夜蛾の孕む子5



海上で轟音が鳴り響く。それと同時に、ルフィが小船の上に突っ伏しながら、苦しげに呻き声を上げた。
狭い船だ。海賊船とは到底呼べた代物ではなく、人一人横になっただけで、ずいぶんと圧迫感が増す。ゾロは片膝を抱えて腰を下ろし、どこへ向かうかも分からず、ただ波に揺られて続けていた。
ルフィがこうして空腹に耐え切れなくなってからも、太陽の位置が90度ほど傾いている。そもそも、たった二人で海賊と呼べるのかと、そこからして甚だ疑問だった。船長としての器量は認めているが、こうして見ていれば、ただの夢見る能天気なガキにしか見えない。
ルフィの腹の虫は一向に鳴き止まず、先程からずっと腹が減ったと喚き立てている。町を出てから数時間しか経っていないが、確かに食料ぐらい積んでくるべきだった。まさか、海賊になろうとする男が、航海術も持ち合わせていないなどと思ってもみなかったのだ。海に出るなら当然の心得だろうと、自身のことは棚に上げてゾロは呆れ返る。
これでは、いつ島に辿り着くかも分からない。先が思いやられると、力なく上体を起こしたルフィへ、ゾロは視線を向けた。危うげに風に吹かれる麦わら帽子から、すぐそこで待ち構えている海へと視線を移す。久しぶりの海は、相も変わらず真っ青で、途方もなかった。このまま遭難して餓死なんてことになれば、さすがに笑えない。しかし、全くと言っていいほど、この隘路を打開する策は浮かばなかった。
「ゾロは腹減らねェのかァ」
「おれァまだ平気だが、どっか島には寄りてェな」
散々海兵に嬲られたあとで、まだ一度も風呂に入っていなかった。海兵の一人に身体は清めてもらっていたため、未だ忌々しいものがこべりついているわけでもない。すでに身体の痛みも引いているが、違和感や嫌悪感は拭えずにいた。無意識に首筋を掌で覆ったとき、甲板に顔を突っ伏していたルフィが、僅かに身じろいだ。それを見止めた瞬間、なぜだか罰の悪さに襲われ、下ろした手を目板の縁へ投げ出した。
ゾロの首筋には、未だ行為の跡が生々しく残っている。月日が経てば何もかも外的な傷は消え去るのだろうが、忘れられるはずもない。あれほどの屈辱は、海へ出てからは一度たりとも味わったことがなかった。
ふと気がつけば、ルフィがじりじりと、腕を使ってゾロの足元まで這ってきていた。ゾロは眉を上げ、顔を上げたルフィと目を合わせる。するとルフィは、にっと歯を剥き出しにして、何も考えていないような笑顔を見せた。その脱力しきっている身体を起こし、突然、ゾロの両肩に手を置く。怪訝に思い、おい、とゾロが声をかけた瞬間、目の前の男は、大口を開けてゾロの首筋へと噛みついた。
「いっ……! てんめェっ、突然何しやがんだ!」
「腹」
「あァ!?」
「減ったァ」
ゾロ美味そうだ、そんなことを口走るルフィに対し、ゾロは呆れるあまり同じように脱力した。だからと言って、人を食うことはあるまい。ルフィはその間も、ゾロの首に歯を立てている。あぐあぐと唇で皮膚を啄ばみながら、ルフィはだらりと身体を弛緩させていた。全体重をかけられ、邪魔なことこの上なかったが、ゾロは文句も言わず、ルフィを受け止めていた。深々とため息を零し、頬に当たる麦わら帽子のつばへ視線を落とす。
そのとき、ルフィの顔が首筋から更に下へ移った。懲りず鎖骨の下に噛みつかれ、ゾロはルフィの顔を慌てて引き剥がす。ゴムだから打撃は効かないと言うが、いい加減にしろ! と拳でおもいきり頭部を殴りつけた。首筋は確認できないが、ゾロはシャツの襟を捲り、先程ルフィに噛みつかれた箇所を確認する。見えづらいが、はっきりと、そこには歯型が残されていた。びっくりすんだろうが、頭を押さえ、そう言って顔を上げたルフィには、確かに打撃など効いていない。
