あなたのいない天国は要らない


 雨空は消え失せた。白い光がガラス扉から差し込み、照らされたタイル床を暖かい色に染めている。粒細やかなピアノの音と、甘美なメロディを聞きながら、暖めた珈琲カップの縁を指先でなぞっていた。苦味の奥にローストされた豆の濃い香りが、居心地の良い空間を演出している。平日の午後。雑踏の中に佇む喫茶店内は、外界から切り離されたような静けさを保っていた。
 時刻は午後四時を過ぎた頃。店内には二人。カウンターに一番近い、二人がけのテーブルに向かい合って座っている。緩やかなピアノジャズが流れる静かな空間で、互いに全く口を開こうとせず、ここ何十分もそうしている。時折、間を持たせるように冷めた珈琲を飲み、黒く波打つ表面を見つめていた。

「珈琲のおかわりは、如何ですか」

 どうして。
 非難めいた眼差しが、明らかにこちらを向いていた。ぐしゃぐしゃに顔を歪ませて、縋りたくてたまらないという感情が透けてみえる。にこやかな表情を浮かべて返すと、膝上に置かれた手がスカートをぐしゃりと掴み、大きな皺が寄った。

「……結構です」
「そうですか。では、ごゆっくり」

 こうべを垂れて、身を翻す。喫茶店の店員と客の、ごく一般的なやりとりを装った。彼女は嘘が付けないから、なるべく不自然ではない方法を考えた。対して、男の方は、ぎこちない笑みを浮かべて会釈をする。愛想のない子ですみません、というような顔をして、彼女を庇ったつもりでいるのだろう。とても滑稽だった。



 



 心に呪いを飼っていた。何度祓おうとしても、気づけばまたそこに在る。死んでも離れないという蔦のごとく、全身に絡みついている。時に、耐え難い熱と疼きを生み出しては、脳を淫らに侵してくる。 
 飢えて、飢えて、身体の渇きを癒しても、心はまったく満たされない。代わりはどこにもいないのだと知らしめるように、影が浮かんでは消えていく。そんな日々が、ここ数ヶ月間続いていた。

 ベッドの上で表情を暗くしながら、自分を見上げる女。これが呪いの正体だ。今まで触れることもできなかった影が、目の前で首を締めてくる。零、零、と自分の名前を呼んで、心臓を抉るような強烈な快楽を与えてくる。柔らかくて優しいのに、焼けて爛れるほどに熱い。その熱が脳を麻痺させて、呪いを解く絶好の機会を、まんまと逃した。
 公安警察の降谷零として生きるのであれば、呪いなんて早く棄てたほうがいい。自分でもわかっていた。当時、仲の良かった友人たちからも、彼女の存在は酷評されていた。お前に盲目すぎて、周りが全く見えていない。このままだと、お前も彼女も破滅する。健全ではない、本当の幸せとは言い難い。彼らは好き放題に言い放った。彼女は元々普通の人間だ。おかしくなっているとしたら、それは自分の責任でもある。
 俺のものになりたいと甘く囁く唇を塞ぎ、引っ張られるように落ちていった。彼女と出会い、世界が変わった。見返りも求めず、これほどまでに自分を愛してくれる存在なんて、他に誰も居なかった。

 最初に、彼女の柔らかな唇の虜になった。頭が蕩けるような甘言を吐くその声を独り占めしたくて、周りとの関係を全て断たせた。ただの純粋な、独占欲だ。番うように絡めた指先も、恋心を煮詰めた眼差しも、欲に塗れて熟れた中にも、己の烙印を押し付けた。彼女は幸せそうに笑って、言うことなすこと全てを受け入れた。それを異常だと、誰もが言った。
 溺れたのは自分も同じだ。何より、彼女のことを愛していた。見捨てられるはずがない。それでも、周りの環境がそうはさせてくれなかった。
 自分と別れた彼女は、この先どうなるのだろう。一人で生きていけるのか。自ら命を絶つようなことがあったら、などという漠然とした不安感を抱える日々が続いたが、仕事が厳しくなるにつれて、彼女のことを考える時間も徐々に減っていった。

 こうして人は忘れていくのだと知った。どんなに辛いことや苦しいことがあっても、月日の流れが、いずれ心を正常化していく。それが早いか遅いかだけの話。しかし、それは「忘れる」というだけで「消える」ものではない。ふとした瞬間、何気ないときに、その存在を思い出してしまうことがある。
 たとえば、別れた女が他の男を連れて歩くのを、偶然目にした瞬間。自分はそのときだった。自分の周りだけ、時間の流れが止まったような感覚。走馬灯のように流れていく過去の記憶。見間違うはずはない。あの日と変わらない笑顔で、彼女はそこにいた。あの日と唯一違うのは、横を歩くのが自分ではない男だということだ。
 自分と同じく、彼女も忘れていたのだ。年月が、彼女の心を正常化してしまった。別れ際、あんなに泣いて縋ったくせに。あんなに俺を好きだと言って、溺れていたのに。俺のものになりたいと言ったはずのお前が、他の男と幸せそうに笑っているなんて。口元が引き攣り、手が震えた。呼吸が異常に早くなり、嫌な汗が額に浮かぶ。彼女の方へ動き出そうとする足を食い止めるのに必死で、自分がどんな顔をしているのかもわからなかった。呪いはその日、生まれた。

「よくできました」

 安室透という男のお陰で、呪いは随分と扱いやすくなった。テーブルの上に残された飲みかけのカップを盆の上に乗せながら、俯く彼女のつむじを見下ろす。肩が震えていて、泣くのを我慢しているのだとすぐにわかった。この涙は、自分のために溢されるものではない。ならばこの手が拭う必要はない。

