の屋上からとてつもない音が響き渡った。何か瓦礫が落ちたようで、地響きと共に地面から砂埃が舞う。一体、何をやってやがんだあいつは。ゾロが眉を上げたとき、男と共に塀から顔を出した眼鏡の少年が、磔場に降り立とうとしているのが見えた。
次から次へと、今日は厄日か何かかと、ゾロは眼光鋭く少年を睨みつける。あれだけ怯えていたはずの少年は、何か思い悩んだような顔をして、迷わずゾロの元へやってきた。仲間の男なら基地へ行ったぜと教えてやれば、慌てながらも、ゾロを拘束する縄に手をかける。きつく縛られ、ゾロが嬲られるたびに暴れたためか、更に縄の結び目はきつくなっている。指先を赤くさせながら必死で縄を解こうとする少年が、何をこんなに必死になっているのかゾロには疑問だった。このまま放っておかれたとて、なんの問題もない。どうせ一ヶ月ここにいれば解放される。少年にとってまずは、仲間を助けに行くのが先決だろうと思った。あの男一人で、海軍基地へ乗り込むなど無茶だろう。
そのとき、目の前の少年から鮮血が飛び、ゾロから少し離れた場所まで吹き飛ばされた。撃たれたのだとすぐに理解し、基地にいるであろう見えない海兵を睨みつける。モーガンがこちらを鋭くねめつけているのが見えるようだった。幸い急所は外れたようで、声を上げた少年にゾロは息をつく。
兎角、少年を逃がそうと声をかけたが、ゾロに突きつけられたのは三日後に処刑されるという宣告であった。そして、あの男がヘルメッポからそれを聞き、怒りのままにバカ息子を殴り飛ばしたのらしい。考えなしのガキほどバカなものはねェな、自分のことは棚に上げ、ゾロはほとほと呆れ果てる。
「そのあと、海兵があなたにした仕打ちを偶然聞いてしまったんです。それで、ルフィさんは…」
「……ああ」
海兵がゾロにした仕打ちとは、殴る蹴るの暴行ではないのだろう。島へ出て浮かれた海兵共が、武勇伝の如くゾロを嬲ったときの話をする様は、ありありと想像できた。男の拳についた血の意味も理解し、ゾロは眉を寄せる。余計なことをしてくれたものだと、舌を打った。誰も同情などしてほしくない。
痛みによるものか、少年は目尻に涙を溜めながら、必死で身を起こした。肩からは止めどなく血が溢れ、早く止血した方がいいのだろうと口を開く。だが、少年が先に言葉を発し、ゾロは黙ってそれを聞くことにした。
再び海兵が銃を向けてくる気配はない。基地へ侵入した男相手にてこずっているのか。その可能性は低いだろう。確実に反逆者を仕留めるため、こちらへ向かっていると考えた方が現実的だ。
「海軍が、こんなに腐っているなんて…思ってもみなかった」
「お前、正しい海兵を目指してんだろ。残念だったな」
先程、直接聞いたばかりの少年の言葉を反復し、ゾロはふとあの海兵の存在を思い出した。
「僕は、海軍将校を目指しているんです! ルフィさんの海賊王と同じように、無茶な夢だとは思っていますが……僕がきっと、この軍を変えてみせます!」
ゾロは、目の前の少年をまじまじと凝視した。周りが嘲笑うような無茶な夢については、お互い様だ。しかし、海賊と海兵を目指す男が共に行動しているなど、乖離している。ゾロは声を上げて笑いながら、少年の名を聞いた。コビーと名乗った男は、笑うゾロを前に呆然としている。魔獣がこんな顔をして笑うなど、まるで想像だにしていなかったとでも言いたげだ。
まだ、この世界も捨てたものではない。だが、現れた海兵やモーガンの姿に、ゾロは眉を寄せた。一斉に銃口を向けられる。ここで死ぬわけにはいかない。しかし、為す術は何もなかった。磔にされたまま、蜂の巣にされるのがオチだ。
脳裏には、麦わら帽子の男ではなく、久しぶりにくいなの姿が浮かんだ。走馬灯のようなものなのだろう、放たれた銃弾に死を覚悟する。くいなとの約束も守れぬまま、最弱の海とさえ呼ばれているイーストブルーで、野望を絶つことになるとは思ってもみなかった。
しかしそのとき、空から現れた麦わら帽子の男に目を見張る。まだ夢の中なのかとも思ったが、男の体を銃弾が突き破り、背後に皮膚が伸びたことで、ゾロの意識は現実に引き戻された。男が受けた銃弾の数だけ、放った海兵の元へ跳ね返っていく。その背には、ゾロの刀が括りつけられていた。
何者なんだとたまらず声を上げたゾロへ向けて、男は一言、海賊王になる男だと躊躇もなく告げる。その瞬間、全てがバカバカしくなった。ほぼ脅しとも言える要求を突きつけられて、まるで悪魔のような男へ向けて、ゾロは不敵に口端を上げる。それは晴天の霹靂であったが、海賊になるのも悪くないだろうと思えた。どうせお尋ね者になるのだ。そう大差ない。

