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午前中の授業を終え、向かった先は食堂。昼休みというだけあって、堂内は超満員だった。
お目当てのメニューをトレイに乗せ、空いている席を探していたら、見知った人物が視界に入った。よく見れば、彼の目の前の席が空いている状態だ。
レンは人の間を縫って、ゆっくりと歩き出す。幸い、他にあの席を狙っていそうな人物は居そうもなかった。
「やぁ、イッキ」
手に持っていたトレイをテーブルに置き、レンは返事を待たずに音也の前の席に腰を下ろす。
「あ、レン」
スプーンを持つ手を止めると、音也は笑みを刻んで、此方に視線を傾けてくる。
「レンもお昼?」
「あぁ。そういえば、シノミーと聖川の姿がないけど…」
「うん。二人は林ちゃんに呼ばれて、職員室に連れて行かれたんだ」
「あの二人、授業中に何か悪さでもしたの?」
二人共そういうタイプではないのは十分承知しているけれど。半分からかいつもりで尋ねたら、違う違うと言って、案の定、大仰なくらい首を横に振って音也は否定してきた。
思い描いていたような反応が相手から返ってきて、何だか嬉しくなってしまう。
「ただ林ちゃんに雑用を頼まれただけだって。そう言うレンだって、一人だよね?トキヤと翔はどうしたの?」
「あぁ、あの二人かい?イッキのところと大体同じさ。二人共、龍也さんに用事があるって、追い掛けるように教室を出て行ったんだ」
トレイの上のミートソースにタバスコを振り掛けながら、レンは言った。
「へぇ、そうなんだ」
「ま、用事が終われば、二人共、此処に来ると思うけどね」
ほぼ一本分のタバスコを振り掛け終わると、今度は粉チーズをこれでもか、というくらい振り掛けて。チーズの白い山の頂からフォークにパスタを巻き付け、徐に口へと運んだ。
暫くレンの食べっぷりを呆然と見ていた音也も、漸く食事を再開させた。
「…そう言えばさ」
他愛ない内容の話を続け、互いの皿の料理が半分ほどになった頃、レンがふとあることを思い出し、口を開く。
「アレはどうなった?」
「ア、レ…?」
「俺がイッキに教えた、あのおまじないのことさ」
「…え」
途端、それまで忙しなく動いていた音也の手が、ピタリと止まった。
「実際にやってたんだろ?」
「う、うん…」
音也は曖昧に答えると、右へ左へと視線を彷徨わせる。
相手のこの反応を見る限り、何か進展があったのは間違い無さそうだ。
この二人のこと、きっと良い方向に進んだに違いない。いやいや、呪いを自分が彼に教えた手前、そうでなくては困ってしまう。
『君は僕を好きになる』
誰にも見つからずに、気付かれずに、眠っている想い人の元に行き、そっと耳元で囁き、そっとキスをする。毎日でなくても構わないから、百回それを続けることが出来れば、想い人は自分だけを見てくれ、優しい恋人になる――という、そんな内容の呪(まじな)いを音也に教えた。
しかし、この呪いは実際には存在しない。否、あることはあるのだが、少し内容が違っていた。
本来の呪いは、耳元で囁かないし、キスだってしない。況してや、寝込みを襲うような行為などする必要はない。
想い人に気付かれないように少々近付き、その背中に向かって、心の中で『君は僕を好きになる』と百回呟けば、その恋は成就するというものだった。
元々本来の呪いの存在を知っていたレンが、なかなか進展しない二人の為、少々過激にアレンジしてあげたのだ。
トキヤが音也を大切に思っているのは、普段の言動から目に見えて分かっていたし。目の前の相手も、トキヤを好きなことは分かり過ぎるくらいだった。それは自分だけじゃなく、二人の友人全員が気付いていたことだ。
恐らく、トキヤの方はそれなりのアクションを起こしていたのだろうが、それが実を結ばなかったのは、一重に音也が奥手で、余りにも鈍過ぎたからだろう。トキヤの心中を思うと何だか切なくなってしまう。
だから、音也からトキヤ絡みの恋の相談を受けた時、友人として何とかしてやらねば、と思った。その時思い付いたのが、この少々過激な呪いだった。
正直、奥手な音也が実際に最後までやり通すことが出来るのか心配だったが、どうやらただの杞憂だったようだ。人間、一度決心したら、そうは揺るがないらしい。
「それで?」
「それで、って…」
「イッキの想いは無事成就したんだろ?」
「う、うん、まぁね…。トキヤが俺のこと愛してる、って言ってくれたよ」
「へぇ、良かったな、イッキ」
「う、うん…」
自らの恋が成就したというのに、相手の歯切れの悪いこの反応は何なのだろうか?
