罪の意識に笑いましょう


「風呂沸かすから。しばらく休んで」

 両腕が塞がった状態で器用に寝室の扉を開けて、ベッドの上に寝かされた。見慣れた自分の部屋なのに、零がいるだけで全然違う空間みたいに思えるから不思議だ。変に緊張感がある。寝かせられたまま、ぼんやりとした目で零の姿を追った。
 ベッドの縁に腰をかけながら、部屋の様子を伺うように視線を動かしている。正直なところ、寝室には入って欲しくなかった。この部屋には、彼氏のものがまだ沢山置いてある。男物のスウェット、クリスマスに貰ったアクセサリーや、お揃いで買ったぬいぐるみ、二人で映った写真が飾られた写真立て。さっき別れたばかりだから当然なのだが、振られて早々、別の男を家に入れてセックスをしてるのって、我ながら本当にあり得ない女だなと思う。

「……ごめん」
「なにが」
「その、あんまり、見ないで」

 零の腕にそっと手を触れて、口籠る。他の男の名残が残る部屋を見て、気分が良いわけがない。色々と、早まったと思う。せめてホテルに行けば良かったなんて、そういう問題じゃないのに、そんなどうしようもないことを考えていた。

「くち、あけて」

 目元にふわりと影が差して、唇に暖かいものが触れた。キスをされているのだと気がついて、小さく息を呑みこんだ。上唇を食むように、零の唇が動く。ちゅう、と軽く吸い上げられて、今度は舌先が触れ合った。飴と蜜を溶かしたような、甘ったるい味のするキスだった。生暖かい舌のざらつきが心地よくて、無意識に膝を擦り合わせてしまう。うるうると瞳が揺れて、頭が蕩けていく。
 零のキスは魔法だ。痛いのも、苦しいのも、嫌なことも、全てどろどろに溶かして忘れさせてくれる。肌の上を流れる髪、擦り寄る鼻先、頬を撫でる大きな手。全部、零しか見えなくなる。

 幸せだ、と思ってしまった。最悪だ。再会してまだ二週間しか経ってないのに、こんなにも深く溺れている。自分から舌を絡めて、唇に吸い付いて、おねだりをしてみると、零が目尻を下げて笑ってくれた。キスの余韻だけで、枯れかけていた恋心がぐんぐんと育っていく。
 好き。やっぱりわたし、まだ零のことを、愛している。あの日、たった一夜過ごしただけで、全てを許せた。二度目のセックスで、彼に恋していた気持ちを全て思い出した。ずっと癒えなかった空白を、埋め尽くすほどの幸福感。他の誰も与えてくれなかったもの。

「ねえ、零」
「ん」
「すきだよ」 

 胎内に残された精液が、愛おしくてたまらない。でもきっと、あと数時間後には消えて無くなってしまう。あの零が、簡単に子どもなんて孕ませるわけがない。冷静に考えればわかることだ。必ず、避妊薬を飲もうと言ってくるはず。悪びれることなく、私の大好きな甘い笑顔で、囁くように。何に対しても疑り深く慎重な人が、私に対してだけは、酷く無責任なことをする。私だけ、特別視されているんだと思っていた。 
 お前はどれだけポジティブなんだと笑われるかもしれない。降谷零をどこまで理解しているのかと問われても、胸を張って答えられるわけではない。ただ一つだけ言えるのは、彼が私に抱くのは、決して負の感情ではないということくらいだ。興味のない相手は視界に入れない。キスもセックスも、気に入った相手としか絶対しない。だから私は大丈夫。そんな惨めで不安定な自尊心だけが、私の心の支えだった。

「ありがとう」

 好き、と言葉にしても、零は曖昧に微笑むだけで、なにも返してくれなかった。膨らんだ腹を撫でながら、ごめんね、と容赦なく現実をだけを突きつけてきて、心をぐちゃぐちゃに踏み荒す。謝るくらいなら、最初からやらなければいいのに。
 どうしてこんな、最低の男に。

「ねえ、いかないで」

 上半身だけを起こして、零の首に腕を回した。筋肉質な身体に、胸を押しつけるように擦り寄っていく。二人の体温が混ざり合う。このまま一緒に溶けてしまえば、幸せのまま終われるのに。
 もう、終わりが近い気がした。私は彼氏に振られてしまったけど、終わって、何かが始まるわけではない。零と再会して身体を重ねたという事実があっても、二人の関係は変わらない。このままなんとなく離れて、彼はいつもの日常に戻る。私だけが、永遠に朽ちぬ想いを焦がす。零と再会してしまったことが、全ての終わり。