「しし、ゾロがおれの仲間だなんて嬉しいなあ」
「んなこたどうでもいいから早く解けって!」
「だって硬ェんだもんよー、これ」
男が縄を解くのに躍起になっている間に、銃弾は効かないと分かった海兵が、剣を手に襲いかかってきた。身体が伸びるだかなんだか知らないが、さすがに刃物を向けられれば、対処のしようもないだろう。
やっと片腕の縄が解けたときには、海兵はもう目と鼻の先にいた。その中に、心底楽しげにゾロを嬲った相手もいる。男から刀を受け取り、自由になった片手で縄を切った。飛びかかる海兵たちに背を向けたまま、三本の刀で全員を制す。
仲間になった男をまっすぐに見据え、ゾロは口を開いた。約束どおり、海賊にはなってやる。ゾロは自分の野望を真正面から男へ告げた。迷いのないその目を、大きな黒い眸はしっかりと受け止めている。
「いいねェ世界一の剣豪!!」
男は、ゾロの野望を笑うどころか、それぐらいなって貰わないとおれが困るとまで言ってみせた。ゾロの野望を笑わなかった者は、この海に出てからこれで三人目だ。一人の海兵と、コビー、そして麦わら帽子の変わった男。
ゾロは呆れながらも、この男の懐の深さを見ていた。おれの上に立つ人間ならば、これぐらい簡単に言ってのけるやつの方がいい。ゾロは、男の足になぎ倒された海兵の中から、ただ一人に視線を向けた。あれほどまでに威張り散らしていた男は、生まれたての小鹿のように震えている。その様は無様で滑稽で、すぐにモーガンを一方的に殴りつけている男へ意識を向けた。確かに、おれは強いと嘯いたように聞こえた言葉は、嘘ではなかったようだ。
卑怯にも、背後から男へ襲いかかろうとしたモーガンを一太刀にしたあと、ゾロはもう一度あの海兵へ向き直った。喜び大騒ぎする海兵たちとは裏腹に、ただ一人、男は恐怖に怯えている。今にも小便を漏らしそうな様子で地面に跨る男へ、ゾロは一歩一歩足を向けた。一人残らず殺してやろうと思っていたが、今この場にはこの男しかいない。だが一番、ゾロを嬲ることに快楽を得ていた者だ。こいつだけ消せば、この苛立ちも嫌悪感も何もかも立ち消えるだろう。
「ま、待て…! あ、あれは、ヘルメッ…そ、そうだモーガンの命で…!」
この期に及んで元上司に罪を擦りつけようとする男にゾロは心の底から呆れ返った。小さい男だ。それしか言葉が出てこない。くいなの刀を使う価値もないと、刀身に浴びたモーガンの血を払い落とし、二本の刀を鞘にしまった。
「お前だって最後には善がってたじゃないか! そうだ、気持ちよくしてやったんだ…!」
ゾロは、刀を持つ手に力を込めた。ぎり、と掌の皮膚が擦り切れる音がする。殺気が磔場を呑み込んだ瞬間、ゾロの脇を高速で何かがすり抜けていった。一瞬にして海兵が吹き飛び、ゾロは驚いて背後を振り返る。男の拳が元の位置に戻るのを見届け、ただただ呆気に取られていた。
「あ、もういいぞ。ゾロ」
あっけらかんとしている男から隣のコビーへ視線を向ければ、こうされるのが当然とばかりに顔をしかめていた。こいつ将校になりたいんだろ、大丈夫かよ、ゾロは苦笑しながら、コビーの視線の先へ体を向ける。白目を剥き、泡を吹いて倒れている海兵を見て、憑き物が落ちたような心地になった。
「…いや、いいよ」
「そうか?」
「ははっ、変なやつだな、お前」
「おっ、ゾロのちゃんと笑った顔初めて見たぞ」
へへっ、と嬉しそうに笑う男を見とめた瞬間、ゾロは空腹のあまりその場に倒れ込んだ。さすがに、九日も何も食っていないとなると限界だった。



腹ごしらえも済ませた頃、海軍に立ち退きを要求された。どうせこの町に留まる理由もない。すぐに身支度を整えると、ルフィと共にリカの母親が経営する店から席を立った。コビーとはここで別れることになるようだ。海軍へ入隊する男が海賊と行動を共にしていれば、さすがに訝しがられる。やはり、ここの海兵も不審に思ったようで、店に留まろうとしたコビーへ声をかけた。立ち止まったルフィに呆れつつも、ゾロもその場で足を止める。
そのとき、大所帯の海兵の中から、あの男を見つけた。ゾロと視線が絡み合った瞬間、海兵はしゃんと背筋を伸ばしてみせる。ルフィとコビーの芝居じみた殴り合いの最中、皆がそちらへ意識を向けていた。海兵は言葉もなく、ゾロの前へ片手を差し出す。ちらりとその掌を見遣ったあと、おれはお尋ねもんだぜ、とゾロは笑みを零した。海兵は笑って、それはこの町を出てからだと、力強くゾロを見据える。
今日からゾロは海賊なのだ。海賊と海兵の間には、情などあってはならない。ルフィも多分、それを分かった上でこうしている。それらを切り捨てる為のものなのだと感じ、ゾロはその手を取った。そうしてから、海兵の耳元へ顔を近づける。
「あいつも、海軍将校を目指すらしい。強力なライバルだぜ」
「はは、お互い気張らなければな」
「違いねェ」
笑い合いながら、互いに手を離した。この男はもう、大丈夫だろう。怯えていただけのときとは、目の色が違う。
一方的に暴力を振るわれているコビーを見とめ、海軍がたまらず制止の声を上げた。ゾロもルフィを止めに入り、乱闘によって落ちた、夢に見た麦わら帽子を拾い上げる。そのまま頭へ被せてやれば、ルフィはゾロを見上げ、歯を見せて笑った。
麦わら帽子、黒い髪、赤いシャツ、そして太陽を髣髴とさせる笑顔。頬の傷。それらは、何もかも夢に見たものと合致している。心底幸せそうに笑う男と共に、町を後にした。海賊になった実感はまるで沸いてこないが、まァなるようになるだろとゾロは小船を動かす波風に身を任せることに決めた。この最弱の海を抜け出し、向かう先に何が待ち受けていようかなど、想像するつもりもなかった。





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