「そんなに辛いの」

 声のトーンには気を遣った。低くなりすぎて、怯えさせてはいけない。肩を揺らすような優しい具合で、下を向いたままの彼女に声をかけた。読み通り、店内に他の客はいない。わざわざ空いている時間を指定したのだから当然だ。そのおかげで、喫茶ポアロは安室透のパーソナルスペースへと成り代わっている。何をしたって、邪魔をする者はいない。

「彼とは、もう別れたかったんだろう」
「……うん」
「彼も納得していたようだし、何も心配はないよ」

 抑揚をつけず、淡々とした口調で告げた。カップとソーサーが擦れ合う音が鮮明に通るほど、店内は静寂に満ちていた。こちらの様子を伺うためか、彼女が泣き濡れた顔を上げる。──それにしてもあの男、よくこの顔を打てたものだ。素直に感心するが、自分のものを手酷く扱われたという憤りの方が強かった。

「何か食べる? 好きなもの作るよ」
「……いらない」
「でも、朝から何も食べてないだろう」

 彼女はとうとう黙り込んだ。ここに来る前も相当無理をさせていた。最初から最後まで念入りに。自分が何者かを刷り込んで、頭にマニュアルを叩き込む。彼女はとても物覚えが良い。俺が決めた通り、なにもかも順調に事は進み、そしてやり終えた。これからは、ご褒美を与える時間だ。
 
 彼女の彼氏──いや、「元」彼氏は、世間一般で言う「よくできた男」だったらしい。大手商社に勤めている、彼女より二個年上の男。
 父親は同会社の役員候補で、母親が秘書を務めている。学生時代はラグビー部の主将を務めており、過去に二度、全国大会に出場した経験もある。人柄は温厚、上司や部下からの信頼も厚く、営業では常にトップの成績を収めている。彼女との出会いは共通の友人からの紹介。交際期間は約半年。……つい先日、心底惚れこんでいた相手に泣きながら浮気を告白され、激情に任せて頬を打ち、一方的に別れを告げた挙句に、もう一度やり直したいと電話をかけて呼び出した。なにが「よくできた男」だと、鼻で笑ってやりたい気分だった。
 唯一褒めてやれるとすれば、常に彼女の傍にいられることだ。永遠を誓うことだって容易いのだろう。僕には叶えられない幸せを、彼女に与えてやることが出来る。そんな男の存在は──邪魔で、憎くて、仕方がない。

 だから目の前で見届けてやった。彼女自ら、永遠を放棄させた。足のつかない沼に引きずり込み、先の見えない恋をし続ける。僕が愛情として与えてやれるものは、きっと彼女を不幸にするのだろう。永遠の幸せなんかより、ずっと重くて強い鎖で、彼女の首に輪をかけた。愛しい女ひとり幸せに出来ない男の、最低な悪あがきだった。

「ここに来てくれたら、いつでも会えるよ」

 安室透に会いに来て欲しい。安室透の命がある限りは、せめて、降谷零より近くに居てやれる。それを告げても、彼女の目は暗いままだった。降谷零の心は渡せないと遠回しに言ったことを、見抜いているのだろう。
 彼女は降谷零のもの。それでも、降谷零が彼女のものになることはない。全て終わる日まで待っていてくれなんて、不確定な未来を許せる女はまずいない。そもそも、望みを与えてやることすら叶わない。それに、彼女はあの頃とは違う。盲目的な愛はとっくに失せていた。いつかその瞳が濁り、此方を見なくなる日がくるかもしれない。

「……閉店したら、僕のことを」

 彼女の心から忘れられることを、酷く恐れていた。彼女の身も心も全て、新しい色で塗り替える必要があった。熱を込めた視線で劣情を煽り、スカートを掴む手を、上から片手で握り込む。別れた男のことなんて二度と思い出せないくらいに、めちゃくちゃに壊してやりたい。降谷零のことだって、今は思い出さなくて良い。

 ここが──安室透が、唯一の居場所だと、彼女の脳に刻みこむ。この熱を思い出せば、必ずこちらへ足が向かう。そのように、躾直す必要がある。

「一から教えてあげますよ」

 スカートを捲り上げ、まるい膝を撫でた。体温で蒸れた太ももの内側に手を添わせ、甘ったるく囁く。

「っ、や、れ、い」
「違うよ。安室さん、ってよんでごらん」

 椅子の足をぎっ、と鳴らし、彼女は身を竦ませた。彼女はいつか言った。キスやセックスは最も愛情を感じる行為だと。それを強いる時だけは、俺を身近な人間に感じられるのだと。彼女が劣等感を抱いていることには気がついていた。だからこそ、欲に塗れて本能のまま女を抱く男の姿に、心底安心していたのだと思う。
 悲しくて、愚かで、そういうところを愛していた。自分がいなきゃ生きていけないくらい、もっともっと深いところまで堕ちてほしい。安室透に心を許した罪悪感を抱きながら、死ぬまで降谷零に焦がれ続ける。それが、俺の望んだ永遠の形だ。

「大丈夫、僕たち二人だけだから」

 下着の奥に滲んだ白濁が、くちゅくちゅと糸を引いていた。淫靡に匂い立つ女体を晒し、他の男との関係を終わらせたのだ。話している最中、何度も目を合わせて。男がトイレに立って席を外している最中、「零、」と名を呼んだ彼女の唇を嬲るように喰らった。キスの合間に飲ませた苦い錠剤の味が、まだ口内に残っている。

「また一緒に、恋をしようか」

 彼女の瞳に熱が灯る。
 手のひらに落ちてきた感触に、ゆるりと口角を上げた。
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