Le ciel croche | ナノ

 ナミの言った通り、ルフィの手配書が届いてからすぐに、その島は水平線の奥に姿を現した。
 “偉大なる航路”の玄関とも言えるそこは、島自体のそれよりも、そこにある町の名の方が通りが良い。東の海に留まらず、おそらく全世界にその名を知られている町……“始まりと終わりの町”、ローグタウン。
 つい先刻、あたしとナミが話題にしていた場所。海賊王が生まれて、処刑された町。そして――あたしが、リミットとして定めた町。
 上陸準備を始めるにはまだ早い。今のうちにと思って決めた答えを伝えに行けば、船長から返ってきた言葉は、またしても予想の斜め上を行った。

「ねえ、ルフィ」
「いやだ! まだ聞かねェ!」

 あたしが口を開くやいなや、ルフィはぎゅっと両耳を塞ぐ。話の内容には見当が付いているらしい。まだ、というその台詞は、バラティエを出る直前のあたしの言葉をしっかり覚えている証拠。
 確かに、ローグタウン出るまでにとは言ったけど。これから変わる予定は無いし、バタバタし始める前に伝えておきたかったんだけど。言い分としてはルフィの方が正しいから、どうしたものかと口を噤む。
 そんなあたしを見て、ルフィは耳から両手を離した。

「探してる奴に、会えるかどうかにもよるんだろ?」
「んん、まあ、そうなんだけど。ルフィ達はそのまますぐ、“偉大なる航路”に行くでしょう?」
「ニーナの用事が済むまで待ってる!」
「うーん……」

 ここまで言って貰えると思っていなくて、返す言葉がすぐには出てこない。嬉しいけど、有難いけど、どうしてここまで。浮かんだ問いに対する答えは、つい先日、ナミの一件で目の当たりにしたばかりだ。
 ――だけど、彼女とあたしじゃ、事情が違う。

「……あたし、東の海でまだ行けてない所もあるし、急いで直行する理由も無いんだよねえ」
「なんだ、そんな事か」

 苦し紛れに口にした些細な建前。ルフィはきょとんと目を丸くすると、なんてことないと言わんばかりに首を傾げる。

「そんなら、世界一周した後でまた来るぞ?」
「!」
「おれたちだって、戻って来てから行きてェ所はあるからな!」

 壮大な殺し文句をけろりと言ってのけたルフィは、そのままの勢いで、がしりとあたしの両手を取った。

「だからニーナ、ちゃんと帰ってこいよ! 絶対だぞ!!」



 *



 ――ついさっきのルフィの言葉が、耳に残って離れない。

「参ったなぁ……」

 かつり、かつり、いつもよりも若干遅いテンポで、ローグタウンのメインストリートを歩きつつ独りごちる。ぽつりと零したぼやきは、周囲の雑踏にあっという間に飲み込まれた。
 世界一周した後。それはすなわち、一周はするっていう前提だ。世の人々に言わせれば夢物語でも、ルフィにとっては、いつか達成する未来の話。

「“帰って”こい、か」

 迷いなく言い切るその姿は、ぎゅっと握りしめられた両腕は、どうしてこうもあたしの心を波立たせるんだろう。久しく感じた覚えの無いこの感情の名前は、戸惑いと動揺だ。
 そのせいで、というのも言い訳がましいけれど、上陸時に持って降りるつもりだった木箱の山は、見事に全部メリー号に置いたまま。別れの言葉なんて口にするのは許さないとばかりに、実にさらりと上陸してさらりと各自解散してしまった。じゃ、またあとでね。そう告げたナミがあの時とは別種の笑顔を浮かべていたのも、あのやり取りを見ていたからこそだろう。 勿論、元々みんなの出航は見送るつもりだった。だけど、これであたしはあの船に“帰る”理由ができてしまった。きっとルフィは、そこまで考えてはいないだろうけれど。

(ぜんぶ無意識で引き寄せてるよなあ、ルフィは)

