Le ciel croche | ナノ

「8年前のあの日から、あの娘は人に涙を見せることをやめ、決して人に助けを求めなくなった……!!!! あたし達の母親の様に、アーロンに殺される犠牲者を、もう見たくないから……!!!!」

 ――ノジコが語ったナミの半生と現状は、中々に壮絶なものだった。

「わずか10歳だったナミが、あの絶望から一人で戦い生き抜く決断を下したことが、どれほど辛い選択だったかわかる?」
「……………村を救える唯一の取り引きのために、あいつは親を殺した張本人の一味に身をおいてる訳か……」
「“海賊嫌い”も“海賊専門”も、徹底するわけだね……」

 逐一口にしていた線引きも、時折見せる陰った表情の正体も、手配書を見てからの動揺も。大きなリスクを負ってまで、ウソップを“殺したフリ”で逃がした事にも。これで全部納得がいく。
 だからきっと、絆されているように見えたナミの方が、本来の姿だったのかもしれない。辿り着いた結論に安堵のような感情を持ってしまった事には、内心苦笑せざるを得ない。

「あァ、愛しきナミさんを苦しめる奴ァ、このおれがブッ殺してやるァ!!!!」

 あたしの隣でわなわなと拳を握りしめていたサンジが、天に両手を突き上げた。今にもアーロンパークに殴り込みに行きそうな勢いだ。
 そんな彼の頭上に突如下された重い鉄槌は、ゴンッと鈍い音を響かせた。

「な……なにを、おねーさま……!?」
「それをやめろと、あたしは言いに来たんだよ!」

 思いもよらない拳骨に、サンジは腰を落として頭を抱える。握った拳もそのままに、ノジコは腕を組みつつ目を伏せた。

「あんた達がナミの仲間だとここで騒ぐことで、ナミは海賊達に疑われ、この8年の戦いが無駄になる。だからこれ以上……あの娘を苦しませないでほしいの!!!!」

 苦しむナミをきっと誰より近くで見てきたノジコは、苦悩に満ちた表情で地面を睨む。
 そんな彼女だって、様々なものを耐えて耐えて耐え抜いてきているはず。それでも、既に散々騒いでしまっているあたし達を責めるでもなく、昼寝を決め込むゾロを指差し最後の忠告を残した。

「そいつ起こして船長連れ戻して、とっとと島を離れな。じゃあね」
「………」

 街の方向へと踵を返した、あたしより背の高いノジコの後姿は、なんだかとても小さく見えた。

 *

「お姉さんは、ああ言ってたけどさ」

 ノジコの姿が道の向こうに消えた頃。ゾロの寝息だけが規則的に響く中にぽつりと零せば、だんまりで考え込んでいた二人があたしに視線を向けた。
 今後の行動に、積極的に口を挿むつもりはなかったんだけどな。そんな言い訳が頭に浮かぶより先に、言葉の方がぽつぽつと出てくる。

「正直、いざ一億ベリー集めた所で、あの魚人たちが素直にナミと村を解放するとは思えないよ」
「そうだな……」

 ナミの8年間を、村人たちの唯一の希望を、ノジコの前で一刀両断するのはさすがに気が引けた。だけど、今やっと事情を理解した部外者の目から見れば、彼らの賭けは圧倒的に分が悪い。
 思った事を素直に口にすれば、サンジが静かに頷いた。視線で続きを促される。

「ナミを連れ戻したいんなら、さっきのサンジじゃないけど……根源を完全に潰さなきゃ」
「おォ、そうだそうだ! よく言ってくれたぜニーナちゃん!」
「おめェ大人しい顔して淡々とおっかねェ事言うな!?」

 嬉々として賛同するサンジとは対照的に、ウソップは盛大に顔を引き攣らせる。それでも否定の言葉が出てこないあたり、彼にも道は見えているんだろう。先程のナミの台詞を思い出しつつ、一度閉じた口を後押しとばかりにもう一度開く。

