Le ciel croche | ナノ
かつての独裁者を空の彼方へと吹き飛ばし、麦わら一味を海へ追い立て、世にも美しい“ピンク色の雪”を降らせ。立て続けの大騒動からようやく一息ついたドラム城の外では、麦わら一味と共に旅立ったチョッパーを見送るかのように、ドクトリーヌとドルトンが海を眺めていた。
そんなドルトンの元へと現れた彼の部下たちが手にしていたのは、ルフィの手配書。ドルトンから受け取ったドクトリーヌがじっと手配書を眺めていると、部下の一人が彼女に声を掛ける。
「Dr.くれは…どうしたんです、ぼんやりして…」
「………」
しんしんと穏やかに降る粉雪が、彼女が見つめる手配書の上をゆるりと滑り落ちていく。紙上に爛々と輝く満面の笑みから目を離さないままに、ドクトリーヌは静かに彼らに問うた。
「お前達…ゴール・”D”・ロジャーを知ってるかい…」
「D? ……ゴールド・ロジャーのことですか? それならば知らない方がおかしい世の中ですよ」
「…今は、そう呼ぶのかい?」
「?」
彼女が口にしたのは、知らぬ人など居ない海賊王の名。ファミリーネームの区切り方に、彼らは若干首を捻る。それをさらりと流したドクトリーヌは、ルフィの名前をじっと見つめながら、感慨深げな表情で口角をあげた。
「成程、それにあの娘まで一緒ときた。どうやら、ウチのトナカイは大変な奴らについて行っちまったらしいね…」
「………」
「生きてたのか。"D"の意志は…」
*
――メリー号がドラム島を出港してから、三日目の夜。
ルフィを始めとした四人が食糧を食い尽してしまう事件はあったものの、船は順調にアラバスタへの航海を続けている。新月に近い夜の空は月明かりこそ頼りないが、目立った雲も船影も無い。錨を下ろさず航海士の特別な指示も無く、波と風とに任せるまま、静かな海をゆったりと進む。
そんな中、ナミに船尾へと呼び出されたルフィ、ゾロ、ウソップ、サンジの四人。サンジを除く三人は、何か怒られる事でもあっただろうかと密かに目配せを交わす。
(おい、今度は何したんだよルフィ)
(何もしてねェよ! ウソップは)
(この状況で火に油注ぐワケねェだろうが!)
「おい、コソコソうっせェぞお前ら! 黙ってナミさんのお言葉を待て!」
「……あんた達四人に、話しておきたいことがあるのよ」
ひそひそと小突き合う三人をサンジが一喝すると、ナミは落ち着いた調子で静かに口を開いた。
怒っているような様子ではないが、その眼差しは暗がりの中でも分かるほど真剣だ。声のトーンは抑えめで、船室側の物音にも気を配っている。
クルー全員ではなく、敢えてひっそりと集められたこの面子。真面目な話だと察した四人は、大人しく口を噤んで続きを待つ。彼らの注目が集まったところで、ナミはふうっと大きく息を吐いた。
「ニーナの能力のこと。ビビとチョッパーは、まだ知らないでしょう?」
「「ああ……」」
始めの一言だけで、ウソップとサンジは合点がいったとばかりに声を漏らした。頭に疑問符を浮かべているルフィとゾロの方へと向き直り、ナミは更に話を続ける。
「ニーナが自分で言い出さない限り、あの子がエルフィンだって事は絶対言っちゃだめよ」
「そりゃ、勝手に言ったりしねェけどよ……」
「それと、そこ二人。エルフィンの事ほとんど知らないでしょ。これを機にちゃんと知っておいて」
エルフィン、という単語はよりいっそう声をひそめるナミにつられて、ルフィの返しも随分小声になる。そんな彼にぴっと人差し指を突き付けて、隣のゾロにも念を押して。もいちど小さく溜息をついてから、ナミは再び口を開く。
「どうしてニーナの手配書が『生存限定』なのか。どうして、海賊、海軍、世界政府に革命軍、あらゆる組織から欲しがられるのか……。“海の涙(ラクリマ・マレ)”が扱えるとか、空が飛べるとか。出来ることが多いし、単なる『能力者』として見ても、能力の高い部類に入るんだろうけど、本当の理由はそこじゃないのよ」
ナミの話に、ウソップとサンジは揃って首を縦に振る。そんな二人の反応を一瞥したルフィとゾロは、頭上の疑問符が更に増えた顔でナミに向き直る。
話の核心部を伝えるべく、ナミは一呼吸置いてから切り出した。
「エルフィンが欲しがられるのは、一時代に必ず一人現れる『勝利と安定の象徴』だからなの」
「勝利と安定の象徴ォ?」
おうむ返しに言うルフィに頷いて、ナミは全員をぐるりと見渡した。
「空白の100年より前の歴史には、お伽噺なんかに形を変えて、歴代のエルフィンの経歴がそこそこ残ってるの。ウソップとサンジ君も、そういうのよく聞いてきたでしょ?」
「ああ。絵本なんかの定番だよな」