 ぼんやりと思考を巡らせながら惰性で足を進めていると、ふと視界の端に現れた賑やかな紙の山。首だけで振り向いてみれば、路面に店を構える小さな新聞屋がひとつ。そのまま視線を横にスライドすれば、隣には居心地良さそうなテラス席が目立つカフェ。
 情報収集の基礎に立ち返りつつ、頭を冷やすのには丁度良い。吸い寄せられるように足が向いて、目に留まった新聞を買って、カフェラテ片手にテーブルに着くまではあっという間だった。
 ……ばさりと適当に広げた新聞には、でかでかと踊る“賞金首特集”の文字。
 
「んん……このタイミングでこれか……」

 新聞の発行元は東の海だけど、そこに並ぶ顔ぶれは軒並み一千万ベリー以上。高いものだと、“偉大なる航路”で名を馳せている億単位の海賊まで網羅している。そんな中、一際大きく載せられているのは、とても見覚えのある満面の笑み。この異例の手配に合わせた特集なのかもしれない。
 そんなルフィの斜め右下にあったのは、手描き感満載な、髪の長い少女の後姿。辛うじて読める文字は“写真入手失敗”だけで、名前も金額も、画像の縮小に耐えられずに潰れている。
 その隣には、これまた良く知る青年の顔。出来過ぎた偶然に小さく息をつけば、かたり、向かいの空席が控えめに引かれた。

「相席いいか? おじょーさん」
「!」

 耳馴染みの良い声に、弾かれたように顔を上げる。あたしの答えを聞くより先に腰を下ろしたのは、ルフィやゾロよりも幾らか年長の青年。
 見つけてくれるだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早いなんて。今まさに新聞で見たばかりの顔が、にいっと悪戯な笑みを浮かべた。

「……久しぶり」
「おう」

 正面から目が合えば、その表情はふっと柔らかく崩れる。いつだって飄々としている彼だけど、今日はなんだか分かり易く機嫌が良い。特に、今の笑顔は、彼の仲間達が目の当たりにしたら、相当驚くに違いない。
 感情の読めない遠い眼差しをした手配書の彼と、今まさにあたしの前にいる好青年。新聞と本人をまじまじ見比べたって、同一人物だなんてきっと気付かれないだろう。近場にいたウエイトレスさんに愛想良く注文を告げれば、彼女は頬を赤らめつつ厨房へと駆けて行く。

「罪作りだねえ」
「お前もな」
「うん?」

 ぱたぱたと跳ねる足取りを見送りながら呟けば、彼はさらりと不思議な言葉を投げ返してきた。意味するところを捉えかねて視線を送ると、あたしより数段深みのある飴色が、じいっとこちらを見つめ返す。

「良い船、見つけたんだろ?」
「………」

 回りくどい事が嫌いな彼らしく、早速痛いところを突いてきた。なんで知ってるの、そんな愚問は投げかけるまでもない。
 あたしの沈黙を肯定と受け取ったのか、答えなんか聞かなくてもお見通しなのか。特に重大な話でも何でもないとばかりに、あっと言う間に出てきたアイスコーヒーを受け取りながら、彼は至っていつもの調子でウエイトレスさんにお礼を述べた。
 砂糖もミルクも足さないで、彼はそのままグラスを手にする。からん、揺れる氷に涼やかな音を響かせて、テーブルに戻す。ほんの数秒のその間が、妙に長く感じた。

「気に入られてて、お前も気に入ってて、こっから先も一緒に行こうって誘われてんだろ」
「……うん」
「でも、その折角見つけた良い船、お前は降りてこっちに来る気だ」
「うん」
「そりゃァ、ウチの奴らは諸手挙げて大歓迎するさ。お前がホントに“来る気”ならな」
「………」
「しかし実際、後ろ髪引かれまくってんだろ。罪作りじゃねーか」

