Le ciel croche | ナノ

 謎の襲撃者を撃退した翌日。深夜に吹き荒れていた雪も収まり、安定した寒空の下を航行していたメリー号。ようやく島が見えたとの報せを受けて、ルフィとゾロが女部屋を出てから、時計の針はすでに二周以上回っている。
 いよいよ上陸が近くなり、一味全員が甲板に出ている今、ナミの傍らに居るのはニーナとカルーだけ。ナミさんを宜しくね、と言った主人の言葉に忠実に、カルーは大人しく床に腰を下ろしてナミの様子を見守っている。
 ナミの額のタオルを取り換えながら、ニーナはカルー相手に口を開く。

「……なんか、ちょっと騒がしくなってきたね」
「クエェ」

 うんうんと頷く賢い超カルガモは、若干怯えているのか、そろりそろりとニーナに身を寄せる。
 外から遠く聞こえる喧騒は、おそらく島の住人に見つかり、人が集まって来たといったところだろう。パァンと一発乾いた音が響けば、カルーはびくりと身を震わせた。

「大丈夫だよ。いつも、最終的には何とかなってるから」
「クエー……」

 それが銃声であることは察しつつも、ニーナは何てことないと言わんばかりにさらりと言葉を返す。緊張で膨らんだカルーの身体をぽすぽすと叩けば、ニーナの手首でしゃらりと涼やかな音がした。

「クエ?」
「うん?」

 疑問らしき鳴き声をあげたカルーに、ニーナの方も小首を傾げる。カルーがじっと見つめる先には、ナミと揃いのブレスレット。所々にあしらわれている琥珀は透明度が高く、その内側から脈打つような澄んだ輝きを放っている。一番大きな石はほかの琥珀と異なり、マーブル模様が美しい不透明なもの。
 しばらく眺めて目を瞬いた彼は、満足したのか察したのか、それとも理解を諦めたのか。クエ、と小さな声を漏らすと、もう半歩分ニーナの方へと身を寄せた。

(さすがに、動物はカンが鋭いのかなあ)

 ほとんどぴったりくっついた温かい巨体は、再び大人しく沈黙を守っている。それがナミの為なのか、彼の主人の為なのか、それともほかの理由なのか、もしくはその全てなのか。推し測る術を持たないニーナは、まあいいかとばかりに肩の力を抜くと、カルーの大きな背中をもうひと撫でして立ち上がった。

「さて、そろそろ皆戻ってくるだろうし、出掛ける支度しとかなきゃね」
「クエ?」
「この状態のナミを連れて上陸するとなると、普通には歩いていけないでしょ? ルフィかサンジあたりが背負って行くかな。自力でしがみつくの辛いだろうから、固定するタスキか何か……あと、お尻を支える用の棒とか……タオルとかも要るし……」
「クエー」
「ちょっと色々探すから、ナミのこと見ててくれる?」
「クエッ!!」

 必要なものを指折り数えるニーナに、カルーはぴしりと敬礼で返す。やる気に満ちた鳴き声に頷いて、ニーナは手近な戸棚から捜索を始める。
 リュックを一つ用意してタオルや着替えを詰めていると、予想通りバタバタと盛大な足音が響いてきた。

「ナミー! ニーナー! 医者行くぞー!」

 天井の扉がばたんと勢いよく開いたかと思ったら、ほとんど落ちてくる位の勢いで飛び込んでくるルフィ。そんな彼を見て、ニーナはカルーと目を合わせて頬を緩めた。

「ね?」
「クエ!」



 * * *



 ――ゾロとカルーを船番に残して、麦わら一味は無事に島へと上陸した。

 ニーナとナミがまだ女部屋に居た時、やはり上陸前に住民達とひと悶着起こし掛けていたらしい。ビビが身を挺して必死の説得をし、相手方に話の分かるリーダーが居たことで、事を荒立てずに済んだという。
 村へと向かう道すがら、ウソップから事の経緯を聞いたニーナは、小さくうーんと唸ると眉尻を下げた。

