初恋



はつこい」の続き

・ゾロが既婚者(相手はくいな)です
・が、直接的にくいなが出てくることはありません
・サンジとゾロ以外の死ネタが含まれます






 どこまでも澄んだ、青く果てしない空。薄い空気。視界に広がる深緑の山や田畑。それらは、記憶の中にあるものと全く変わっていない。目の前にあるものの存在を確かめるよう、サンジは視線を巡らせる。
 十年ぶりだった。澄んだ空気を堪能することもせず、胸ポケットから煙草を取り出すと、口に咥えた。何もかも、よく覚えている。神社から見下ろした広大な自然、太陽や夕日に照らされる村。そして、耳元で揺れるピアス。無骨で大きな掌も、無愛想なその顔が笑ったときの胸のときめきも、何もかも全て、忘れることができなかった。
 数日分の着替えが入った鞄を肩に担ぎ直し、畦道を歩み出す。サンジの身長が伸びて、顎髭が生えようとも、この村は全く姿を変えることがなかった。
 この十年、男を好きだなんておかしいと、サンジは何度も自分に言い聞かせてきた。だが、ゾロのことを思い出せば、抗いようもなく胸が高鳴る。それでも、おれはホモなんかじゃないと、散々悩み抜き、彼女を作ったこともあった。女の子は可愛い。元来、根っからの女好きだ。手が触れ合えばドキドキするし、マシュマロのように柔らかい唇は、とても甘い。時が経つにつれて、ゾロへの想いは、女を知らなかった、ガキの憧れを取り違えた結果だと思うようになっていった。だが、女の子と肌を重ねようと、ゾロに触れたときのような、あの漲る熱を感じることはない。
 そして、体調を崩したと久しぶりに連絡を取り合ったじいさんから、ゾロが結婚したと聞いたのは、高校に入学してすぐのことだった。あまりの衝撃に、頭が真っ白になったことを覚えている。その瞬間、やはりゾロのことが今でも好きなのだと、認めざるを得なかった。そしてこの想いは一生、秘めて生きていかなければならないのだということも、同時に悟る。どうせ、これから先会うこともない。そう思っていたが、今日は否応なしに顔を会わせることになる。みっともなく、煙草を持つ指先が震えた。
 記憶通りであれば、もうすぐじいさんの家に着くだろう。山中から見える、赤が色褪せたような朱色の鳥居を見上げ、サンジはがしがしと頭を掻き回した。一体、どんな顔をして会えばいいのか。この村までの長い道程の間、延々と考えていたが、結局答えは出ないままだ。
 チャイムのない引き戸を前に、一瞬躊躇するも、建てつけの悪いそれを苦労しながら開ける。玄関からおそるおそる顔を出せば、すぐに何人か老人が出迎えてくれた。大きくなったなあ、などと口々に言われ、サンジは懐かしさに口許を緩める。玄関いっぱいに並べられた靴を掻き分けて、懐かしい家の中へと上がり込んだ。そこにゾロの姿がないことにほっと息をつきながらも、やはり落胆の色は隠せない。
 居間には、大きなテーブルが二つ並べて置かれ、そこには所狭しと料理が並べられている。荷物を置くと、案内されるがまま、奥の部屋へ向かった。そこは、じいさんが寝室として使っていた場所だ。襖が外されているため、今は居間と繋がり、一部屋になっている。相も変わらず、日に焼けた畳の匂いが心地いい。あの夏は、じいさんの隣にぴたりと並べて布団を敷き、色々な話をしながら共に眠っていた。
 部屋の中央で鎮座する棺へ歩み寄り、静かに眠るじいさんの顔を覗き込む。急なことだったため、ゼフはどうしても仕事を抜け出すことができず、葬儀や遺品の整理などは、サンジが任されることになっていた。そうは言っても、遠方に住むサンジにできることは少なく、結局は村の人々に任せっきりになってしまった。
 線香の匂いが、嫌に鼻につく。初めてじいさんの家に足を踏み入れたときとは、まるで違った面持ちで顔をしかめた。じいさんの顔を見たら、走馬灯のように、様々な思い出が蘇ってきた。快活で優しい人だった。毎日サンジの作る飯を笑顔で褒めてくれたし、サンジの話も、いつも真剣に聞いてくれた。わははと、大口を開けるじいさんの、豪快な笑い方を思い出す。たった一週間、一緒に過ごしただけだったが、それでもじいさんのことが大好きだった。ゼフには、けして甘えることのできないサンジが、生まれて初めて大人へ甘えることのできた相手だ。ゾロには、甘えるというより、対等になりたいという気持ちの方が強かったように思う。鼻の奥がつんと痛み、サンジは、久しぶり、と震える声を絞り出すのがやっとだった。
「坊さん着いたぞ」
 背後から聞こえてきた、低く掠れたその声に、サンジは勢いよく振り返った。背を向けている緑色の髪の男を見とめた瞬間、サンジの心臓は大きく跳ね上がる。声をかけることも、その場から動くこともできず、ただ立ち尽くした。全身が小刻みに震える。それから、のんびりと振り返ったゾロは、サンジの顔を見るなり、にやりと口端を上げた。
「まァた泣いてんのか? チビナス」
 からかうような口ぶりに、サンジは悪態をつくこともできず、ゾロから顔を背けた。垂れてきた鼻水をずずっと啜り、棺の脇へしゃがみ込む。
 十年前にはなかった、ゾロの左目を縦に引き裂くような傷を見とめ、眉を寄せる。俯いたとき、畳の上にぼたぼたと涙が零れ落ちた。水分のせいで、褪せたイグサが、色を濃くする。そこを指でなぞりながら、サンジはやっと、小さく悪態をついた。胸が張り裂けそうだ。棺の中をもう一度覗き込むと、じいさんが、微動だにせず眠っている。あの頃のように、寝息が聞こえてくることは、もうない。
 電話で弔報を聞いたときには、まったく実感できなかった死を間近で感じ、喪服の上から胸を握り締めた。涙が枯れるまでそこで泣く間、ゾロはけして、サンジに近づいてこなかった。