「エルフィンに助けを求めたら何とかなりました、系の話だよな。確かにいくつもあったよ」
話を振られた二人は、うんうんと相槌を打ちつつ肯定の答えを返す。そんな彼らに頷いて、ナミは再び口を開く。
「そう。そういう話はみんな、エルフィンが味方した方が勝って終わるのよ。つまり、かつてエルフィンが所属した勢力は、実際に、時代の覇権を取ってるの」
――例えば、エルフィンが海軍に居た時代は、海の治安が安定していたとか。例えば、世界政府に属していた頃は、国同士の争い事が極端に少なかったとか。戦争中の軍がエルフィンを味方に付けた途端、あっという間に劣勢を覆したとか。言うなれば、事や時代の節目節目に現れる、勝利の女神のようなもの。
史実と創作が入り混じっているであろう伝承の数々を指折り挙げつつ示せば、ルフィとゾロは揃って「へェ」と気のない声を漏らす。
「ホントかそれ?」
「ひとっつも聞いたことねェ」
「……ま、コイツらがそういうモン読んできたとも思えねェしなァ」
「だよな」
あまり信用していない風の二人を見て、ウソップとサンジは肩を竦める。
幼少の頃から慣れ親しんできた者と、今初めて聞いた者とで印象が大きく違うのは仕方ない。この反応をある程度予測していたナミは、特に気にした様子もなく言葉を続ける。
「……だけど、そんなの、分からないじゃない」
困ったように眉を寄せるナミは、きゅっと唇を引き結んで船室の方へと視線を上げる。壁の向こうにニーナの姿を見ているのだろうか。彼女の身を案じるその眼差しには、ゆらゆらと憂いの色が滲んでいる。
「本当かもしれないし、噂話に尾ひれが付いただけかもしれない。本当だとしても、使おうと思って使う力なのか、無意識なのか、結果論なのかも分からない。……本人に、大きなリスクがあるかもしれないし」
ナミの脳裏に浮かぶのは、先日目にした、変わり果てた姿のラクリマ・マレ。聞きそびれてしまった引っかかりは、改めて切り出す事も出来ないまま、胸の内にしまっている。
――ニーナとは、長いとまでは言えなくても、既に短くはない時間を共にしている。出会いから今までを振り返っても、彼女は自分の事情を『言わないこと』で隠す事は度々あれど、嘘で隠したことは恐らく無い。
石の状態を不審に思って尋ねたナミに言った『使えば消費する』事は、間違いなく事実なのだろう。しかし、炭化していた大きな石については、さり気なく答えの明言を避けられている。それは、何らかのリスクを示しているのか、ニーナにも分からないのか、今のナミには知る術がない。もやもやと募っていく不安に押されるように、視線は段々と下がって甲板の影をさ迷う。
ナミが一旦口を閉じれば、訪れるのは夜の海に相応しい静寂。日中の喧しさはどこへやら、静かに続きを待つ四人に向けて、彼女は再び口を開く。
「でも、それを信じて縋ろうとする人って、思ってる以上にたくさんいるのよ。偶然だと笑って切り捨てるには、多すぎるくらいの実例があるから。ここまで来ると、真偽は別にしたって『エルフィンが味方に付いてる』っていうだけで十分アピールになるもの。利用価値は高いわ」
利用価値、というその単語を、嫌悪感を隠さず吐き捨てる。アーロン一味に道具として使われていた過去のあるナミだからこそ、絶対に許す事のできない扱い。 ついつい入ってしまった力を抜くように軽く息を吐くと、甲板に落としていた視線を上げて、仲間たちに向き直った。
「……だからニーナは、あれだけ念入りに自分の能力を隠してるの。その能力を、私達には伝えてくれた。私達の為に使ってくれた。だからこそ、私達が気を付けなきゃ」
ローグタウンで、バラティエで、ココヤシ村で。上手に誤魔化すことは忘れずとも、ニーナは間違いなく、リスクを冒してその能力を少しずつ使っている。
しかし、今回は今までと明らかに規模が違う。いくら人気のない雪山とはいえ、ニーナはエルフィンの象徴とも言うべき大きな翼を広げて飛んだという。それをルフィから聞いたナミの心を占めたのは、純粋な心配と申し訳なさと、ニーナがそこまでしてくれた事に対する感謝と、なんともいえない喜びに似た気持ち。
複雑な心境を整理して、今自分に出来ることを考えて。そうしてナミが辿り着いた結論は、ニーナの秘密を、彼女と共に守ること。
「ビビの為にも、ニーナの為にも、下手な期待は持たせるべきじゃないし、変なプレッシャーも掛けるべきじゃない。仲間以外に知られる事なんてもってのほか。……分かった?」
エルフィンの事情を知らなかった二人に釘を刺すように、ナミはルフィと正面から目を合わせて言う。
