Le ciel croche | ナノ

 巨大金魚の腹の中を通過した事など嘘のように、穏やかな波に揺られてアラバスタを目指すメリー号。ひょんな事から手に入れた”永久指針”のお陰で、進路の心配もいらなくなった。
 出会った巨人達への興奮冷めやらぬルフィとウソップは海に向かって陽気に歌い、ゾロは甲板に落としたら底が抜けそうなダンベルを振り翳し筋トレに励んでいる。
 そんな仲間達の様子を横目にちらりと見下ろして、ニーナはひとり見張り台の上でよしっと小さく呟いた。彼女が膝に乗せる籠の中には、形も大きさも様々な琥珀の原石たちがひしめく。

(換金用、楽器の細工用、換金用、換金用、あ、これは……アクセサリ用で試してみようかな)

 ――良質の琥珀がたくさんありそう。そうアタリをつけて始めたニーナのリトルガーデン探索は、思った以上の成果を上げた。
 一人で旅していた頃よりも、随分増えた採集量。食い扶持を稼ぐという概念がほとんどないこの船において、彼女の役目は意外と大きい。琥珀の山を仕分けながら、換金用の原石がひときわ高く積みあがっていくのを見て、ニーナはふうっと息を漏らす。
 黙々と籠の中身を減らしていくと、最後に残ったのは握りこぶし半分程度の原石ひとつ。今まで迷いなく三種類のどれかに仕分けていたニーナの手が、それを掴んで初めて止まった。
 黄色から橙色へ溶けるような澄んだグラデーションが見事な、絵に描いたような琥珀たち。その中で唯一不透明なそれは、最初に見つけたその時からずっと、石の隙間からニーナに向かって猛烈にオーラを放っている。

「やっぱり、これが一番奇麗……」

 ニーナは原石を陽に翳すと、内側から半分ほど顔を見せている乳白色を覗き見る。黄色と白の濃淡が織りなすマーブル模様が美しいそれは、琥珀の中でも希少価値の高い“ロイヤルアンバー”と呼ばれるもの。しかしニーナがそれに価値を見出したのは、稀有な宝石だからというだけではない。

(ラクリマ・マレ……には、違いないんだけどなあ……)

 控えめに力を籠めてみれば、ぴりりと軽い静電気のような感覚が走る。しかし、今はそれだけだ。
 普段ニーナが扱っているのは、火、水、風といった、具体的な形を伴うもの。それは誰に教えられた訳でもなく、勿論石が用途を喋りだすわけでもなく、力を籠めれば自然と引き出されて具現化していた。実際に使える力にするまでには練習が必要なものの、何の力を持っているか位は、予想がつく事がほとんどだ。今回はそうでは無いらしい。

(……んん、まあ、でも、ニテンス・カーヴで見つけたやつだって、まだ使い方分からないのあるもんね)

 もう少し籠める力を強くすれば、糸口が掴めるかもしれない。普段なら真っ先に試す二番目の手を思いつつ、ニーナはこそりと甲板を見下ろす。ナミと談笑しているビビの姿を捉えて、小さく首を振った。
 ――今のメリー号には、ニーナの正体を知らない同乗者がいる。危ない橋は、渡らないに越したことはない。

「………」

 甲板から見張り台内側の様子など窺えるはずもない。頭では分かっているものの、ニーナはロイヤルアンバーの原石を腰の鞄にひっそりと隠すように仕舞う。
 三つの小山になった琥珀を小さな籠に仕分けていると、甲板から彼女を呼ぶ声が届いた。

「ニーナちゃ〜〜〜ん! おやつできたよ〜〜〜!!」
「ありがとサンジ。今降りるね」

 見張り台を見上げてぶんぶんと腕を振るサンジに片手を挙げて答えると、ニーナは荷物をまとめてロープに足を掛ける。
 飛んだほうが早いのは重々承知の上で、一歩一歩着実に足を踏みしめ甲板へと下っていく。残りあと数段、というところで、もういいかとばかりに身軽に飛び降りれば、突如、船前方からビビの焦った声が響いてきた。