「ビビが居てくれてよかったね」
「ほんとにな……すげェよ、あいつ」

 前を歩くビビの背中を眺めつつ、ウソップは感嘆の溜息を漏らす。ほおっと吐き出した息は、彼の視界を一気に白くした。その白の密度に目を丸くして、ウソップは気遣わしげにニーナを見やる。

「いやしかし寒ィな。大丈夫かニーナ」
「うん? んん、覚悟して着込んできたから」

 一味の中で最も小柄なニーナは、厚手のダッフルコートに身を包んでいても、ぐるぐる巻いたマフラーに半ば埋まっていても、むしろ普段より小さく見える。
 ――ウイスキーピーク前の突然の大雪と、ここ最近の冬島の寒さと。強大な敵にも自然の脅威にも自分のペースを崩さないニーナが、唯一かつ若干動きが鈍っている場面。今まで密かに気付きつつも指摘していなかったところをやんわりと口に出してみれば、返ってきたのは否定とも肯定ともつかない言葉。
 逆にそれが弱点を認めていることに思い至って、ウソップはふぅむと感心のような声を漏らす。

「? どうかした?」
「いや、おめェにも苦手なモンがあんだなって、いっそ安心したっつーか」
「なにそれ」

 ふっと頬を緩めるニーナを見て、ウソップもまたつられたように脱力する。
 予断を許さないこの状況に、知らずのうちに妙な力が入ってしまっていたらしい。気を取り直そうと大きく息を吐き出した彼は、その視線をニーナから白銀の山へと向けると、数メートル先に巨大なシルエットを捉えて目を引んむいた。

「……っぎゃあああ!!! 熊だあああっ!!! みんな死んだフリをしろォおお!!!」

 ウソップは驚異的な反射神経で、大きく横っ飛びに飛んで熊との距離を取る。しかし、先頭を行く住人のリーダー・ドルトンは、至ってさらりとした調子で口を開いた。

「ハイキングベアだ。危険はない。登山マナーの“一礼”を忘れるな」
「………」
 後に続く住人達もまた、巨大な熊にも焦ることなく、お辞儀ひとつで悠々と歩みを続ける。それに倣って難なく熊をやり過ごしたニーナは、頭から雪の塊へとダイブしたウソップを、首根っこ掴んで引っ張り上げた。

「ウソップ……だいじょぶ……?」
「……………おう……」

 左手一本で男一人救出してのけたニーナに、ウソップは密かに涙を呑んだ。



 * * *



 ――この国の医者は、“魔女”が一人いるだけだ。
 事前に聞かされていた謎めいた言葉は、どうやら文字通りの意味だったらしい。

「確かに唯一の医者ではあるが、あまり関わりになりたくないバアさんだ…。次に山を降りて来る日を、ここで待つしかないな…」
「そんな…」
「だいたいよ、国中で医者が一人なんておかしすぎるぜ!!!」

 ドルトンの家へ招かれた麦わら一味は、彼の口から語られたこの『名前のない国』の現状に頭を抱えていた。
 一人しかいないという医者は、村の向こうに聳え立つ山々の、最も高い山の頂上に住んでいる。140歳という超高齢で、かつて王が住んでいた城を拠点とする、神出鬼没のぼったくり医者。こちらから連絡を取る手段は無く、あちらから来るのを待つしかない。そんな彼女が山から降りてくる時には、謎の生物と共にそりに乗って空を駆け下りて来るという。
 魔女と呼ばれるに相応しい逸話の数々は、まるで良く出来たお伽噺。それでも、今の麦わら一味にとっては、ナミを救う為の最後の希望。
 思った以上に小さかったその希望に、ビビやサンジは焦りの色が隠せない。そんな中、至極まじめな顔をしたルフィが、眠るナミの頬をぺちぺちと叩き始めた。