 葬儀に関しては、村の人が進めてくれたため、滞りなく終わった。すっかり日が暮れかけて、庭に橙色の光が射し込む。縁側に座りながら、サンジはぼうっと煙草の煙をくゆらせていた。しばらく、この家に一人で寝泊りするのだと思うと、気が重かった。つい先程までじいさんが眠っていた場所に、布団を敷いて寝るだなんて、考えたくもない。また目頭が熱くなる感覚に、慌てて首を振る。
 あれから、ゾロとは一言も口を聞いていなかった。なるべく視界に入れないよう、サンジも無理にゾロを避けている。ゾロに奥さんを紹介されでもしたら、平静でいられる自信が、今はなかった。サンジはまだ、感情を押し殺せるほど、大人になりきれていない。ゾロにチビナスと呼ばれたことが、顕著にそのことを示していた。
 現在、居間では酒の準備が為されている。ゾロと対峙するのも時間の問題だと、サンジは煙草のフィルターを噛み締めた。すると、近くで床が軋む音が聞こえ、知らず身体を強張らせる。平静を取り繕うようにして、吸いさしを灰皿へ押しつけた。
「おい、チビナス」
「……チビナスって、言うな」
 サンジの隣に腰をかけたゾロから、不自然に顔を背けていると、ほらよ、と氷嚢を渡された。そのままじゃ腫れるぞと言われ、素直にそれを受け取る。そのとき、ゾロの左手薬指で光る、シンプルなデザインの指輪に気がつき、ぐっと唇を噛み締めた。氷嚢で目元を覆えば、全身の熱が多少引いていくのを感じる。それに、顔を隠すには、ちょうどよかった。ふと、別れる間際、ゾロに告げた言葉を思い出す。
 ーーぜってェゾロをほれさせてやる。
 ガキだった自分に、この現状を教えてやりたい。そうすれば、きちんと女の子相手に恋をして、こんな子供騙しのような初恋を、引きずらずに済んだのかもしれない。サンジは、嘲笑するよう喉を鳴らした。
「そろそろ始まるぞ。落ち着いたら来い」
 ゾロはそれ以上何も言わず、立ち上がると、サンジの頭をぐしゃりと撫でた。ぴくりと肩を跳ねさせたサンジに気づいているのかいないのか、ゾロはもの言わず、振り返ることもなく、居間へと姿を消してしまう。ゾロがいなくなった途端、わなわなと全身を震わせて、力なく悪態をつきながら、サンジは氷嚢を抱えてうなだれた。
 初恋は実らないとは、よく言ったものだ。こんなに苦しいのなら、じいさんにも、ゾロにも、出会わなければよかった。そんなことを思ったところで、この苦しみが緩和されるはずもない。なにもかも、十年前、ここへおれを預けたクソジジイのせいだ。サンジは、ゼフへ八つ当たりをすることで、なんとか平静を保とうとした。しかし、まだしばらく、落ち着けそうもない。居間へ向かえば最後、ゾロの愛する人にも会わなければならないのだ。
「おお、来たかサンジ!」
「遅くなってすみません」
「そんな他人行儀な言葉遣いするもんじゃないよ。ほらほら座りなさい」
 すっかり溶けた氷嚢を手に、サンジは空いていたテーブルの脇へ腰を下ろそうとした。だが、お前の席はここじゃないだろう、そう言って、すぐに追い払われてしまう。何がなんだか分からない。目を白黒させながら、中途半端に腰を浮かせて、その場に立ち尽くした。
「お前は、ゾロの隣がいいだろ」
 すごい懐いてたもんな、他意のない笑顔を向けられて、言葉に詰まる。指で示された方向へ視線をやれば、そこにはゾロの姿があった。サンジはぐっと、眉根に力を込める。ゾロの隣には、人一人分の隙間が空けられていて、その場で二の足を踏む。しかし、酒を運んできたばあさんに腕を引かれ、結局はゾロの隣へ腰を下ろすことになった。