ゾロは顔をしかめてすぐ、その歯形の下にある鬱血の跡に気がついた。それは、殴られた跡でも、蹴られた跡でもない。更に眉間のしわが深まるのを感じ、目の前で拗ねて唇を尖らせているルフィを見遣る。すると、またもや何も考えていないような笑みを向けられて、気のせいかとゾロは腕を組んだ。
「あ!」
ルフィが、風に吹かれた麦わら帽子を押さえつけ、ふと声を上げた。ゾロの背後へ視線を向けているルフィに釣られ、ゾロも顔を逸らし、真っ青な海を見遣る。
「魚だ!」
その声に反応するよう、凪いだ海上を魚が跳ねた。四方八方海に囲まれたこの場所は、忘れていたが、食材の宝庫だ。しかし、釣具もなければ網もない。素手で捕まえることは難しい。
極限に腹が減っているルフィには、目の前にある食い物を捕らずにいるという選択肢はないようだ。伸びた腕がゾロの顔の脇を高速で掠めていく。魚の尾をしかと掴んだルフィだったが、抵抗するように魚が身を捩ったせいで、その手から滑り落としてしまう。逃がすまいと身を乗り出したルフィに押され、抵抗する間もなくゾロは勢いよくひっくり返った。
背後には、真っ青な海がその身を躍らせながら待ち構えていた。重力に逆らうこともできず、背中から青い世界へ身を沈めたゾロは、腕で水を掻き、足で纏わりつくものを蹴り、すぐに海面へ浮上する。生憎、この元凶を作った男のように、かなづちではない。怒りのあまり、こめかみに青筋を浮かべ、ゾロは深く息を吸った。
「お前なァ! いい加減に……」
「うはは、ゾロはアホだなァ」
あまりにあっけらかんと笑われて、ゾロは驚きに目を見張る。吃驚が勝ったせいで、つい、怒鳴る気も失せてしまった。船上から手を差し伸べられ、そこへ視線を留めたあと、ルフィの手をしかと握る。まだガキである見た目とはまるで違う、大きく、皮膚の厚い、男の手だった。爆笑しながら船へと引き上げられ、打撃は効かないと分かっていながらも、思わず頭部を殴りつける。水を含み、全身に纏わりつく布が鬱陶しい。
この男はこういうやつなのだと、再認識せざるを得なかった。しかも、久々に水を浴びたためか、どこか気分がすっきりとしていることに、ゾロはまた眉をひそめた。

その夜、日が沈むまでたいして時間がなかったこともあり、びしょびしょになったゾロの服は乾ききることがなかった。夜の海は、夏だろうと空気が冷える。さすがにくしゃみを一つ零したとき、ゾロの真向かいで麦わら帽子を顔に乗せ、眠っていたはずのルフィが動く気配を感じ取った。暗闇の中、その動きは分かりづらいが、薄い床板が軋む音が、徐々に近づいてくることは認識できる。
ゾロは目を眇め、目の前に現れた黒い影を見据えた。ルフィの動きに合わせて、船が上下に傾ぐ。ゾロの尻を自らの尻で押しのけると、むりやり隣へ腰を下ろしたルフィは、へへっと笑声を漏らした。見えずとも、夢の中で何度も見てきた笑顔だ。すぐに想像がついた。
どうした、静かに声を上げ、ルフィの存在を気にかけつつも、ゾロは瞼を閉じる。そのとき、ルフィの腕がゾロの身体を包み込んだ。状況を理解することができずにいる中、ルフィに促され、狭い船の上でぴたりとくっついたまま横になる。抱きつかれてからここまで、ゾロはどうしてか呼吸をすることを忘れていた。
「くっついて寝たら、ちょっとはマシだろ」
「あァ?」
そこでやっと声を上げたゾロだったが、確かに、くっついているところから、じわじわと熱が孕んでいくのを感じた。このまま寒さに身を震わせて一夜を過ごすより、こうしているほうが利点はあるように思える。大の男二人が一体何を、とは思ったが、広い海の上を放浪中だ。誰に見られることもないだろう。早速寝息を立て始めたルフィに呆れ、ゾロもそのまま寝る体勢に入った。ごちゃごちゃと答えが出ないことを考えたところで、この男には常識など通用しないのだ。






