三人で美丈夫を半分ほどあけた頃には、しっかりと酔いが回っていた。コヅケン、改め研磨くんに至っては、すっかり瞼が落ちてきている。鉄朗くんいわく、彼はあまりお酒の強い人ではないらしい。にもかかわらず、よくぞここまで付き合ってくれたと思う。彼を「研磨くん」と呼ぶのは流石にまだ慣れないが、本人がその呼び方をご所望されたので従う他はない。推しの本名をくん付けで呼ぶ日が来ようとは、まさか全て夢ではあるまいな、と何度も目の前に広がる光景を疑った。しかし、そこは彼の幼馴染である鉄朗くんの力もあって、推しを前にしても、なんだかんだ普段の自分を保っていられたと思う。多分。
 水の入ったグラスに口をつけながら、鉄朗くんに目を向けた。さすがの鉄朗くんも色んな所作が緩やかにかつ、おざなりになってきている。こうなっては、そろそろお開きの頃合いだろう。

「研磨くん、大丈夫?」
「んー……へいき、たぶん」
「もう一回お水取ってくるね。……鉄朗くん、冷蔵庫勝手にあけていい?」
「あ、サンキュー。おれもちょーだい」

 鉄朗くんの了承をとってから、私はテーブルを離れた。とはいえ私も平気とは言い難い。ふらふらと足はおぼつかないし、頭もぼやぼやとしている。そもそも二人は店でも飲んできているわけだし、さっきまでは私に付き合ってくれていたのだ。私が世話をするのは当然であり、その義務がある。人の家で勝手をするのに抵抗がないわけではないが、鉄朗くんのキッチンは以前にも一度お邪魔している。とりわけ迷うこともなく、私は冷蔵庫にストックされているお水を取りに向かった。
 そのついでに、空いたグラスをカウンターから流しに下げておく。よっぽどのお酒好きじゃなければ、たぶん家に冷酒グラスなんて置いていない。私の家にも無駄に四つセットがあるけれど、ふとしたところで共通点を見つけられるのは嬉しいことだ。自然に顔が綻ぶ。最近、なんだか良いことばかりだ。今日はなんと推しにも出会えてしまい、やっと偶像崇拝を卒業できた。まあ、これからも推しには変わりないが、一人の人間として、今までとは違う見方が出来るだろう。何もかもが、鉄朗くんのおかげだ。私の人生を変えてくれた人。

 流しの前でしばらく幸せに耽ってしまっていた。私はようやく本来の目的を思い出して、冷蔵庫の前に立つ。扉を開けようとしたところを、──後ろから伸びてきた手に、なぜか止められてしまった。

「なまえさん」

 側に寄られるまで、全く気が付かなかった。振り向いた先に鉄朗くんがいて、私を見下ろしている。壁ドンならぬ、冷蔵庫ドンだ。そんなの、聞いたことがない。

「……びっくりした。どうしたの?」
「なまえさんはさ、研磨のことがそんなに好き?」
「…………え、うん。だって、推し、だから?」
「ふーん」

 低く、ゆったりとした声だ。
 聞かれたことに対して、とくにその意図を考えることもなく、思ったままに答えた。酔っているから、丁寧な思考はできない。それはおそらく、鉄朗くんも同じだった。

「じゃあ、俺のことは?」

 ぱち、と瞬きをした。え、と言葉につまり、思わず視線を下に逸らしてしまう。たぶん、それがいけなかった。
 一瞬のうちに顎を掬われて、上を向いた瞬間に口付けられた。は、と驚いて口を開けてしまい、その隙に舌が捩じ込まれる。濃い酒の香りが口内に広がり、あっという間に互いの熱で溶け合っていく。激しく求められ、真っ直ぐに立てなくなった。ふらりと体勢を崩せば、鉄朗くんの腕が腰に回り、しっかりと抱き留められる。