「みんな来て!!! 大変っ!!!」
「なんだ、どうしたビビ!!」

 思い思いに空き時間を過ごしていた一味が、ビビの元へと集まってくる。
 一足遅れて到着したニーナが見たものは、甲板に力なく横たわるナミの姿だった。 

「ナミさんが………!!!! ひどい熱を………!!!!」


 *


「ナビざん死ぬのがなァ!!!? なァ、ニーナぢゃん、ビビぢゃん!!!!」
「サンジ、ちょっと落ち着いて」

 突然の高熱にあえぐナミを女部屋まで運び、ベッドに寝かせて一息ついて。終始ずびずびぐすぐすと動揺しっぱなしのサンジに、ニーナは静かに言葉を返す。とはいえ、ナミを見つめる彼女の表情にもまた、滅多にない憂いの色が滲んでいる。

「おそらく――気候のせい…“偉大なる航路”に入った船乗りが必ずぶつかるという壁の一つが、異常気象による発病……!!!」

 そんな中で口火を切ったビビもまた、緊張の面持ちでナミの様子を窺う。

「どこかの海で名を上げた、どんなに屈強な海賊でも、これによって突然死亡するなんてことはザラにある話。ちょっとした症状でも、油断が死を招く。この船に、少しでも医学をかじっている人はいないの?」

 ビビの問いかけに答えたのは、ルフィとウソップの無言の指差し。びしりと差された先に居るのは、診察したい病人張本人。

「くぅ……!!」
「ニーナさんは? あんなに深い斬り傷、手慣れた感じで上手に縫ってたし……」

 無念だと言わんばかりに腕で顔を覆うサンジを見て、ビビは最後の望みをニーナにかける。
 リトルガーデンで斬り落とし掛けたゾロの足を、応急処置と言いつつ奇麗に止血し縫い合わせたのはニーナだ。その時の様子を思い出してか、ビビの瞳にはかすかな希望の色が宿る。
 しかし、対するニーナは、少し眉をひそめて申し訳なさげに口を開いた。

「んん、あたしも、外傷の処置ならある程度は出来るけど、身体の内側のことは……一般的な知識どまりだよ」
「……!」

 ゆるく首を横に振るニーナに、ビビは落胆の色を隠せない。そんな中、でも、と声をあげたのは、珍しく静かにしていたルフィだった。

「肉食えば治るよ!! 病気は!! なァ、サンジ!!!」
「そりゃ、基本的な病人食は作るつもりだがよ…。……あくまで“看護”の領域だよ。それで治るとは限らねェ。そもそも、普段の航海中から、おれはレディ達の食事にはてめェらの100倍気を遣って作ってる。新鮮な肉と野菜で完璧な栄養配分。腐りかけた食料は、ちゃんとおめェらに…」
「オイ」
「それにしちゃうめェよなァ、うはははは」

 妙案だと言わんばかりのルフィに、対するサンジの表情は明るくない。食の話となれば先程までの動揺っぷりはどこへやら、一流コックの顔で真剣に答える。

「とにかく、おれがこの船のコックである限り、普段の栄養の摂取に関しては、一切問題を起こさせねェ。だが…病人食となると、それには種類がある。どういう症状で何が必要なのか、その“診断”がおれにはできねェ」
「じゃあ全部食えばいいじゃん」
「そういうことする元気がねェのを“病人”っつーんだ」

 後ろの話に耳を傾けながら、女二人はナミから目を離さない。体温計を確認したビビは、ますます顔色を悪くして眉根を寄せた。

「よ……40度!!? また熱が上がった…!!!」
「ちょっと高すぎるね……」

 元々体温の低いニーナがグローブを外してナミの額に手を当てれば、その差は歴然。あっという間に混ざり合った温度に下がる気配は皆無。ニーナはまるで自分の掌の下を見透かすように、じいっと真剣な眼差しを送る。
 すっかり温められた掌を額からゆっくりと話すと、ニーナは自分の右手をまじまじと見つめる。その視線はアームカバーに覆われた左手首に移り、腰元の鞄に移り、再びナミの額に戻る。背後の4人は自分たちの会話に夢中で、なにか考え込んでいる様子のニーナに気付かない。