「だって、騒ぐなって言われたけど、もう十分騒ぎは起こしてるよ。ナミも言ってたじゃない。アーロンがゾロとその一味を殺したがってるって」
「うっ……」
「それにさ」

 ここまでは情報と現状を基にした状況判断。すんなり浮かんだ次の言葉は、ここ暫く彼らと行動を共にして辿り着いた予想。

「散歩に行ったルフィが、新しく起こさないとも限らないでしょ?」

 あたしの言葉を聞いた二人は、揃って目を瞠ったあと、納得の表情を浮かべて唸った。

「そりゃァな……」
「うし、話は決まったな! おい、いつまで寝てんだ、起きろ!」

 最初から乗り込む気満々だったサンジが、未だ木の幹を背凭れに昼寝を続けるゾロの方へと顔を向けた。大股で距離を縮めた彼が踵を繰り出すより先に、ゾロの不機嫌な声が聞こえてくる。

「あァ? ……なんだ、終わったのか。で、どうすんだ」

 くあ、と一つ大欠伸をしたゾロは、ぽりぽりと頭を掻きつつゆらりと立ち上がる。既に臨戦態勢に見えなくもない彼に、サンジは親指で街の方を示した。

「ルフィ探して合流して、クソ魚人野郎共をブッ潰しに行く」
「ハッ、そりゃ分かり易くていいぜ」

 かちゃり、彼の腰で剣の柄が待ちきれないとばかりに音を立てる。
 ルフィを探す手掛かりは方角しかないけれど、騒がしいところを当たればすぐに見つかるだろう。


 *


「やめてよみんな!!!! もう私……!! あいつらに傷つけられる人を見たくないの!!!!」

 ――結論から言って、ルフィは確かに騒がしいところで見つかった。
 ただし、その中心にあったのは彼ではなく、顔面蒼白でナイフを構えるナミの姿。その刃先が捉えるのは、彼女が8年間守り続けてきた村人たち。各々剣や包丁や急ごしらえの武器を構える彼らに、ナミは必死の形相で対峙する。
 誰も知らないはずだった彼女の孤独な戦いは、実は周知の事実だった。知らないフリで彼女と一緒に耐えてきた彼らが、ついに立ち上がろうとしている。

「どきなさい!!!! ナミ!!!!」

 部外者のあたし達が、今この状況で出ていける訳もない。密かに家々の影から様子を窺っていると、ナミのナイフを素手で掴んで止めていた駐在さんがカッと一喝した。
 怯んだナミがナイフを落として、かくりと地面に膝を着く。そんな彼女の横を、怒れる村人たちは雄叫びと共に駆け抜けていく。
 遠くなる彼らの足音を追い掛けるかのように、一陣の風が吹いた。舞い上がる木の葉が落ちた先に残されたのは、茫然と虚空を見つめるナミ一人。

「アーロン……!!!!」

 絞り出すような声と共に、左腕をきつく握りしめる。
 一度は落としたナイフを手にしたナミは、それを大きく振り上げた。

「アーロン!!!! アーロン!!!! アーロン!!!!」
「……!」

 ぐさり、ぐさり、悲痛な叫びに紛れて聞こえる肉を抉る音。左腕に刻まれた親の仇の刻印に、彼女は何度も刃を立てる。
 流石に止めようかと一歩踏み出そうとした丁度その時、あたしの横で静かに状況を見守っていたルフィが、ついに動いた。
 ナイフを握る手を掴んで止めれば、ナミが涙でぼろぼろの顔で振り返る。

「ルフィ……!!!!」

 人に見せなかったという8年分の涙。押し込めて固まった氷山の一角に過ぎないはずのそれは、後から後から零れて落ちて地に滲む。
 何も知らないくせに。島から出てけって言ったでしょう。出てくる言葉に纏わせた棘は精一杯の強がり。
 うん、知らねェ。ああ、言われた。淡々と答えるルフィに、ナミはついに、最後の抵抗をやめた。