「っん、ぅ」
「……っ、は……、なまえ」

 キスの合間に名を呼ばれ、ゾクリと腰が震えた。同じ部屋に研磨くんがいるというのに、鉄朗くんはお構いなしに私の唇を貪ろうとする。それどころか、鉄朗くんは私の腰をいやらしく撫で、性感を煽ろうとしているのがわかった。キスはいい。セックスも、したい。でも、流石にこの状況は頂けない。鉄朗くんの性癖がどんなものかは知らないけど、私はさすがに推しがいる空間で好きな男とセックスするような、拗れた性癖は持ち合わせていない。つまり、ここは抵抗せざるを得ない状況だ。

「んっ、だめ、てつろ、く」
「……なんで? 研磨なら寝てる」 

 舌先が唾液の糸を引く。鼻先を鼻先で擦られて、下唇を甘噛みされる。なまえ、なまえと求めるように何度も名前を呼ばれ、キスをされ、泣きそうなくらい顔が火照る。そんな風に誘われたら、私も我慢がきかなくなってしまう。
 蕩けた思考の中で、精一杯リスクを考えた。このままセックスをしてもいいか。研磨くんは本当に大丈夫なのか。初めてのセックスがキッチンでいいのか。ゴムはあるのかないのか。そもそも酔った勢いでのセックスはありかなしか。あとは……そうだ。

「……ん、っ、でも」
「でも?」
「わ、わたし、……声、がまんするの、やだ」

 今の私にできる、精一杯の主張だった。
 鉄朗くんを涙目で見つめる。

「……鉄朗くんとするなら、ちゃんとぜんぶしたい」
「……全部って?」
「えっと、あの……言わなきゃだめ?」

 私の言う全部とは、セックスにおける、技巧を凝らしたアレやコレである。ノリでやるキッチンセックスもまあ無しではないが、鉄朗くんとの初めてはそれはもう、持てる全てを尽くしたいというのが、私の願望である。それが伝わったのか、鉄朗くんは何やら気まずそうに口元を押さえて、私を抱き締めていた腕を少し緩めた。あれ。もしかして引かれたか。

「……それ、つまり、期待してて?ってこと」
「あー……えっと、まあ、うん」

 つい頷いてしまった。さすがに大きく出過ぎたかもしれない。でも、鉄朗くんには思いのほか効果てきめんだったようで、さあこれからヤるぞ、という気分は薄れたみたいだった。いつもの二人の空気感に戻り、私は内心ホッとする。

「…………じゃあ、今日は我慢する」

 鉄朗くんからの期待をひしひしと感じた。やっぱり少し早まったかもしれない。私の技巧を凝らしたアレやコレが、果たして鉄朗くんにも通用するかどうか。鉄朗くんの過去付き合ってきた女の子たちは、いったいどんな風に彼を悦ばせてきたのだろう。本人に聞くなんてもちろん出来ないが、……もしかして、幼馴染の研磨くんなら、何か知っていたりするのだろうか。性事情にツッコんだ事はともかく、鉄朗くんの恋愛遍歴についてはよく知っておきたい。私はそういうタイプの女だ。
 

「ああ良かった。本当におっ始めるかと思った」
「「エッ……」」


 そんな事を考えていたからか、まさかの御本人の登場だ。二人の声が揃う。研磨くんはフッ、となにやら悪どい笑みを浮かべている。

「クロんちだから好きにしてくれていいけどさ。さすがに俺、幼馴染のセックス鑑賞出来るほど性癖歪んでない」
「……ハイ。完全に俺が悪いです。調子乗りすぎました」
「なまえさんも邪魔してごめんね。俺下にタクシー呼んだから、クロのことよろしく」
「…………はい、本当に、なんか、ごめんなさい」
「謝らないで。なまえさんのカワイイ声聞けてラッキーくらいに思ってるから」
「研磨。本当ごめんって。なまえさん虐めないで。それ一撃必殺だから」
「虐めてない。可愛がってるだけ」