何時もの音也なら、太陽みたいな眩しいくらいの笑顔を浮かべる場面のはずなのだが。
もしかして――。
「イッチーと何かあったの?」
「…っ」
スプーンが皿の縁に当たって、耳障りな音を立てた。まるで、目の前の人物の動揺が、そのまま音になったような、そんな感じだった。
「まさかあいつに、キス以上のことをされた、とか?」
「…っ!?」
適当に思い付いたことを言っただけだったのだが、音也の、先程よりも大きな動揺に、直ぐに肯定だと理解出来た。
「でもでも…っ、トキヤがしてきたのって、レンが教えてくれたお呪いを全てやり終わった後だったし、俺があいつを煽ったようなものだし…」
「へぇ、イッキがイッチーを煽ったんだ」
「…っ」
レンがそんな反応を示すと、目の前の人物はぽっと頬を真っ赤に染め、堪らずといった様子で、顔を伏せる。
音也はからかえばからかうほど、表情を百面相のようにコロコロと変えていくから、見ていて飽きることはない。
「それにしても…」
あのトキヤが、ねぇ…――、と、レンはしばし呆気に取られた。
普段は聖人君子のような。ストイックで、そんな邪なことは一切考えてなさそうな、涼しい顔をしているくせに。人は案外、見掛けによらぬものである。
とはいえ、トキヤは凄い思った。
このような呪いを提案しておいて言うのも変かもしれないが。もしも好きな相手に、毎夜、夜這い紛いなことをされたら、間違いないなく自分はその相手に、我慢出来ずに手を出してしまうだろう。百回などという気の長くなるような期間、待っていられるはずがない。
それをトキヤは辛抱強く待ち続けたのだから、同じ男として、賞賛に値する。
「…ねぇ、イッキ。さっき自分がイッチーを煽ったって言ってたけど、どんな風に?」
「え、どんな、…って」
音也は視線を彷徨わせて、僅かに口籠もった。
言い難いことを言わせている、という自覚はある。込み入った話であるということも。でも、そこを敢えて訊いてみたくなったのだ。好奇心を煽られた、とでもいうべきか。
「……」
隣のテーブルに座っていた女子生徒たちのグループが立ち上がり、離れていく。これでそれほど周りを気にする必要は無くなった。
「……トキヤがね」
暫く静かに待っていたら、音也が躊躇いを滲ませながらも、徐に口を開いた。
「俺の夢を見てて」
「夢?」
「うん」
「普通の夢だったなら、俺も苛ついたりしなかったんだけど、あいつが見てた夢が、どうやら厭らしい内容だったみたいで…。俺の名前呼びながら、変な所触ってきたりしてさ」
「変な所…」
「……ア、ソコ、とか」
敢えて言葉にするのは恥ずかしいのだろう、その部分だけは消え入りそうな声で言った。
「夢の中で、トキヤと夢の中の俺がイチャついてる、って考えたら、何か悔しくなっちゃって。それで、トキヤを無理矢理起こして、夢の中で何をしてたのか、実技付きで教えろ、って勢いで言っちゃってさ」
「それで、最後まで?」
尋ねたら、音也は恥ずかしそうにこくりと小さく頷いた。
「良かったじゃないか、イッキ」
「全然良くないよ!キスもまだしてなかったのにさぁ」
「………」
頭を抱え、悔しげに言う音也に、僅かに苦笑いを浮かべる。
レンが提案した呪いを実行している時点で、実際には沢山のキスをしていることになるのだが。それは敢えて、音也本人には伝えないでおく。
「こういうことにも順番ってあると思うんだ。それを全部飛び越えて、トキヤといきなりシちゃうなんて…」
「順番ってさ、そんなに大事かな?」
「え?」
「愛し合っていれば、全て、何れはする行為だろ?好きだったら、相手の全てが欲しいと思うのが必然で、本当は順番なんて関係無くないか」
トキヤの場合、ちゃんと音也の想いを汲んで最後まで待っていてくれたのだから、やはり、凄いと思う。
キスは毎晩しているのに、手を出せない状況は、生殺しに近い状態だったに違いないだろう。
「それとも、イッキはイッチーに実際に抱かれるのは嫌に感じたのかい?」
「全然そんなことないよ!ないけど――」
音也が言葉を言い掛けて――、会話は突然上から降ってきた咳払いによって、中断された。
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