最底辺も最底辺。ろくでなしにも程がある。私はあの夜の自分の行動を振り返っては頭を抱え、枕に顔を沈めるという行為を毎晩気が狂ったように続けていた。あれからもう一週間経った。鉄朗くんとはあれから一切連絡を取っていないし、顔を合わせてもいない。あれだけタイミング良く出会っていたのが嘘みたいだ。最近の神様はものすごく空気が読めるらしい。

 酔った勢いのキスなんて、最低だけど正直今まで何回もやってきた。ただ、今回ばかりは相手が悪すぎる。あの日あの瞬間、雌としての本能が理性を上回り、あの鉄朗くんを食べてしまった。それだけで済んだらまだなんとかなったのに、あろうことか、私はキスの最中に別の男カッコ元カレの名前を呼んでしまうという致命的なミスを犯してしまった。今までこんなことは一度だってなかったのに、どうして。
 ……いや、答えはとっくに出ている。それを、どうしても認めたくないだけだ。

 私の元彼は既婚者だった。もちろん、最初からそうだと知っていて付き合ったわけではない。騙されていたのだ。知った時には、もう全てが遅かった。心と身体は完全に彼に囚われて、彼のことを死ぬほど愛していた。駄目だと知りながら手放せなかった。その愛を彼に利用され、好きなだけ弄った後、彼はある日、私のことをいとも簡単に手放した。この頃の私は、男を見る目がてんで駄目だった。あろうことか彼に事実を問い詰めた時「なまえは知ってて付き合ってるものだと思ってた」なんて、いけしゃあしゃあととんでもないことを言われたのだ。死ぬほど愛した人が実は既婚者だった、なんて誰にも言えなかった。ひとりで全部抱えて泣いて仕事にも影響が出るくらい苦しくて、それでも愛おしさは消えなかった。

 恋愛で全てが駄目になっていく私を見るに見かねた母が、唯一の味方になってくれた。母は私が中学の時に父を亡くしてから、女手一つで私を育ててくれた。病気で亡くなった父が、最期は朦朧とした意識の中で母じゃない女の名前を呼びながら逝ったという話を大人になってから知り、男としての理想像だった父の姿が見るも無残に崩れていった。それでも母は強い女だった。私がショックを受けていたら「あんたと私に遺産を残してくれただけマシな男よ」と笑っていた。慰めの言葉にしてはいささか刺激的である。
 泣かない縋らない約束しない、冷たい女は振られない。既婚男に振り回されていた私に、母が言った言葉である。要は振り回す側になれ、という意味らしいが、母の性格がモロに出ており笑ってしまった。私はそんな母がいてくれたおかげで、やっとのことで立ち直れたのだ。

 彼と別れてから、特定の男を作るのをやめた。そのおかげで、色んな男との出会いを経験した。男を見る目がどんどん養われてゆき、この世にはろくでなし夫とろくでなし子という人間が、思った以上に多いということがわかってきた。もちろん、自分も含めてである。
 だからこそ、鉄朗くんのような人間は、少し話しただけでもその誠実さがすぐに伝わった。私がそういう時間を過ごしてきた男たちと、何もかもがまるで違う。そんな男に、私みたいなろくでなしが、本気の恋をするなんてことが烏滸がましい。清廉潔白、品行方正。正しく生きてきた人間は、正しき人と結ばれるのが道理だ。彼の素晴らしき人生において、私なんかに時間を割く必要はまったくない。

 そう、思っていたはずなのに。
 鉄朗くんは私の引いたラインをどんどん消していって、私自身も知らぬ間に踏み越えていた。キスをした時に抱いた感情。あれはまさしく、相手を愛おしく思いやる心。この三年間、私がずっと奥底に眠らせていたものだ。一度花開けばもう遅い。好き、好きだ、私は鉄朗くんのことを、もうこんなにも愛してしまっている。何がキッカケかなんてわからない。初めて彼を見た時か、それとも一緒にエレベーターに乗った時か、大好きなワインを乾杯した時か、じっと見つめ合ったあの時間か。そのどれもが、私の心の錠前を引っ掻き続けて、とうとう、壊れてしまった。

 苦しい。鉄朗くんへの恋心は、私の心の痛みにしかならない。どうしてこんなことで、傷つかなくちゃいけないんだろう。どうせもう嫌われたのに、なんでいまさら自覚しちゃったんだろう。考えれば考えるほど、辛いと思えば思うほど、彼への気持ちが膨らんでいく。
 こんなことなら出会わなければよかったのに。なんて、悲劇のヒロイン染みたことしか思い浮かばない。また恋愛で駄目になる。私、結局、あの頃から何も成長しちゃいない。


***



 そして私はとうとう発熱し、ぶっ倒れた。手元の体温計は39.3℃を示している。初めてみた数字だ。壊れてるんじゃないかと思って何回も何回も試した。壊れているのは私の方だと八回目くらいで自覚した。
 身体も頭も死ぬほど重い。かろうじて会社に連絡を入れることはできたが、ベッドから一歩たりとも動けなかった。肉体的にも精神的にも辛く、それだけで涙が溢れてきた。カラカラに喉が渇くのに、水を取りに行くことすら怠い。私、このまま死ぬのかな。なんて朦朧としながら嘆き、気づけば意識を失っていた。