「どうして、一緒にいられないの」

 お前ともう一緒にいられない。
 数年前、零から告げられた言葉だ。表情が見えないように、肩口に顔を埋めた。とくん、とくん、と心臓の鼓動だけが耳に入る。余計なことはもういい。知りたいのは、零が私を振った理由、ただそれだけだった。何を聞いても、どんなに縋っても、その一言以外は何も言ってくれなかった。逃げるように家に帰って、声が出なくなるまで泣き続けて、疲れ果てて眠った日のことは、今でもよく覚えている。零は突然、私の世界から消えてしまった。

「君は、俺のものになりたいと言った」

 美しいテノールが耳朶を撫でる。過去の私が告げた言葉。零と向き合って、震える唇で紡いだ精一杯の愛。その言葉通り、私はあの瞬間から、零のものになった。
 零が警察学校へ入学する少し前から、警察学校を出る直前までの、約一年間。私は彼のものになれた。周りとの連絡を一切断ち切り、降谷零だけをずっと見ていた。

 今だってそうだ。零のものになれるのなら、私は全てを捨て去ることができるだろう。それくらいの覚悟はある。でも、それを伝える方法がわからない。さまざまな経験を経て、私も彼も大人になった。大人は子供よりもずっと複雑だ。想いを一つ伝えるにも、色々な弊害がある。零に対する私の愛情は、「元彼」という存在によって、ひどくあやふやなものになってしまっていた。

「わたしは、零を」
「……俺以外の男に心を許し、身体を捧げて、挙げ句の果てに傷つけられた」
「だって、そんな、零がいなくなって、っ」

 勝手に私の前から消えたくせに、裏切ったのは私の方だと言う。すっかり腫れの治った頬に触れながら、零は顔を歪ませた。頬を打たれたのは、零との浮気が原因だ。それに、私の「彼女はいる?」という問いに対し「いた時期もあった」と零は答えた。つまり彼にも、他に女がいたのだ。私と同じ道を辿った。零が言っていることはめちゃくちゃだってわかる。彼氏でもないくせに、自分が私を振ったくせに、よくそんなことが言える。本来はそう思うべき、なのに。

「お前は、俺のものだったのに」

 零の言うことは正しい──そう、勝手に頭が受け入れてしまう。これはある種の呪いだと思う。一度離れたところで、何も変わらなかった。大人になって、物事の善悪もそれなりに判断できるようになったはずなのに、どうして私は変われないんだろう。鼻の奥がツンと痛み、目元がじわじわと濡れていく。溢れた涙を指先で拭われて、その熱に頬を寄せた。

「そうだろう」
「……うん」
「キスもセックスも、喋るのも連絡するのも、俺以外としちゃいけなかったよな」

 零が私の瞳を覗き込んで、諭すようにゆっくりと告げる。彼に盲目でいたあの頃とは違い、これが度を超えた束縛だと気が付いていた。そもそも、今の私と彼の関係はなんだ。互いに都合の良い相手だというには、あまりにも深くて重たすぎる感情を背負っている。依存しているのは、私だけじゃない。

「忘れたのか」

 見つめる瞳が、あまりにも苦しい。今更、私になにを求めているのか。零の感情がわからない。私を自分のものだというのなら、貴方も私のものになって欲しい。首根を引き寄せて、彼の頭を抱きしめる。見た目よりも固い髪がちくちくと刺さり、こそばゆかった。触れる吐息が暖かくて、穏やかで、無性に泣きたくなった。同じくらいの体温を感じると、心も通い合った気がして幸せになれた。
 昔よりも随分と欲張りな女になってしまった。もう、一人で溺れるのはいやだった。彼が私の首を絞めてくるのなら、私だって、貴方の首に手をかけたい。同じだけの苦しみを味わってほしい。

「わたしだって、零を、」

 言いかけたところで、空気が止まった。
 聞きなれた着信音が、二人の間に割って入る。玄関にほったらかしたままのコートのポケットで、スマートフォンが鳴っていた。

 目を見開いて、息を呑む。すぐに立ち上がろうと身を捩った。抱きしめていた頭を離すと、私よりも先に零が立ち上がった。私の肩を押さえつけて、ここにいろ、と命令を下す。

「ま、って、零」

 どくん、どくん、どくん。心臓の動きが速くなる。私は焦っていた。ベッドを降りて、寝室を出た零が向かう先は、間違いなく音の鳴っているスマートフォンだ。くぐもっていた音声がクリアなものになる。零がポケットからそれを取り出したんだろう。
 なかなか切れない着信音が、焦りを助長させた。そうでなければいいと思う。でも、きっとそうだろうという確信もあった。

「出て」
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