今日は待ちに待った金曜日。なんてったって華金だ。先週は後輩の不始末で朝から晩まで仕事漬けの一日だったので、今日こそは絶対に、なんとしても仕事を早めに切り上げて、酒を飲みに行くのだと意気込んでいた。

 私は無類のお酒好きだ。家の近所には行きつけの飲み屋が複数存在し、店に来る常連たちとはすっかり気の知れた仲である。一人で行っても見知った顔が必ずどこかにある。そんな空間がたまらなく心地良く、美味しいご飯と美味しいお酒を味わいながら過ごす時間は、日々のストレスをかき消してくれた。最近は趣味が高じてワインエキスパートの資格を取得した程。仲の良いワインバーの店主にそれを告げると、合格のお祝いに良いワインをあけてくれるという話になり、それがまさに今日この日に決まったとあらば、私の行動は早かった。誰よりもテキパキと仕事をこなし、なんなら頼まれるまでもなく後輩の仕事まで勝手に手をつけて終わらせた。結局これを放置したとて、最終的にはこちらに回ってくる。先週の二の舞はごめんだと先手を打ったまでのことだ。

「てことでわたし今日プレフラしまーす」

 ぱたん。と自席のパソコンを閉じて立ち上がる。ここまでしたのだから、誰にも文句は言わせまい。今日は朝から顔も髪もバッチリ整えてきた。巻いてひと纏めにしていた髪を解き、ヒールを少し低めのものに履き替えて、時計を外し、腕にコートを抱える。そそくさと身なりを整えていれば、皆が「ああみょうじさん今日も飲みに行くんだな」と悟った顔をする。言わずともご理解頂けてなによりだ。

「ええ!みょうじさーん!俺も連れてってくださいよ〜」
「えー無理」

 今日は一人の気分なのだ。甘えてきた後輩をあっさりとかわし、また誰かに引き止められる前に足早にオフィスを出た。

 仕事において大切なのはメリハリだと思う。ただ、それを言っていいのはきちんと仕事が出来る人だけだ。自分はそれが許される人間だと自覚しているし、実際に許されてもいる。誰も文句を言ってこないし、私が勝手にプレミアムフライデーをキメようと「おつかれさま」と笑顔で見送ってくれるのがなによりの証拠だった。
 この仕事がとくべつ好きなわけじゃない。やりがいに満ちているわけでもない。ただ、与えられた仕事以上のこともやってはいる。有休日数や給与は働きに見合っており、なにも文句はない。仕事に対するモチベーションの維持の仕方は人によりけりだが、私はやりがい云々よりも、プライベートや趣味の時間をどれだけ安定的に確保できるかが最重要ポイントだった。新卒からここまで積み上げてきた結果として言えるのは、この仕事は私に向いているということだ。

 一階ロビーへ向かうエレベーターに乗り込みながら、パンツのポケットからスマホを取り出しラインをひらく。例の店の店主宛に「無事上がれたんで抜栓の準備お願いします」と大量のハートマーク付きで送りつければ、ものの数分で返事がきた。にやけながら適当なスタンプを返す。

 しゅぽ!という通知音を皮切りに、最高の週末が幕を開けた。


***



 家から徒歩十分程度の距離にあるワインバーから店主と常連たちに見送られ、ふらりと軽い足取りで帰路を歩いていた。腕にぶら下げたビニール袋が、歩くたびガサガサと音を立てている。これはお土産に持たされた天むすだ。ワインバーなのに天むすなんて、店主はこだわり屋さんだな。天むすってかわいいな。なんかころころしてる。など、酔っ払いならではの謎思考に陥りながらも、体内をただよう心地よいアルコールの波に揺られ、いつもと変わらぬ夜の街並みを眺めていた。
 単身向けのマンションが多い住宅街では、平日の夜中でもそこそこ人通りがある。女一人の帰り道、腑抜けた酔っ払いと認識されて変な男に絡まれない様に気を張るくらいの余裕はまだあった。それでも、油断するとつい鼻歌が溢れてしまうくらいには気分が良い。せっかくの金曜日で、明日はお休みだ。このまま家に帰るのは少しもったいない。まあまあお酒が回っているけど、せめてあと一件くらいは立ち寄ってもいい気がする。
 そうと決まれば、コートのポケットからスマホを取り出した。画面をカチカチとタップして、フォロー中のストーリーをのぞき見る。どこで誰が飲んでるか、これを見ればすぐにわかるから超便利だ。金曜の夜だから普段より投稿もたくさん。みんなも楽しい夜を過ごしているらしい。道路脇にある自動販売機のそばで足を止め、しばらく夢中でスマホを眺めていた。

「あれ、」

 それから数分経った頃だろうか。前方に人の気配と声がした。もしや、自分が話しかけられたのだろうかと、手元から顔を上げる。
 するとそこには、まさかもう二度と会うことはないだろうと思っていた人物が、あの日と変わらぬ最強のビジュアルで立っていた。
  