「医者を探すぞ、ナミを助けてもらおオオ!!!」
「わかったからっ!! 落ち着いて!!! 病体にひびくわっ!!!」
「………だめよ」
「!」

 そんな時、思わぬところからの思わぬ発言に、全員がはっと動きを止めた。

「え…!? ナミさん」
「ナミ、寝てた方が……」
「お―――――っ、治った――っ!!!」
「治るかっ!!!」
「私のデスクの引き出しに、新聞があるでしょ…?」

 控えめに諫めるニーナをゆるく制止すると、ナミは弱々しく部屋の一点を指差す。察したビビが自らデスクを開けて新聞を取り出すと、きゅっと口端を引き締めつつ内側を開いた。
 ばさり、ばさり、静かな部屋に紙擦れの音だけが響く。中面のページで手を止めたビビは、すっと息を呑むとかたかたと手を震わせ始めた。

「そんな…」
「おい、何だ、どうした」
「アラバスタのことか!? ビビちゃん!!」
「そんなバカな…………!!! 『国王軍』の兵士30万人が、『反乱軍』に寝がえった…!!? もともとは…『国王軍』60万、『反乱軍』40万の鎮圧戦だったのに、これじゃ…一気に形勢が!!!」
「………これでアラバスタの暴動は、いよいよ本格化するわ…」
「………」

 ――具合が悪い本人自ら、医者を探して寄り道することを拒否した理由。
 この事実を一人で抱えていたナミは、予想通りのビビの反応に小さく嘆息する。血の気の引いていくビビの横顔に切羽詰まった状況を察し、サンジとウソップは顔を見合わせた。

「3日前の新聞よ、それ…。ごめんね…。あんたに見せても船の速度は変わらないから、不安にさせるよりと思って隠しといたの。…わかった? ルフィ」
「……! 大変そうな印象をうけた」
「そういうことよ。思った以上に伝わってよかったわ」

 流石に事の重大さを感じ取ってか、ルフィも腕を組みつつ真顔で頷いた。
 ベッドから起き上がろうとするナミに、ウソップが気遣わしげに声を掛ける。

「でもお前、医者に診てもらわねェと…」
「平気。その体温計壊れてんのね…。40度なんて人の体温じゃないもん。きっと日射病か何かよ。医者になんてかかんなくても勝手に治るわ…」
「ナミ……」
「…とにかく、今は予定通り…まっすぐアラバスタを目指しましょ」

 抑え気味に呼び掛けるニーナにも、ナミは微笑ひとつで応えるだけ。ふらつきを見せずに立ち上がり、すたすたと数歩階段に向かって歩くと、振り返りざまに柔らかく笑ってみせた。

「心配してくれてありがとう」
「おう。なんだ、治ったのか………」
「………バカ、強がりだ」

 階段を上っていくナミを見送りながら、ウソップは神妙な面持ちでルフィの呟きに答える。
 ぎいっという弱い摩擦音を残して扉が閉まれば、女部屋は静寂に包まれる。誰もが口を噤んだままのそこで、最初に動いたのはニーナだった。


 *


「……ちょっと待って、ナミ」

 女部屋の真上に位置する倉庫。ナミは外へと続く扉の前で、壁に凭れ掛かり息を整えていた。
 ニーナの呼びかけに緩やかに振り向いたナミは、そのままぐらりと体勢を崩す。駆け寄ったニーナがすぐに支えるが、くたりとしなるその身に力は無い。