信じられない光景にたまらず目を見張った。それからすぐに顔をしかめ、ナミは甲板を足早に進み、船内にたった一室しかない部屋へ姿を消す。元々、可笑しな男たちだとは思っていたが、さすがに想定外の出来事だった。オルガン諸島の海図を記し終え、すっかり闇に包まれた甲板へ出たときのことだ。
海賊になる気など、さらさらないと言うのに、どうして行動を共にしているのかと頭を抱えたくなる。何度も命を救われたのは事実だ。だからと言って、憎むべき海賊を助ける義理もない。海賊と名乗りながらも、たった二人で航海をしていることに疑問は抱いていたが、まさかそういう関係だったとは思ってもみなかった。
海上で仲良く並ぶ船を、ナミがふいに覗き込んだとき、ゾロとルフィは小さな船上でぴたりとくっついて眠っていた。目を凝らせば、ルフィの腕や足が、ゾロを包み込んでいることが理解できる。仲間同士とは言え、あれはどう考えても異常だろう。
手持ち無沙汰になったナミは、意味もなく羽ペンを掴むと、インクの中へペン先を沈み込ませる。まっさらな紙を乱暴に引き寄せ、その上へとめちゃくちゃにペンを走らせた。
仲間になれと、よく言えたものだ。二人の間に、女は邪魔者でしかないだろう。どこか残念に思う気持ちを鎮めることができず、ナミはインクのなくなったペンを転がすと、バギーから奪ったグランドラインの海図を開いた。
どちらにせよ、どこかであの二人とは別れなければならない。このまま順調に進めば、コノミ諸島はすぐだ。アーロンと二人を対峙させるわけにはいかなかった。ルフィとゾロを、死なせたくはない。
この先、いくつか島があることは分かっている。そのうちのどこかで適当に撒けばいい、椅子に深く身を沈め、ナミは息をついた。バギーがかなりの金品を持っていたおかげで、もうすぐ1億ベリーに届くはずだった。約束どおり故郷の島を解放されたところで、ナミは一生逃れられない。島を救うことができればそれでいいのだと、長い間自身に言い聞かせてきた。やっとここまで来られたのだ。こんなことで、全てを台無しにするわけにはいかなかった。
「あー、もうっ」
勢いよく立ち上がると、椅子の前足が浮いて音を立てた。コーヒーを淹れ、カップを手に再び部屋をあとにする。迷いなく、隣の船が見える位置まで歩を進めた。船縁に両肘を置き、湯気を立てる手中のカップへ息を吹きかける。ナミが部屋で悶々としている間に、ゾロの腕までも、ルフィの腰に回されているのが見えた。少し、ほんの少しだが、人と抱き合って眠ることが、羨ましく感じられる。
すると、ゾロが身じろいだことで、その手はルフィから離れていった。密着した二人の服が擦れ合い、音を立てる。ナミの存在に気がついたのか、無防備に欠伸をしながら、ゾロは目を眇めたあと上体を起こした。それにより、ルフィの腕もゾロから離れ、甲板へ身を預ける形になる。ナミはただ、声もかけずその姿を見守っていた。ルフィが起きる気配はない。
「んだよナミ、眠れねェのか」
「……海図描いてたのよ」
ゾロはまるで興味なさげに、へェと呟いただけで、また自然とルフィへ密着し、身体を倒した。その光景を目の当たりにし、ナミは苦虫を噛み潰したような顔をする。そのことに気がついたのか、ゾロは片肘を甲板へつき、促すようナミを見上げた。コーヒーを啜ると、ナミも目を細めてゾロを見遣る。
「アンタたちって、どういう関係なの?」
「あ? こいつァ船長だろ、これでも。仲間だ」
「バカね、そういうことじゃないでしょ!」
不躾にルフィのことを指したゾロへ、つい声を張り上げてしまった。それを合図にルフィが飛び起き、なんだなんだァ? ときょろきょろと辺りを見回している。それから、ゾロとナミが起きていることに気がついたようで、なんだおめェら眠れねェのか、そう起き抜けのゾロとまるで同じことを言ってみせた。ナミは再びため息を零し、交互に二人を見比べる。
「じゃあ単刀直入に聞くけど、ゲイなの?」
「んなわけあるか!」