「こんばんは」

 月の薄い夜にとけこむ、低く心地の良い声だ。すらりと伸びた背に、清潔感のある黒い短髪。上品な茶系のスーツと黒のロングコートがまたよくお似合いですこと。こんなところでちょうど鉢合わせるなんて、今日の私は運が良い。

「くろ〜さんだぁ。こんばんは」

 奇跡だ。また会えたのが嬉しくて、だらしなく頬が緩んだ。あの日一度しか聞いていない名前もバッチリと記憶していた。
 先週とはうって変わり、今日のコンディションは最高値といっても良い。服も髪も化粧も完璧。さらにはお酒の魔力も備わっている。これ以上ないシチュエーションに感謝した。あの悲惨な初対面のリベンジを今ここで果たす時がきたのだ。

「遅くまでお疲れ様です。あ、この前いただいたバームクーヘン、あれわたし大好きですぐ食べちゃいました。とってもおいしかったです」
「……あ、ああ、それはよかったです」

 その姿を改めて目に焼きつけた。やっぱり死ぬほどタイプの男だ。表情筋が仕事をしてくれず、ずっと顔が緩んだままだ。
 そんな私とは対照的に、クロオさんの方は明らかな動揺をみせていた。私の態度が先日とあまりにも違うから、きっとビビっておられるのだろう。それは致し方ない。ただどちらかといえば今の方が素に近いので、そんな彼にもめげずに話しかける。

「これからご飯ですか?」
「……あ、そっすね。最近はずっとこの時間で」
「お忙しいんですね。……あ、あっちの角にあるお店、若いご夫婦が結構遅くまでご飯作ってくれるのでお勧めですよ。豚汁とかお魚の煮付けとかもうめちゃめちゃ美味しいです。仕事終わりの身体に沁みます」
「え、マジすか。今日はテキトーに買ってきちゃったんで、また今度行ってみます」

 クロオさんの声のトーンがわずかに上がったのを察知する。これはなかなか食いつきが良い。知り合ったばかりの男とはだいたい美味いメシの話から始めれば良いと、行きつけの店の常連たちに教え込まれていた。良かった。彼にもちゃんと効いたみたいだ。

「お姉さん、もしかしてこの辺り詳しいんですか?俺越してきたばかりであんま開拓出来てなくて」
「……これは自慢なんですけど、その辺のインスタのグルメアカウントみるよりよっぽど頼りになると思います」
「っはは。それ最高すね」

 今度はクロオさんの方から話を振ってくれた。グルメトークなら誰にも負けない自信がある。
 何せ私はフォロワー数十万人超えのグルメアカウントを運営している、通称グルメインスタグラマーだ。本職は広告代理店勤務のOLだが、副業としてこのSNSの運用もきちんと許可が降りている。たまにそっち関連の仕事も回ってくる程度には、社内で広く認知されていた。
 今までの経験が活きた結果となり、私はすっかり調子づいていた。クロオさんもようやく私のテンションに慣れてくれたのか、緊張の面持ちがすっかり和らいでいる。私は近所のお店をいくつかピックアップして共有した。その流れで、なんとラインを交換するところまで行き着いた。
 彼は"黒尾鉄朗"というらしい。「フルネームでラインを登録している男は信用できる」とマッチングアプリで男を探している友人が話していたのを思い出して、少し笑ってしまった。
 ぴこぴこぴこ、と黒尾さんのラインの通知音が複数回鳴る。イチオシの店情報をいくつか送ったのだ。黒尾さんは確認するなり「おーココ気になってたとこだ」と良い反応をくれた。さすがは黒尾さんだ。お目が高い。

「あ、お名前……なまえさん、であってますか」
「あ、ですね」

 私のラインのアカウント名を指して、黒尾さんが聞いてきた。名乗ることも忘れてすっかり話し込んでしまった。私のラインは下の名前だけ登録しているので、飲み屋などで連絡先を交換した人とはそのままなまえ呼びで定着することがほとんどだ。自然な流れで黒尾さんにも名前呼びをしてもらえるのは素直に嬉しい。

「みょうじなまえです。好きに呼んでください」
「あ、俺は黒尾鉄朗っていいます。つーかラインもそのままだけど」
「……っふふ、知ってました。てつろーくんの馬鹿!って女の子に叫ばれてたから」

 すかさず茶々を入れた。隣人との初対面は、この話題なしには語れない。ほんの少しからかうつもりで言ったのだが、黒尾さんは面食らったような顔をして、思いのほか気まずそうに目を逸らした。

「あはは、ごめんね。わたしもびっくりしたから」
「……いやいや、ほんとお恥ずかしい限り」
「絵に描いたような修羅場で」
「いや、ほんともう、勘弁してください」

 恥ずかしそうに額に手をあてる黒尾さんの反応が良すぎて、私はつい調子に乗った。普段ならほぼ初対面の相手をからかうようなことは言わないが、ゴキゲンかつ酔っているため、今日のところはどうかお許し頂きたい。