「ほら、やっぱり相当具合悪いじゃない」
「ニーナ……」

 掴んだ肩は服越しでも分かるほど熱く、吐き出す吐息も上気している。日射病の類ではないことは、大層な医学知識が無くても一目瞭然だ。
 ぼんやりと潤んだナミの目を正面から真っ直ぐ見据えて、ニーナはナミを支える力を強くする。

「普通の体調不良じゃないよ。ねえ、ナミ医学の本持ってるでしょ? 症状調べるから場所教えて?」
「大丈夫だって」
「全然大丈夫じゃない!」

 ぴしゃりと言い切った直後、ニーナはまるで自分の発した声に驚いたかのように、小さくはっと息を呑む。ごめん、と消え入るように呟く彼女を見て、ナミは気の抜けた笑いを零した。

「……ふふっ」
「なに、笑って……」
「何が起きても動じないあんたが、そうやって顔色変えてるの、初めて見たなって」
「………」

 普段通りの落ち着いたトーンに戻ったニーナに、ナミは慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべる。この状況に見合わない反応に、ニーナは返す言葉に詰まる。
 そんな彼女に、ナミは一度大きく息をつくと、ニーナとしっかりと視線を合わせて口を開いた。

「……ビビを見てるとね、どうしても昔の自分と重ねちゃうの。同じ、なんて言ったら、背負ってるものの大きさが違いすぎるけど……」

 つい先程までの高熱で朦朧としていた面影はなく、その瞳の奥に灯るのは別種の熱量。ナミの真剣な眼差しに射抜かれて、ニーナは相槌も打てずにナミを見つめる。

「でも……そんなあの子を、私が、助ける側になれるなら。可能な限り力になりたいって思うのよ。折角アラバスタへの永久指針が手に入ったんだもの。こんな理由で、立ち止まってる暇なんて無いでしょう?」

 自分の身体に言い聞かせるように、一言一言噛み締めるように。ココヤシ村での出来事を知っているだけに、目の前で改めて固められた決意に、ニーナは返す言葉を紡げない。
 それを全て承知の上で、ナミは再び穏やかに笑ってみせた。

「ニーナがこうやって、私の事心配してくれるのと同じよ」
「……同じじゃ、ないよ……」
「そんな事無いわよ」

 ニーナの口からようやく出てきた弱い反論の声を、ナミは間髪入れずに否定する。

「あんたがココヤシ村で私を助けてくれたのも、ゾロの傷治療したっていうのも、おんなじでしょ」
「……あたしは、あたしの出来る範囲の事をやっただけだよ。今回のナミのは、無理せず出来る範囲を超えてる。自分の身を危険に晒してるじゃない」
「あら、あんただって、バレる危険を冒して能力使ったでしょ? ローグタウンでルフィ助けようとした時、羽根出ちゃったって言ってたじゃない」
「でも、それとこれとは……」
「いーの!」

 半ば無理やり話を終わらせて、ナミはニーナの頬を両手で挟む。むにむにと押して物理的に黙らせると、ナミはにいっと悪戯に笑った。

「ゾロ一人に進路任せてるの不安だから、ちょっと見てくるわ」
「ナミ……」
「ありがとうね、ニーナ」

 いつの間にかしっかりと自分の足で立っていたナミは、ニーナの支えからするりと抜け出すと、甲板へと続く扉に手を掛けた。ぐらつく事無く押し開くと、真っ直ぐな足取りで外へと出ていく。

「………」

 そんな彼女の背中を見送る事しかできなかったニーナは、一歩前へと踏み出した足を、半歩だけ進めて緩く止めた。静かに閉じてしまった扉をじっと見つめると、やがて自分の左手首へと視線を移す。

(やっぱり、あたしには……“エルフィン”には、“分からない“のかな……)

 掌を握りしめて、開いて。二度繰り返したその動きは、握り拳を作って止まる。

(……でも、ナミが折れないっていうんなら、あたしは)

 ――再び扉の先へと向けられた瞳には、小さな光が灯っていた。





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