「随分と酷い顔をしているな」

「…クロロ」

もう二度と会うことが無いと思っていた人物がひょっこりと目の前に現れたのに私は案外驚かなかった。今日も仕事の斡旋所で日雇いの仕事をもらい、少ない給料と最低限の栄養がとれる食事を片手に帰路についたところで、まさかの出会いだったにも関わらず、だ。

「家はここか?随分小さい」

「私の身の丈には合ってるよ」

「はは、そうか。中には入らないから安心しろ」

話をしに来たのではなかったのか、私の顔だけを見てすぐ立ち去ろうとする彼の腕を何故か思わず掴んでいた。しかし、クロロは少し驚いたように目を見開いて優しく私の手をほどいた。ああ、いけない。そんな動作ひとつに私はまた少し傷ついた。

「…」

「…」

ほどかれた手は行き場をなくして、体の両脇に収まった。クロロは無言だったが、私も何も言えなかった。離れたいと願ったのも私。もう傍にいれないと見切りをつけたのも私。全部私の選択だったのに、今更何を縋ろうと言うのか。
お金がないから貸してほしい?寂しいから傍にいてほしい?どれもこれも当たっているようで違う気がした。それでも、今この瞬間、過去に置き去りにしたはずの仲間の顔を見て、一人きりになりたくないと思ってしまったのは事実だった。

…もう何か月もシャルナークには会っていない。

あのショッキングピンクのライトの中で起きた、痛くて苦くて酷く何もかも汚されてしまったようなあの日は、今でも鮮烈に思い出す。カレンダーを見て、あの日からもう3か月たったのだとようやく気付いた日、あの出来事が私の脳みそにこびりついてしまっていることを認めざるを得なかった。

「そっちの初めては今度」と言われた言葉を思い出しては、仕事から家に戻る帰路で、家の目の前に彼がいるのではないかと考えては首をふる。無論、そんな日が訪れることはなかったのだが。
それでも、私はきっと心のどこかで期待していたのだ。シャルが私の”初めて”をもらいにくることを。思い出を汚されたと感じながらも、彼が私に感情をぶつけてくれるのを私は大いに喜んでいたのだ。

特別な人たちの中にいる特別でない私が、特別なあの人に愛されている、その実感だけが私の自尊心を満たし、生きる糧になっていることをようやく私は認めることができたのだ。
酷くやっかいで我儘で自意識過剰だ。そんなこと分かっている。
だけど、もうシャルを忘れることはできないし、一人で生きていくことなどできないのだと思った。

「ねえ、クロロ。私もう戻っちゃだめなのかな」

私は汚い人間だ。涙があふれそうになるのを抑えながら、まだ彼が私を”特別”の枠にいれてくれていることを願って、もう一度彼の腕を掴んだ。



「………笑い話もいいところだな」

長い沈黙のあとに紡がれた言葉は、今までに聞いたことがないくらい冷たかった。
いつの日か、クロロが人を殺していた現場を見た時に発した温度と同じ。視界に入った瞬間にはもう忘れているような、そのへんの石ころと同じ扱いの人間に対する感覚とまるで同じだ。
その言葉の温度を感じて、私は、上を向くことなどできずに彼の白い腕を掴んだまま、じっと黒い革靴に視線を移した。彼がどんな表情をしているのか、…見るのが怖かった。

―――とっくに私は”特別”などではなかったのだと、この瞬間にようやく気付いた。

ではなぜ私の目の前に彼はもう一度現れたのか?どうしても疑問が残る。問いただしてしまいたかったが、それを聞く勇気など私の体の中にはこれっぽちも残っているわけがない。

強く握りしめていたはずの彼の腕は、いつのまにか外れ、じっとねめつけていたはずの黒い革靴はもうそこには無かった。
望んで望んで望んで、ようやく手に入った、幻影旅団、殺人、血のにおい、そんな普通からはるか遠いものたちから手を切った日常。それが手に入った瞬間の私の心は、思い描いていたものと全く異なる、酷い虚無だった。


***


「やっぱり名前は俺がいないと生きていけないんだよ」

ああ、まるで当然必然と言いたげに笑顔を作ったこの男は、もうとっくに壊れているのだろうなとクロロは思った。
シャルナークはあんなにも執着した女から急に手を引いたと思えば、遠くから、しかし視界に入るところからずっと観察していたのだ。自分がいなくなって明るく振る舞った一か月目、少し元気がなくなった二か月目、やつれた様子の三か月目、楽しそうに近況を報告してくる男に嫌気がさしていたのは自分だけではなかっただろう。

フィンクスの呆れた顔もマチのドン引いた視線も、珍しく困り顔をしたシズクも、皆がいい加減どうにかしてほしいと感じていたに違いない。

どうせ監視していることは分かっていたので、あえて会うことを秘密にせずに名前に会いに行ったわけだが、想像以上の弱り具合にこちらも困惑したものだ。
戻りたいと俺に縋る手を握ってやることは簡単だ。しかし、こちら側に戻したところで彼女は果たして満足するのだろうか?いや、満足しようとしまいと、もう逃げだすことは適わなくなるだろう。

結局、逃げ出してから戻りたいと縋るまで、この一連の流れ全てシャルナークの思うままだったのだ。

「………笑い話もいいところだな」と思わず零れた言葉は本心だ。

流星街でゴミに埋もれた彼女を見つけたのは自分だった。そんな遠い昔の記憶に思いを馳せ、ああ、俺も心から名前が欲しかったと、昔の自分を懐古する。

「けじめはきちんとつけろ」

家の前で俯いたまま立ち尽くす彼女から視線を外そうとしないシャルの背中を叩く。
少し強めに叩かれた音に、「痛い!」と叫んだ男を見て、俺は久しぶりに笑った。



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