魔法が解けるまで(上) 文化祭の準備が始まった独特の喧騒の中、結城雅人は、不機嫌を隠そうともしない仏頂面をしていた。 「不景気そうな顔をしているね」 くすくすと楽しげに笑いながら、元凶である竹下みのりが近づいてくる。手には、年季の入った分厚い本が抱えられていた。 「何、それ」 「図書室から借りてきた、小道具さ。魔女と言えば、魔術書だろう?」 「……魔女と言えば、黒猫とか大鍋とか、ほうきだろう」 ぶすっとした表情のまま雅人がそう言うと、みのりは微苦笑を浮かべて首を傾げた。 「さっきから、何をそんなに怒っているんだ?」 「……別に。と言うか、練習はどうしたんだ?」 雅人たちのクラスの出し物は演劇だ。キャストになった面子は、今頃校庭の片隅で発声練習をしているはずである。 「ん……まぁ、ちょっとね」 歯切れの悪いみのりの声に被るように、校庭からクラスメイトの声が聞こえてくるから、発声練習が終わったわけではないらしい。 「主役がこんな所で油売ってて良いのかよ」 「主役は、僕ではなく演劇部の寺西だろう?僕は相手役にすぎないよ」 みのりの指摘に、雅人はさらに顔をしかめた。 「相手役って、だからヒロインだろ?」 雅人の不機嫌な声に、みのりは嬉しそうな表情になる。 「ひょっとして、妬いているのかい?」 「そんなんじゃない」 雅人は切り捨てるように言った。そのまま、視線を窓の外へ向ける。練習の指揮を取る、寺西翔太の姿が見える。 おもしろくない気分で、それを睨みつけた。 「別に、妬いてるとかじゃない」 だから、みのりが一瞬、傷ついたように口を引き結ぶのに、気がつかなかった。 「だから、早く練習戻れよ。別に、寺西と仲良くしてたって、そういう役なんだから当然だし」 「じゃあ、何でそんなに不機嫌なんだ?僕をこの役に推したのは、君だろう?」 「それは……っ」 泣きだしそうなみのりの表情に、雅人は口ごもる。 みのりの言うとおり、彼女をヒロイン役に推したのは雅人自身だ。つい先ほどのHRでの事なのだから、忘れるはずもない。 * 『よーっし、脇役はだいぶ埋まったな。あとは主役の二人だけど……もう立候補も出ないっぽいし、誰か推薦ある人挙手!まずは魔女役!』 焦れたクラス委員の言葉に、教室中がざわめいた。控えめな生徒の多いクラスだから、主役の押し付け合いは目に見えている。仲の良い女子生徒同士が小声でお互いを推し合う中、雅人の呟きが、本人も驚くほど通った。 『竹下みのり』 教室が水を打ったように静かになり、雅人はしまったと顔をしかめた。別に、つき合っているからとか、可愛いからという理由ではない。ただ、人の心の機微を解さない悪戯好きの魔女という設定が、みのりにハマりそうだと思っただけで、しかも本気で推薦するつもりもないただの独り言だ。 が、時すでに遅し。 『竹下さんね。推薦者は結城――っと』 クラス委員は既に候補としてみのりの名前を黒板に書き出し、雅人の悪友はにやにやと笑みを浮かべている。「お前後で殴る」と視線で返し、当のみのりはどうしているかと見れば――悪友以上にこの状況をおもしろがっていた。 『断らないよ。喜んで引き受けよう』 『じゃ、魔女役は竹下さんで』 結局、他の候補も出ないまま、みのりが主役のうちの一人、魔女の役を演じる事に決定した。 そこまでは、良かったのだ。クラスメイトの生温かい視線も、決まりは悪いが不機嫌になる要素ではない。問題は、その次だった。 『それじゃあ最後!王子役!』 人の心が解らない魔女に、愛を教える王子様の役――この劇の主役だ。 『竹下さん、誰か推薦する?』 クラス委員がみのりに訊いたのは、おそらく雅人への気遣いもあったのだろう。自分が王子という柄ではないのは、雅人自身承知している。雅人が王子役をやるには、みのりに指名してもらうのが一番だ。 少なくとも、雅人はそう思っていた。 『そうだな……』 だが、逡巡するみのりの視線は、一向に雅人の方へ向かなかった。 『僕は、演技は素人だし、せめて主役の一人は、経験者の方が良いんじゃないかな。――演劇部の、寺西はどうだろう?』 寺西も、まさか自分が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。 『え……俺?』 何かの手違いを疑うような、間の抜けた声で、返事を返した。 『……他に適任がいるんじゃ』 暗に雅人を指す寺西の台詞に、しかし、みのりは首を振った。 『寺西が適任だろう。このクラスには、他に演劇部所属の人間がいないし――寺西は、後輩受けが良いだろう?』 後輩の、特に女子の受けが良い。 つまり、王子役としてハマるというわけだ。 褒められたはずの寺西は、慌ててみのりに近づき、何事かを話しかけた。みのりはそれに対し、二言三言答える。王子役を辞退しようとしている寺西を、みのりが説得している、という構図らしい。 『……――』 おもしろくない。 雅人はそう思った。みのりから王子として指名されなかった事もだが、代わりに指名された男から庇われているという状況が、気分の悪さに拍車をかける。 『じゃあ、王子役は寺西ということで』 クラス委員がそう言った辺りで、既に相当カッとしていたのだろう。 『次!スタッフ決めるぞ!まずは演出から!』 演劇の一番の要――演出に、雅人は立候補していた。 目次 しおり |