 皆、サンジのことを待っていてくれたのだろう、じゃあ始めるかという声と共に、隣のゾロも酒瓶を手にした。グラスになみなみとビールを注ぐと、サンジへ差し出す。左手の指輪へ目がとまった瞬間、サンジは受け取ることを躊躇した。この席は、ゾロの奥さんのために空けられていたものではないのか。今更そんなことを思いつき、じくじくと胸が悲鳴を上げる。
「……未成年に、酒勧めんなよ」
「あんなもん吸っといてよく言う」
 にかっと笑ったゾロの顔を見たら、それ以上何も言えなくなってしまった。サンジは、ゾロの手には一切触れないよう、グラスの縁ぎりぎりを掴み、それを受け取った。乾杯の音頭と共に、もうなるようになれと、ゾロとグラスをぶつけ合う。一息に酒を飲み干せば、ゾロの手中のグラスもすっかり空になっていた。そういえば、一度泊まったゾロの家の台所からは、ごろごろと大量の酒瓶が出てきたのだった。
 所狭しと料理が並べられたテーブルには、大量の酒瓶は収まりきらず、そこら中で畳の上に置かれている。誰か零しそうだなとはらはらするも、ゾロの背後へ置かれていた瓶を手にし、二つのグラスへ酒を注いだ。
 こんなことがあっても、腹は減った。村の人たちが面白おかしく語るじいさんの話を楽しく聞き、サンジも相槌を打つ。あのじいさんのことだ、きっと、しんみりした葬式なんて望んではいないだろう。そう思えば、全身の力が抜けていくのが分かった。
「おめェは今何やってんだ」
「……クソジジイのレストラン、手伝ってる」
「へェ。お前の飯うまかったもんな」
 しまいには、瓶ごと酒を呷り出したゾロの言葉に、息を詰まらせる。今は、あの頃と比べものにならねェほど、もっとうめェもん作れる、搾り出すようにして言葉を紡げば、食いてェなと、なんでもないことのようにゾロは言った。サンジは逡巡しながら、煙草に火を点ける。そんなもん、いつでも食わせてやる。その言葉を頭の中で何度も繰り返した。そう言えたのなら、どれだけいいだろう。今の自分の料理を、ゾロに、食わせてやりたかった。そして笑いながら、あの頃のように、うまいと言ってもらいたい。
「食わせろよ」
「……あ?」
「どうせ二、三日ここにいんだろ。明日の夕飯、作りに来い」
 なっ? そう言ってゾロが首を傾げると、左耳のピアスが、変わらず涼しげな音を立てた。ゾロは、老けたというには、まだ若いように思える。十年前だろうが、当時のゾロの顔は、鮮明に思い出すことができた。もしかしたら、今の自分とたいして変わらない年齢だったのかもしれない。
 家に行けば、否応なしにゾロの奥さんと顔を合わせることになるだろう。今は、サンジがゾロの隣を陣取ってしまっているからか、幸いにもまだ、それらしき女性を見ることはなかった。まさか、この中にはいないだろうと、同じテーブルを囲む老人を見回す。居間には入りきらなかったため、奥の部屋にも置かれたテーブルへ視線を向ける勇気は、さすがになかった。なんでおれが、何度もそう断ろうとして、しかし何も言えず、サンジは煙草の煙を深く吸い込む。断ることなど、できるはずもなかった。





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