 それから十時間ほどぶっ通しで落ちていた。寝て汗をかいたせいか、朝よりも少しだけマシになっていた。それでもまだ38.5℃の熱があるらしい。39度台を一度経験した身からすれば、頑張ればまあ動けるな、という感じだった。
 ベッドから降りて立ち上がった瞬間、ぐらりと視界が揺れた。ひどい目眩がする。何もお腹に入れてないせいで、とにかく胃が気持ちが悪い。ただ、病人が食べるような食物は私の家に常備されていない。熱なんか滅多に出さないので、解熱剤すら置いてない。一人暮らしはこういう時がいちばん困る。

 とにかく薬は必要だ。寝て治す体力は今の私に備わっていない。いまさら病院に行くのも逆にしんどいだけなので、とりあえず市販薬で凌ぐしかない。四月初旬なんて、どこの企業も死ぬほど忙しい時期だ。私も新入社員のオリエンテーションと部下育成を任されているため、キャリアシートのチェックや資料作りに一日中費やしている。そんな時期に、何日も仕事を休むわけにはいかない。上司は快く「ゆっくり休んでね」なんていうけれど、後々すべてが自分自身に降りかかってくるだけだ。熱さえ下がればなんとかなると信じて、私は必死で身支度を整える。
 部屋着のスウェットの上に軽めのコートを羽織り、黒の大きめのキャップとマスクを付ける。これで近所の誰かとすれ違っても、私だとバレないはずだ。満身創痍なうえ、こんな部屋着で外出してるなんてところ、誰にも見られたくない。時間はまだ午後五時すぎだ。……流石に、いくらなんでも、平日のこんな時間に隣人と鉢合わせることもないだろうとたかを括っていた。それが馬鹿だった。


「……………なまえさん?」
「…………いや人違いです」


 昇ってくるエレベーター。その扉が開いた瞬間のことである。まさか人が乗っていると思わず、踏み出した瞬間ハッと上を向いてしまった。そこで、中に乗っていたその人とバッチリ目が合ってしまう。
 察しの悪い人でももうおわかりだろう。602号室の隣人、鉄朗くんだ。久しぶりの再会である。私は逃げるように後ずさり、顔を下に向けて帽子のつばを限界まで両手で下げる。話しかけるんじゃないオーラを悶々と出しながら粘っていると、鉄朗くんはあろうことか私の前にしゃがみ込み、ヤンキー座りで私の顔を下から見仰いできた。

「…………っ、な、に!」
「なまえさんさぁ、もしかして具合悪い?」

 ぐら、と目眩がした。鉄朗くんの顔を久しぶりに見たこと、こんな酷い姿をまじまじと見られてしまったこと、具合が悪いことを即座に見抜かれたこと。その全てが私の脳を破壊する要因となった。

「……………わかるなら、どいてくれる」
「いーやどかない。欲しいものあんなら買い物は俺がいくから、なまえさんは家で寝ときなさい」
「…………は?何言ってんの」
「ハイ。んじゃ強制送還ね」

 ぐわん、と視界が揺らいだ。なんと、まさか、この男、私のことを、何も言わずに抱き上げたのである。少女漫画かよとツッコミたくなるような展開なのに、生憎ツッコミを入れる元気がもうない。私は何もかもに絶望し、思考を放棄した。エレベーターから部屋までの距離、およそ二十メートルを抱っこで運ばれてる間、私は鉄朗くんに縋りつくしか術がなかった。抵抗するよりこの方がよっぽど楽だからだ。こころなしか、また熱がぶり返してきたような気がする。

「鍵どこ?コートん中?」
「ん…………」
「つーか身体すげー熱いじゃん。いったい熱何度あんの?」
「……」
「あー……ごめんごめん」

 何も喋らなくなった私に、鉄朗くんは色々と察してくれたらしい。何も言わずとも私のコートのポケットの中から鍵を探り当て、ガチャと、鍵を回す音がした。

「中、入ってもいい?」
「…………ん」

 もうなるようになれである。多少散らかっているかもしれないが、別に見られて困るようなものはない。そもそも、もうそんな事を気遣う余裕すら失せている。
 鉄朗くんが玄関先で靴を脱ぎ、私の靴も脱がせてくれた。そのままリビングまで運ばれてゆき、部屋の真ん中に置いてあるソファーの上にゆっくりと身体を下ろされる。家に入ってからずっと静かだった鉄朗くんが、そこでようやく口を開いた。

「……じゃ、俺は買い物行くけど、なんか欲しいものある?」
「…………とりあえず、熱下げる薬」
「了解。鍵、ちょっと借りてくわ」

 必要最低限の、淡々とした会話だ。手の甲を額に当て、私はソファの上でぐったりと項垂れていた。目を合わせることもなく、ただ、聞かれたことに答えただけ。それなのに、私は泣きそうになっていた。喉奥がジリジリと痺れて、酷く熱い。声が震えなかったのが幸いだった。
 ただでさえ体調が悪く心細い時に、今は一番会いたくなくて、誰よりも恋しいその人が、目の前に現れた。そんな事、全部すんなり受け入れられるわけがない。鉄朗くんは私の返事を聞くなりあっさりと踵を返して部屋を出ていったけど、しばらくしたらまた帰ってくる。その時、私はいったいどんな顔をして鉄朗くんを迎えればいいのだろう。生憎、十時間も寝たせいで、寝落ちして知らんぷりなんて都合の良い術は使えそうもない。

 どうして何もなかったような顔をするの?どうしてそんなに優しくするの?聞きたいことは山ほどあるのに、私は結局、彼の答えを聞くことを拒んでいる。
 自覚したとたんこれだ。鉄朗くんの前であれだけ饒舌だった私が消えていく。私が私でなくなっていく。顔を合わせるのが怖い。彼とうまく話せない。これだから、恋愛なんてのはクソなのだ。

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