三月十四日

年度末はほとんど授業もなく、HRの後まで教室に残っている生徒は稀だった。
その稀な生徒も、大抵は学校に置きっぱなしにしていた荷物の荷づくりにいそしんでいるだけである。
何をするでもなく、ただぼんやりと音楽を聞いているだけの結城雅人は、例外中の例外と言えた。

「結城君も、誰か待ち?」
声をかけられ顔を上げると、雅人の前の席に、クラスメイトではない女子が座っていた。
「うん、まあ……」
聞いていた音楽を止め、イヤホンを外しながら、雅人は曖昧に頷いた。
待ち人である竹下みのりは、今頃、県立大進学希望者の進学指導――補講ではなく、受験手続の説明会――を受けているはずだ。
「宮下さん、は……何でここに?」
宮下は、隣りのクラスのクラス委員である。別に、他クラスの出入りにうるさい校風ではないが、何の理由もなく行ったり来たりする風習もない。それに、宮下は才媛と名高く、教師の期待も大きい。
県大受験の説明は出なくて良いのかという意味も込めて、雅人は尋ねた。
「私は県大受けないから」
宮下は、おっとりとした表情で笑った。
「上谷を待つなら、こっちの方が良いかなって思って」
「かみや……ああ、委員長」
普段はあだ名の『委員長』と呼んでいるため、咄嗟に結びつかなかった。上谷とは、雅人のクラスの委員だ。
「やっぱり、一緒に帰ったりするんだ?」
上谷が宮下とつき合っていることは、半ば公然の事実となりつつある。が、二人ともさっぱりしており、男女交際に付き物の浮いた噂は全くと言って良いほど聞こえてこない。
頭の良い人間の考えることはわからない――とは、成績底辺を競い合っている雅人の悪友の言である。
そんな二人にもカップルらしい所があるのだと、失礼とも言えることを考えながら雅人は尋ねた。
「うーん……」
だが、宮下は首をひねる。
「いつもは、一緒に帰ったりはしないんだけど、」
言って、照れたように微苦笑を浮かべる。
「今日は、十四日だから」

三月十四日。
はて、何かあっただろうかと、雅人は首を傾げる。
「こないだのお礼を渡すから、教室で待っててくれって」
そこまで言われ、ようやく思い出した。
三月十四日はホワイトデーである。
「結城君も、そうなんでしょ?」
「え、何が?」
話が繋がらず、雅人は訊き返した。

「結城君も、竹下さんにお返しを渡すために、待ってるんでしょ?」

宮下はさも当然のように、尋ねるのではなく、ただ確認をするように言った。
だが、雅人には思いもよらない一言だ。
「は!? えっ!?」
思わず、雅人はのけぞるように身を引いた。
机と椅子が床に擦れ、大げさな音を立てる。
「いや、たしかに俺が待ってるのは竹下さんだけど! でも別に、バレンタインだって俺は何ももらってないし!」
「あ、そっか。ごめん。間違えた」
雅人の大げさな慌てぶりは気にも留めず、宮下はちょこんと首を傾げた。『ごめん』と言いつつ、まるで悪びれない。
雅人は、どこに腹を立てるべきか迷った。
自分がもてないことは自覚しているし、宮下の彼氏である上谷にあらゆる面で敵わないのもわかっている。だが、さすがにもう少し気遣ってくれても良いのではないだろうか。
抗議のために口を開きかけた雅人に、宮下はにこりと笑いかける。
「結城君の方が、竹下さんにあげたんだっけ」
「……は?」
「何を?」と訊きかけ、話の流れからチョコレートしかないと思い至る。
雅人は抗議も忘れ、ただただ首を傾げた。
「それ、誰かと勘違いしてるんじゃないか?」
「そう?」
宮下はおっとりとした笑顔のまま、雅人と鏡合わせのように、軽く首を傾げる。
「でも、じゃあ、竹下さんは誰にチョコレートをもらったんだろう?」
「えっ、それどういうこと?」
雅人は、思わず身を乗り出した。
みのりから、誰かにチョコレートを貰ったなどという話はついぞ聞いていない(誰かにあげたという話もだ)。
「どういうことって、」
宮下は、雅人の視線から逃げることなく、答える。
「竹下さん、バレンタインの日に嬉しそうにしていたよ? チョコを貰ったって」
竹下さん、人気があるものね――と、しみじみと付け加える。

雅人にとっては、晴天の霹靂だった。
もちろん、みのりのことを好きな人間がいるのは、驚くことではない。その人間が何らかの行動を起こすことも、考えてみれば当然だ。
だが、それを知らされなかったことが、ショックだった。
同時に、正体不明の不快感がある。もやもやとした不快感は、みのりのことを思い浮かべる度に増すらしい。
みのりの友達がいの無さに、腹を立てているのだろうか。
「言ってくれれば良いのに……」
口に出してみたが、どうにもしっくり来ない。
原因も正体もわからない不快感に、雅人は顔をしかめた。
「そう言えば、」
雅人の内心がわかるはずもなく、宮下は追い打ちをかけるように話を続ける。
「竹下さんが、今朝持ってた紙袋……あれ、そのお返しなんじゃないかしら」
「……――」
雅人は相づちも打たず、苦い顔でみのりの机を見た。
みのりは、放課後の進学指導に最低限の筆記用具の類しか持って行っていないようで、鞄は机の上に置いてある。
宮下が言う紙袋は、ない。
もう、渡した後なのだろうか。
「気になる?」
「えっ」
つい、みのりの鞄を凝視していたらしい。宮下の声に、はっと我に返った。
「いや、別に、その……」
条件反射のように否定の言葉が出かけるが、気にならないと言えば嘘になる。
「気になるって言ったって、俺には関係ないし……」
雅人自身、言い訳がましいと思う。相談せず、突き放したのはみのりの方だとでも言うのだろうか。
もやもやとした気分でぼやく雅人に、宮下はくすりと笑った。
「関係ないことはないでしょう」
首を傾げる雅人と鏡合わせのように、小首を傾げてみせる。

「結城君は何で、竹下さんを待ってるの?」

「そっ、それは、」
雅人は言い返そうと口を開き――なぜだろうと、考えた。
「何で……って……」
別に、待ち合わせをしているわけではない。みのりに待っていてほしいと言われたわけではないし、別段用事があるわけでもない。
ただ、いつもの通り一緒に帰るのだと思ったから、待っていようと思っただけだ。
いつも通り。
いつの間に、一緒に帰るのが当たり前だと思っていたのだろう。
「その……」
決まりが悪く、雅人は視線をそらした。
そんな雅人を見ながら、宮下はくすくすと楽しげに笑った。
「竹下さんが、誰からチョコを貰ったか、気になるんでしょう?」
「それは……まあ、そうだな……」
答えて、ようやく雅人はそれを認めた。
「気になるな」
「じゃあ、竹下さんに訊いてみないとね」
宮下はにっこりと、満足げな笑みを浮かべる。

「……そうだな」

雅人は、そう言って頷いた。
もうじき、進学指導が終わる頃合いだ。


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