息を巻くゾロとは反対に、ルフィはなぜか腹を抱えて笑い出した。想像していたのとは違う反応に、ナミは首を傾げる。ゾロはゲイなのかー、そう呟いてますます声を上げて笑うルフィへ、ゾロは本気で怒りを露わにして、その頭へ思いきりげんこつを浴びせた。ますます、ナミの胸中には疑問の波が渦巻き始める。
「ちょっと待って。それなら、なんで抱き合って寝てるのよ」
「ゾロが寒ィって言うからな!」
「言ってねェ! てめェが勝手に抱きついてくるんだろうが!」
「なはは、そうだっけ? そんで、ゲイってなんだ?」
あっけらかんとそんなことを言うルフィのバカさ加減に、ナミはがっくりと肩を落とす。こんなのを、今まで一人で相手にしてきたゾロへ、同情の眼差しを向けてしまう。確かに、この男は何も考えず、誰にでもああなのだろう。ナミがゾロと同じ立場ならば、諦めて身を預けてしまうに違いない。ゾロも、分かったろ、とでも言いたげに肩をすくめている。未だ、ゲイってなんだよ、と無知故に疑問を連呼しているルフィを、ナミもゾロも相手にはせず、二人でやれやれと首を振った。とんだ勘違いをしていたようだ。羞恥で頬に熱がこもり、ナミは唇を尖らせる。
「こんなキャプテンじゃ、先が思いやられるわ」
「違いねェ」
喉を鳴らすゾロの返答を聞き、自身の失言に気づいたナミは、はっと息を呑んだ。海賊になんて、なるつもりは、これっぽっちもない。意識せず、自然と口をついた言葉は、けして言ってはならないものだ。思わず口元を覆いそうになった手で、カップをきつく握りしめる。
演技には自信があった。生きていくために、どうしても必要なことであり、いつしか感情を押し殺すことも得意になっていた。これも、相手を油断させるために出た言葉でしかない、そう言い聞かせる。
ふと、ゾロから向けられている強い視線に気づき、誤魔化すためにナミはコーヒーを咽喉へ運ぶ。単純で簡単に騙されるルフィとは違い、ゾロはきっと、聡い男だ。ナミの演技が通じない相手であることは、とっくに気づかされている。それでも、ナミの考えを問い詰めようとするような、野暮な人間ではないことだって、たった数日の付き合いでもよく分かっていた。
二人には疑われたくない。裏切りたくない。そう思うのも、真実味のない話だった。アーロンが聞けば、いつからそんなバカな女になったのだと、笑って揶揄されるのだろう。
「おい、ナミ」
「……なあに、やっぱりおれはゲイです、とでも言うつもり?」
「残念だが、おれもおめェも、とっくに手遅れだぜ。こいつからは逃げられねェ」
「な、なによ、それ」
心臓が大きく跳ね上がる。逃がしてくれないのは、アンタも同じじゃない、言葉にはできないものを呑み込み、ゾロの鋭い眼孔から目を伏せて逃れた。この男は、あの悪名高い海賊狩りのロロノア・ゾロ本人なのだと、今更思い知らされる。なぜ、海賊へ鞍替えすることにしたのか、気にはなるが、聞いてしまったら最後、本当に逃れられないような気がした。
「そういうことだ! お前がいねェとすっげー困る!」
ゾロのように、ナミの気持ちを察しているわけではないのだろうが、はっきりと、迷いなく告げられたルフィの気持ちを、喜ばずにいられるわけがない。今までアーロンのために使っていた航海術を、二人のために使えたのなら、どれだけよかっただろう。グランドラインへ連れて行ってあげたいとさえ思った。叶わぬ願いは、望むだけムダだと、よく知っている。
ナミは何も言えず、俯いたまま踵を返した。寝るわ、起こして悪かったわね、努めて明るい声を出し、おやすみ、という声を背に部屋へ戻った。二人が寝ている間にでも、船を動かして置き去りにすることもできたはずだ。そんな考えすら浮かばなかった時点で、逃げられないも何も、そんな気などさらさらなかったのだと、実感せずにはいられない。


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