「おい、ナミ!! ナミ!! 聞こえるか?」
「「「――で、お前は何をやってんだ――っ!!!」」」
「………ん」
「お! 起きた」

 うっすらと目を開けたナミは、勿論今までのやり取りを把握しているはずもない。高熱でぼんやりとしている彼女に、ルフィは驚きの宣言をひとこと。

「あのな、山登んねェと医者いねェんだ。山登るぞ」
「!!!」

 予想だにしない発言に、その場の全員が目を丸くした。当然ながら勢いよく返ってくるのは大ブーイング。

「無茶言うなお前、ナミさんに何さす気だァ!!!」
「いいよ、おぶってくから」
「それでも悪化するに決まってるわ」
「何だよ、早く診せた方がいいだろ」
「それはそうだけど、無理よっ!! あの絶壁と高度をみて!!!」
「いけるよ」
「てめェが行けてもナミさんへの負担は半端じゃねェぞ!」
「でもほら…もし落っこちても、下は雪だしよ」
「あの山から転落したら、健康な人でも即死よっ!!!」
「常人より6度も熱が上がった病人だぞ!? わかってんのかお前っ!?」

 三人に三方向から責め立てられても、ルフィは全くめげることはない。相変わらずブレない船長の様子に、ニーナはいっそ感心してうーんと唸る。

「その発想は……なかったなぁ……」
「ニーナさんも何とか言ってよ!!」
「んん、でも確かに、ここで待ってるよりは動くべきっていうのは同感だな」
「ええっ!?」

 ルフィを止める後押しを求めて話を振ったであろうビビは、ニーナの返答に驚きの声をあげた。とはいえ、ルフィの言い分を全肯定している訳ではないニーナは、ルフィに向き直ると提案をひとつ。

「無理に連れていかなくても、山まで行って呼んでくるとかさ」
「どうせ行くなら、連れてった方が早ェだろ?」
「うーん……」

 全く引かないルフィの答えに思うところがありそうなニーナは、薄く開いた唇をゆるりと横一文字に引き結ぶ。
 ――自分がひとりで飛んで行くのが一番早い。脳裏に過ぎったところで、今ここで口に出す事など出来ない思い付き。
 全員が口を閉ざしたそんな時、静寂を割ったのは微かな笑い声。

「……ふふっ」
「! ……ナミさん」
「ナミ!!」

 弱々しくも穏やかな笑みを浮かべたナミは、ルフィに向かって片手を挙げた。

「…よろしくっ」
「そうこなきゃな! 任しとけ!!」

 ぱちん、合わさった二つの掌が小気味よい音を立てる。
 こうなったらもう誰にも止められないことを察して、麦わら一味は各々呆れ気味に口を開いた。

「ナミ……」
「……あっきれたぜ、船長も船長なら航海士も航海士だ!! 」
「自分の体調わかってんのか!? ナミさんっ!!」
「おっさん、肉をくれ!」
「……肉?」
「ナミさん、本当に大丈夫!? 何時間もかかる道よ」

 雪山への備えを始めるルフィの背中を眺めつつ、サンジが大きく溜息を吐き出す。煙草に火をつけ一服した彼は、腹をくくった様子で顔を上げた。

「よし、おれも行く!!!」
「あたしも行くよ」
「「「!?」」」

 思わぬところから上がった同調の声に、サンジの表情は戸惑いに染まる。

「ニーナちゃん……しかし……」
「大丈夫。無理はしないし、足手まといにはならないよ。“選択肢”は、多い方がいいでしょ?」
「……?」
「ニーナちゃん……」

 付け加えられた意味深な一言に、ビビは僅かに首を捻る。彼女の言わんとするところを察したサンジは、なんとも言えない表情でニーナを見つめた。
 止めるべきか、止めざるべきか。悩ましげに眉を寄せるサンジに、ニーナはふふっと苦笑して見せる。

「……それとね、正直、動いてないと、寒くて寒くて仕方ないの」

 ――今この場の温められた室内と、極寒の地に聳え立つ巨大な山と。どちらが寒いかなど、わざわざ比較するまでもない。
 彼女にしては珍しく、決して上手いとは言えない建前を告げられ、サンジは却って肩の力を抜いた。

「……わかったよ」





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