 さっき自分が何の気なしに漏らした言葉が、思いもよらない大きさで跳ね返される。
 ……こんな宙ぶらりんな気持ちを抱えたままじゃ、彼の船のみんなにも失礼だ。薄々気付いていた事をずばり指摘されて、返す言葉も無い。
 彼は特に気を悪くした様子もなく、もう一度ストローに口を付けると、変わらない調子で言葉を続ける。

「おれァ別に、お前の好きにすりゃいいと思ってるぜ」

 なんとなく下がってしまっていた視線が、その一言でふっと上がる。かちあった瞳は相変わらず凪いでいるけど、淡々とした物言いよりも随分優しい。

「“あの時”はああ言ったが、お前だってもう、自分の身は自分で守れる程度にはなってんだろ」
「うん」
「おれたちの船に来るってんなら、全員で歓迎する。あの船で行きたいってんなら、それも別に止めやしねェ。今まで無かった選択肢が出来たってのはいい事じゃねェか」
「うん……」
「……まァ、“あいつ”は怒って暴れて飛んで来るかもしんねェけどな」
「はは、そうかなあ」
「そうだろ」

 ――今ここには居ない、懐かしい顔がもうひとつ。
 頭の中に浮かんだ“彼”の、ころころと良く変わる表情を思い出す。笑った顔、怒った顔、困った顔。今のあたしを見たら、どんな顔をするんだろう。
 一瞬逸れた思考は、こちらにじいっと向けられている視線で戻される。

「お前の中じゃ、天秤は思いっきり傾いてんだろ? 何が邪魔してんだ」
「それ敢えて聞くの?」
「敢えても何も、乗りたい理由がいくつもあるなら、後は乗れない理由を潰してくだけだろ?」
「………」

 沈黙を破って、控えめに響いたズズッという音。空になったコーヒーのグラスを置いて、彼は片手を挙げてウエイトレスさんを呼んだ。
 あたしだけじゃない。あたしに関わる人たちの、人生をも左右しかねないレベルの話をしているのに。メニューとにらめっこしながら、サンドイッチにするか、ホットドッグにするか、それと同じくらいの調子で、どちらを選ぶのかと問う。 結局コーヒーのお代わりとホットサンドを注文した彼は、手持ち無沙汰になった右手で、ぴっとあたしを指差した。

「お前は、自分が周りを『巻き込む側』だと思ってるんだろうが、あの船長相手じゃ、むしろ逆だと思うがな」
「んん……そう……かもしれないけど、そうじゃなくて」
「それとも何だ? お前の“事情”を話したら、態度を変えるような奴らなのか?」
「っ、違う!」

 本当に何から何まで見てきたかのような言葉。元々無口なほうでも無いけれど、今日の彼はいつもより饒舌だ。
 その勢いもあってなのか、今のはいつもの彼なら踏み込んで来ない領域。反射で返した答えに、彼はにいっと口角を上げる。

「……お前がそんだけの勢いで言い切るんなら、大丈夫だろ」
「………」
「折角そう言える奴らと逢えたんだ。妙な遠慮なんてしてねェで、いっぺん本気でぶつかってみろ。自分で見つけた“本当の仲間”ってのは、どんだけ金を積んだって手に入らねェ財産なんだからよ」

 ――どうやら、まんまと嵌められたらしい。

 いつだって中立のようでいる癖に、密かにあたしの望む方の道を照らしてくれる。もう一人の“彼”とは違ったやり方で、あたしを導いてくれた人。それでも、焚き付けて本音を出させて分かり易く背中を押してと、ここまで明確に示すのも珍しい。

「お前、この後一旦あの船に戻るだろ?」
「え? うん、そうだけど」
「……ニーナ。お前にひとつ、予言してやる」

 久しぶりに呼ばれた名前に、なんとなく背筋が伸びる。
 そんなあたしを見て、彼は今日一番のやさしい顔で微笑した。

「お前はきっと、そのままあいつらと出航するよ」




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