 さすがは世界のコヅケンだ。
 海のように心が広い。そして、言葉の破壊力がいちいちすごい。一撃必殺を二度も食らうなんて流石にバグが過ぎる。やっぱり私にとってコヅケンはコヅケン以外の何者でもなく、たとえ研磨くんと名前を変えたとしても、人生においてただ一人の推しだ。

「け、研磨さん! し、下まで送っていきます!」
「なんで敬語? じゃあクロもきて」
「もちろん。……んじゃ、ま、行くか」

 さっさと出て行こうとする研磨くんに、私は慌てて声をかけた。
 結局三人で玄関を出て、エレベーターに乗り込んだ。エントランスで五分ほど待っていると、研磨くんが呼んだらしいタクシーがやってきた。ここから家までどれくらい掛かるのだろうか。電車の時間を調べるわけでもなく、迷わずタクシーに乗るところが、やっぱりワールドワイドなコヅケンっぽい。私の推し像がまた素敵に輝いていく。
 研磨くんがタクシーに乗り込む寸前、私は素早く彼の元に駆け寄った。

「あの、……ほんとに、大好きです。動画いつも見てます。お会いできて、おしゃべりできて、良かったです、ほんとに、楽しくて、その」
「うん。俺もなまえさんと飲めて楽しかった。……でも、それくらいにしといてあげて」
「……え?」
「クロが嫉妬する」

 じゃ、またね。
 そう言って研磨くんはタクシーに乗り込んだ。取り残された私と鉄朗くんは、互いに顔を見合わせる。

「……え、鉄朗くん嫉妬するの?」
「そりゃあ、しますよ。研磨も男だもの」
「え、だって、彼は推しだよ?」
「俺にとってアイツはただの幼馴染。そんで、なまえさんは俺の好きな人なの。おわかり?」

 好きな人。そう、はっきり言われると、少しだけ怯んでしまう。今日そのワードは何回か出た。研磨くんの口からも聞いた。つまり、鉄朗くんは研磨くんに、私のことをそう紹介していたということだ。
 普通に照れる。嬉しいけど、私はちゃんとその気持ちに応えられるだろうか。鉄朗くんが好きだともちろん自覚している。最近までの私を知っている誰かに言えば笑われそうだが、死ぬほど純粋に恋をしている。
 好き、と気持ちを言葉にして伝えることが、こんなにも難しいことだと思わなかった。互いの気持ちを知っているのに、まだそれをはっきりと口に出来てはいない。

「ま、俺もちゃんと言えてなかったけどさ」
「……うん」
「好きだよ。なまえさんのこと。本気で」
「……っ、うん」
「だから、ちゃんと俺にも言ってくれるの、待ってるから」

 私がこんなにも戸惑うことを、鉄朗くんはすんなりとやってのけた。その優しさが、じんわりと胸に沁み広がっていく。彼は決して、私の心を急かさない。待つと言ってくれている。
 キスもして、それ以上もしようとしていながら、今更なにをウブになっているのか。でも、好きだからこそ簡単じゃない。言葉は重い。簡単に扱えてしまうからこそ、危険を伴っている。一度出てしまえば、もう取り返しはつかない。

 鉄朗くんは私の手を取って、エレベーターの方に歩き出した。私も黙って着いていく。ボタンを押すと、すぐにドアが開いた。鉄朗くんが私を先に通してくれて、六階のボタンを押す。十秒にも満たない時間。名残惜しさと、緊張感がせめぎ合う。
 鉄朗くんがふと、私の方を見た。あ、と何かを思いついたように口を開く。

「会った時から思ってたけど、その服かわいい。なまえさんにすげー似合ってる」

 ──ああ、本当に鉄朗くんは、罪深い男だ。
 最後の最後で、私のほしかった言葉を全部くれる。恋をする以外の選択肢、なし。私の中で、心が決まった瞬間だった。

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