魔法が解けるまで(上)

文化祭の準備が始まった独特の喧騒の中、結城雅人は、不機嫌を隠そうともしない仏頂面をしていた。

「不景気そうな顔をしているね」

くすくすと楽しげに笑いながら、元凶である竹下みのりが近づいてくる。手には、年季の入った分厚い本が抱えられていた。
「何、それ」
「図書室から借りてきた、小道具さ。魔女と言えば、魔術書だろう?」
「……魔女と言えば、黒猫とか大鍋とか、ほうきだろう」
ぶすっとした表情のまま雅人がそう言うと、みのりは微苦笑を浮かべて首を傾げた。
「さっきから、何をそんなに怒っているんだ?」
「……別に。と言うか、練習はどうしたんだ?」
雅人たちのクラスの出し物は演劇だ。キャストになった面子は、今頃校庭の片隅で発声練習をしているはずである。
「ん……まぁ、ちょっとね」
歯切れの悪いみのりの声に被るように、校庭からクラスメイトの声が聞こえてくるから、発声練習が終わったわけではないらしい。
「主役がこんな所で油売ってて良いのかよ」
「主役は、僕ではなく演劇部の寺西だろう?僕は相手役にすぎないよ」
みのりの指摘に、雅人はさらに顔をしかめた。
「相手役って、だからヒロインだろ?」
雅人の不機嫌な声に、みのりは嬉しそうな表情になる。
「ひょっとして、妬いているのかい?」
「そんなんじゃない」
雅人は切り捨てるように言った。そのまま、視線を窓の外へ向ける。練習の指揮を取る、寺西翔太の姿が見える。
おもしろくない気分で、それを睨みつけた。
「別に、妬いてるとかじゃない」
だから、みのりが一瞬、傷ついたように口を引き結ぶのに、気がつかなかった。
「だから、早く練習戻れよ。別に、寺西と仲良くしてたって、そういう役なんだから当然だし」
「じゃあ、何でそんなに不機嫌なんだ?僕をこの役に推したのは、君だろう?」
「それは……っ」
泣きだしそうなみのりの表情に、雅人は口ごもる。
みのりの言うとおり、彼女をヒロイン役に推したのは雅人自身だ。つい先ほどのHRでの事なのだから、忘れるはずもない。



『よーっし、脇役はだいぶ埋まったな。あとは主役の二人だけど……もう立候補も出ないっぽいし、誰か推薦ある人挙手!まずは魔女役!』
焦れたクラス委員の言葉に、教室中がざわめいた。控えめな生徒の多いクラスだから、主役の押し付け合いは目に見えている。仲の良い女子生徒同士が小声でお互いを推し合う中、雅人の呟きが、本人も驚くほど通った。

『竹下みのり』

教室が水を打ったように静かになり、雅人はしまったと顔をしかめた。別に、つき合っているからとか、可愛いからという理由ではない。ただ、人の心の機微を解さない悪戯好きの魔女という設定が、みのりにハマりそうだと思っただけで、しかも本気で推薦するつもりもないただの独り言だ。
が、時すでに遅し。
『竹下さんね。推薦者は結城――っと』
クラス委員は既に候補としてみのりの名前を黒板に書き出し、雅人の悪友はにやにやと笑みを浮かべている。「お前後で殴る」と視線で返し、当のみのりはどうしているかと見れば――悪友以上にこの状況をおもしろがっていた。
『断らないよ。喜んで引き受けよう』
『じゃ、魔女役は竹下さんで』
結局、他の候補も出ないまま、みのりが主役のうちの一人、魔女の役を演じる事に決定した。
そこまでは、良かったのだ。クラスメイトの生温かい視線も、決まりは悪いが不機嫌になる要素ではない。問題は、その次だった。
『それじゃあ最後!王子役!』
人の心が解らない魔女に、愛を教える王子様の役――この劇の主役だ。
『竹下さん、誰か推薦する?』
クラス委員がみのりに訊いたのは、おそらく雅人への気遣いもあったのだろう。自分が王子という柄ではないのは、雅人自身承知している。雅人が王子役をやるには、みのりに指名してもらうのが一番だ。
少なくとも、雅人はそう思っていた。
『そうだな……』
だが、逡巡するみのりの視線は、一向に雅人の方へ向かなかった。
『僕は、演技は素人だし、せめて主役の一人は、経験者の方が良いんじゃないかな。――演劇部の、寺西はどうだろう?』
寺西も、まさか自分が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。
『え……俺?』
何かの手違いを疑うような、間の抜けた声で、返事を返した。
『……他に適任がいるんじゃ』
暗に雅人を指す寺西の台詞に、しかし、みのりは首を振った。
『寺西が適任だろう。このクラスには、他に演劇部所属の人間がいないし――寺西は、後輩受けが良いだろう?』
後輩の、特に女子の受けが良い。
つまり、王子役としてハマるというわけだ。
褒められたはずの寺西は、慌ててみのりに近づき、何事かを話しかけた。みのりはそれに対し、二言三言答える。王子役を辞退しようとしている寺西を、みのりが説得している、という構図らしい。
『……――』
おもしろくない。
雅人はそう思った。みのりから王子として指名されなかった事もだが、代わりに指名された男から庇われているという状況が、気分の悪さに拍車をかける。
『じゃあ、王子役は寺西ということで』
クラス委員がそう言った辺りで、既に相当カッとしていたのだろう。
『次!スタッフ決めるぞ!まずは演出から!』

演劇の一番の要――演出に、雅人は立候補していた。


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