そんな彼女の眼差しをまっすぐに受け止めて、ルフィがゆっくりと口を開いた。
「……エルフィンが追われる訳は分かったし、バレねェようにすんのも分かったけどよ」
分かった、とは言いつつも、どこか納得のいかない表情を浮かべて、ルフィは口を尖らせる。
「ビビやチョッパーに言わねェのは、その為じゃねェだろ。ニーナが自分で決める事だから言わねェんだ」
「!」
――心配が先立つあまりに、思い至らなかったこと。核心を突くルフィの言葉に、ナミははっと息を呑む。
そんな二人を横目で見つつ、ゾロがごきりと首を鳴らした。
「……まァ、”勝利の女神”とやらがどうであれ、おれ達がやる事は変わらねェしな」
「ああ。クロコダイルをブッ飛ばす! そんだけだ!」
「ま、確かにな」
「おう、援護なら任せとけ!」
「………」
腰の刀に右手を触れるゾロと、パンチの素振りをするルフィ。今からでも殴り込みに行けると言わんばかりの二人に、サンジとウソップも口角を上げる。
「ニーナはおれ達の仲間だ。誰が欲しがったって、絶対やらねェよ!!」
「……そうね」
高らかに宣言するルフィに、ナミはようやく肩の力を抜いて、ふっと柔らかい笑みを見せた。
*
メリー号のダイニングに鎮座する大小二つの箱。中に詰め込まれているのは、色も形も様々な鉱石たち。箱の中身を見比べていたニーナは、手にしていたビー玉大のガーネットを小さい箱へ入れた。
「……んん、そろそろいいかな」
「え?」
「そうか? まだ半分残ってるぞ?」
ニーナと並んで座るビビとチョッパーが、彼女の言葉に手を止める。ビビの手にはミニトマト程ある大きな琥珀、チョッパーはブルーベリー大の小さなターコイズを器用に掴んでいる。
鉱石にやすりを走らせるのをやめた二人に、ニーナは道具類を仕舞いながら声を掛けた。
「夜も遅くなってきたし、あとは明日にするよ。手伝ってくれてありがとう、チョッパー。ビビも」
「れっ、礼なんて言われたって、嬉しくねーぞコノヤロー!」
「ええ。純粋に楽しかったし、これが食費になるんなら、ニーナさんだけに任せる訳にはいかないもの」
「クエ……」
ニーナに倣って研磨済みの石を小箱に入れると、二人は机上の片付けを手伝う。握り拳大の石を磨こうと悪戦苦闘していたカルーから石を受け取ると、ニーナはカルーの背中を撫でた。
「ふふ、カルーもありがとう」
「クエー!」
「アラバスタで最初に行く町って、こういうの換金してくれるお店あるかなあ」
「ええ。『ナノハナ』っていう港町に寄るんだけど、交易拠点の大きな町だから大丈夫よ」
「そっか、良かった」
「大きな町か……おれ、ドラム以外の国に行くの初めてだ……!」
カルーの羽毛をもふもふと触りつつ、ニーナはビビを振り返る。
順調に行けば、あと数日で辿り着くであろう彼女の国。予断は許されない状況に変わりはないが、以前のような緊張感は随分と取れた様子で、ビビは穏やかに祖国の町を語る。
そんな彼女から小箱を受け取った丁度その時、甲板へと続く扉が音を立てて開いた。
「!」
「ナミさん」
「あ、ナミ。見て見て」
少しだけ驚いた様子のナミの姿を捉えると、ニーナが小箱を見せるようにスッとナミへと近付く。
「ドラムで換金できなかったし、アラバスタ着いたら買い出しするだろうから、資金調達用にね。二人に手伝って貰ってたの」
「きゃっ、えっ、宝石がこんなに沢山っ!?」
小箱の中できらきらと光る鉱石たちを目に留めると、ナミの表情がぱあっと明るくなる。石の輝きにも負けんばかりの煌めきを湛えた瞳は、ビビとチョッパーを経由して、再びニーナを映した。
「うっ……ありがとうニーナ……ウチの船で、お金を稼ぐって概念があるのはあんただけよ……」
「あはは」
半ば縋りつくようにニーナに抱き着くナミを見て、ビビは麦わら一味の船内事情を察して苦笑する。チョッパーは女性陣の様子をきょろきょろと見渡すと、よし、と呟いて扉に手を掛けた。
「じゃあ、おれは男部屋に戻るぞ。おやすみ」
「おやすみ、トニー君。私も部屋に戻るわね。行きましょ、カルー」
「クエー」
「おやすみ〜」
二人と一羽は口々に就寝の挨拶をすると、船室へと向かって歩き出す。彼らが全員背を向けたのを確認してから、ニーナはさり気なくナミの耳元に口を寄せると、密かにこそりと耳打ちした。
「……あたしの方こそ、ありがとう、ナミ」
「!」
ぱっと身体を離したナミが、目を丸くしてニーナを見つめる。
返事の代わりに、ニーナは自身の耳をとんとんと軽く二回叩いて見せると、ふふっと小さく笑みを零した。
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