「ルフィ……助けて……」

 ――零れたのは、引き出したかった彼女の本音。

 正直、ここまで思い切り首を突っ込んでおいて、本人の意図が別の所にあったらどうしようかという思いも少しはあった。これから先の事を考えれば、どちらにどう転んだって大騒ぎになるのは必至。腹を括った以上それはもう良しとしているけど、それなら、ナミとルフィ達の双方が望む方向に着地したい。能力を使わなくたって、その手伝い位はできるつもりだ。
 ナミの言葉で、目指す方向は定まった。ルフィは自分の麦わら帽子をがぼっとナミの頭に被せて、全力で大きく息を吸う。
 吸って、吸って、ぴたりと止めて。ナミに背中を向けたまま、ルフィは一気にそれを吐きだした。

「当たり前だ!!!!」

 腹の底から響かせた声で空気が震える。帽子に触れたナミがはっと目を瞠る。こちら側で成り行きを見守っていた三人が小さく息をつく。さくり、さくり、近付いてくる足音は軽いけれど、隠しきれていないのは迸るような怒り。

「いくぞ」
「オオッ!!!!」

 奇麗に揃った三つの声を背中で聞きながら、ルフィと擦れ違う。向かってくるあたしを見て、ナミは少し驚いたようだ。ぴくりと肩を揺らした後、みるみるうちに眉が下がる。

「ニーナ……」

 弱々しい呼び掛けには視線だけで応えて、ウエストポーチから消毒液と包帯を取り出し膝を着く。一本使い切るくらいの気持ちでどばどばと液を掛けて手早く包帯を巻けば、ナミがウッと小さく唸った。痛覚が戻って来たのだとしたら、それは立ち直る第一歩だ。
 包帯の端を始末して、清潔な布を取り出して腕を拭く。ひとまずの応急処置を終えてから、控えめに顔色を窺ってみた。
 まだ少し放心気味の彼女は、流れる涙もそのままに、宙ぶらりんの手を所在なさげに持て余している。勝手に顔まで拭くのは躊躇われたから、ポーチから新しくハンカチを取り出して手渡した。

「……っ」

 渡したハンカチごと右手で顔を覆う彼女に、あたしは掛けるべき言葉を持ち合わせていない。
 巨大な力によって、家族を理不尽に失ったこと。生きるために歯を食いしばって耐えてきたこと。望む望まないによらず磨かれた忌むべき技術。自分を想ってくれるひとたちの、量り知れない愛情。
 ――それは多分、あたしには、“わかる”けれど、ずっと“わからない”ことだから。

(………)

 頭の中に浮かんでは消える色々な景色をどこか遠くから眺めつつ、ナミが落ち着くまで静かに待つ。やがて、不規則な嗚咽が規則的な深呼吸に変わって、顔を覆っていた右手がくたりと下がって地面に触れた。
 ふー、と深く深く吐き出された息を止めて、その分の空気をゆっくりと取り戻す。再び上がった右手の甲で最後の涙を力強く拭うと、彼女はぱっと顔を上げた。

「……ありがとう」
「それ言うのには、まだ早いと思うよ?」

 向けられたのは、少し赤いけれど生気の戻った瞳。最初に零れたのは感謝の言葉。
 あたしが知りうる限りの“いつもの”ナミに戻りつつあるのを見て、思わず安堵の笑みがこぼれた。血と涙でだいぶぼろぼろの、包帯に巻かれた右手を取る。

「これも巻き直そ。いつもの棍棒は?」「家に置いてきちゃった。取りに戻らなきゃ」

 遠回しに戦う意思を確認すれば、すぐに瞳の奥に火が付いた。
 ――うん。これなら大丈夫。手早く応急処置を終わらせたら、走り出すナミに着いて行こう。




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