「……あ、ていうか、お疲れなのにだらだら引き止めちゃってごめんなさい」
「あ、いえ。どっちかっつーと俺が引き止めたようなもんなんで」

 引き止めたとはいえ、私たちは同じ家かつ同じ階かつお隣さんなので、進む方向は同じである。私と黒尾さんはどちらともなく家に向かって歩き出した。頭にはもう、あともう一件飲みに行こうなどという思考は失せていた。

 黒尾さんがエントランスホールのオートロックを解除し、二人並んで中に入った。その時ちらりと見えたボッテ/ガの上品なキーケースは黒尾さんに良くお似合いだなと思った。もし、あの彼女がプレゼントしたんだとしたら、自分の彼氏に似合うものをよくわかっていらっしゃる。素晴らしいセンスだ。……と、いちいち余計なことまで考えてしまう。私の悪い癖だ。

「……ちなみに、黒尾さんって今おいくつなんですか?」
「27です。94年生まれで今年28になります」
「じゃあわたしのふたつ下だ。黒尾さんと同い年の子、この辺り何人かいますよ」
「へぇー飲み友ってやつですか?」
「んーそんなかんじですね」

 会話の中で黒尾さんはふたつ年下と判明した。黒尾さんと同い年の後輩や飲み友が何人かいるが、彼等よりずいぶんと落ち着いているような気がした。もし年上だと言われてもきっと疑わなかっただろう。
 ついでに「彼女は年下?仲直りしたの?」とか色々聞いてみたかったが、さすがにプライベートに踏み込んだ話をするとウザがられそうなので、そっと口を閉じることにした。
 そうしている間にエレベーターが降りてきて、二人で中に乗り込んだ。

「なまえさんは話すとだいぶ印象変わりますね」
「それ、よくいわれます」
「もちろんいい意味で。こんなに気さくに話してくれる人だと思ってなかったんで」

 内心ホッとしていた。横並びだと黒尾さんの表情は見えないが、ずっと変わらず穏やかな声だ。せっかく黒尾さんが褒めてくれているのに、私は曖昧に笑うことしかできなかった。あの日の私はもはや別者だ。あの挙動不審な態度は早急に記憶から消して頂きたい。

 六階でエレベーターが止まる。ちょうど良い頃合いだ。私が先に降りて、あとに黒尾さんが続く。まさかあの最悪な出会い方をした隣人と一緒にエレベーターに乗って談笑する仲になるなんて思ってもみなかった。
 二人分の靴音が静かに響く。自宅の玄関の前まで歩いて、私は後ろを歩く黒尾さんの方に振り返った。あの日は言えなかった言葉を、今日は目を見て真っ直ぐに言える。

「おやすみなさい、黒尾さん」

 にっこり笑って、手を振った。黒尾さんは一瞬戸惑うような素振りを見せたが、すぐに笑って手を振りかえしてくれた。そんな些細なやりとりにすら、言い表せない心地よさを感じた。
 バックから鍵を取り出すときに、肘にぶら下げていたビニール袋がガサガサ揺れた。「あ、」と気づいて声が漏れる。玄関の鍵を回そうとしていた黒尾さんに、私は小走りで向かっていく。

「黒尾さん、もしよかったらこれ」
「…………ん?」
「天むすです。近所のワインバーの店主がお土産にくれたんですけど、黒尾さんに差し上げます」

 ころころしてて可愛いんですよ〜。と黒尾さんにビニール袋を差し出した。いったんそれを素直に受け取った黒尾さんは、袋をのぞいて中を確認している。別に変なものは入っていないので、どうか安心して欲しい。

「え、超美味そう」
「もー間違いなくうまいです。お酒のアテにもばっちりです」
「……いやでも、本当にもらっちゃっていいんですか?」
「バームクーヘンのお返しです。ナマモノで申し訳ないんですけど、味はバッチリ保証します」

 自分が作ったわけではないのに自慢気だった。正直、あの店主が作る天むすは食べて見たかったが、今はお腹がいっぱいなのでどうせ無理だ。明日食べるくらいなら、きっとお腹を空かせているであろう黒尾さんに出来立てを美味しく食べて欲しい。かわいい天むすちゃんたちも、きっとそう思っている。

「すみません、気を遣ってもらって」
「こちらこそです」

 美味しいのお裾分けは大好きだ。お互い幸せになれる。あの店主の手がける味を知ったからには、黒尾さんにもぜひ一度はお店に行って欲しい。なんせあの店主、生粋のイケメン好きなのだ。ちなみに男である。
 ラインも交換したことだし、今度誘ってみても良いかな。と一瞬考えたが、すぐに彼女の存在がチラついた。……あの彼女は、許してくれなそうかな。黒尾さん自身も彼女の嫌がることは絶対しないタイプの男だろうし。と私は勝手に結論づけた。

 じゃあまた、偶然の出会いに期待しよう。
 それなら文句も言われまい。あの日とは違い、今度は何となく、黒尾さんとまた会える気がしていた。

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