Le ciel croche | ナノ

「さき程は失礼。おわびにフルーツのマチェドニアを召し上がれ」

 ついさっきまで怒鳴り合いをしていたとは思えない穏やかな声。一度はひっくり返ったテーブルも奇麗に元に戻して、新しく引かれたテーブルクロスには皺ひとつ無い。
 海上レストラン・バラティエの副料理長、サンジは、先刻の料理長との大喧嘩など無かったかのように、落ち着き払った様子でフルーツの盛り合わせをサーブしてくれた。ナミの前に置いて、あたしの前に置いて。テーブルにはあと二人着いているけど、追加がある様子はない。その代わりに出てきたのは、ワイングラスが二つ。

「食後酒にはグラン・マニエをどうぞ、お姫様方」
「わあっ、ありがとう」

 とくとくと注がれる橙色の液体を見て、隣のナミはぱあっと表情を明るくした。早速グラスに口を付けると、とろけるように口角を緩める。
 その様子を眺めていたサンジは紳士的に微笑むと、どうぞ、と一声添えつつあたしの前にも空のグラスを置いてくれた。少しだけ傾けられたボトルから香るのは、爽やかなオレンジフレーバー。そこにひっそりと混ざるアルコールの香り。
 ……注文外の善意に口を挟むのは申し訳ないけど、出されてから手を付けないよりマシか。

「あ、ごめんなさい、あたしお酒はあんまり得意じゃなくて……」
「ああっ、それは失礼! それならこっちだ、エンジェル・フェイス」

 やんわり断りを入れれば、サンジは気を悪くした様子を見せるどころか、ぱっとすかさず別のボトルと入れ替えた。グラスを満たしていくのは、グラン・マニエとはまた違う透き通った橙。

「元々はアルコール度数の高いカクテルを、ノンアルコールで作ってある。お酒の苦手なプリンセスにも、安心して楽しんで頂けます」

 そこまで言ってぱちんとウインクをひとつ。見事に手慣れた対応は、さすが副料理長といったところなんだろう。それが発揮されるのは、女性限定のようだけど。
 折角だから、お礼を述べつつグラスに手を伸ばす。鼻先まで近付けても、今度は苦手な香りはしない。ごくりと一口思い切って飲めば、口の中に広がった味は林檎とアプリコット。

「あ、美味しい」
「それは良かった」

 自然と零れた感想に、サンジは笑みを深くする。紳士な態度を貫いているように見せつつ、鼻の下が伸び掛かっているのは、見なかったことにしておこう。
 そんなあたしたちを見て、ナミが優雅にふふっと笑った。

「優しいのね」
「そんな……!」
「おいっ! おれ達には何のわびもなしか!! 男女差別だ、訴えるぞこのラブコック!!」

 一連の流れを黙って眺めていたウソップが、ついに痺れを切らして不満の声をあげる。ばんばんとテーブルを叩いて主張する彼に、サンジが向ける視線は冷たい。

「てめェらにゃ粗茶出してやってんだろうが、礼でも言えタコ野郎!!」
「お!? やんのかコラ、手加減はしねェぞ!! やっちまえゾロ!!」
「てめェでやれよ……」

 呆れ声を返すゾロは出されたお茶を大人しく啜り、ナミはフルーツを存分に満喫している。彼女の隣では、ルフィが餌をねだる小鳥のように大口を開けている。
 加勢を頼るのを諦めたウソップは、サンジに向き直ると論点を変えた。

「だいたい、男相手にゃ皿も下げねェのか」
「キノコ残ってんだろ、食えよ!!」
「なあニーナ〜〜〜一口くれよ〜〜〜」

 その論争などまったく気にせず、ルフィは標的をあたしのマチェドニアに移した。哀れな声を出して口を開けつつ凝視しつつ、それでも勝手に手を伸ばすことはしない。ぎりぎりのところで辛うじて我慢が勝っているのが目に見えて、思わずふっと苦笑が漏れる。
 マチェドニアに視線を戻して、軽く息を吸ってみる。色とりどりのフルーツの中に、グラン・マニエの香りが混ざっている。少しだろうが何だろうが、避けられるリスクは負うべきじゃない。
 ちらりとサンジを見てみれば、未だウソップと論争を続けていた。こちらに意識は向いていない。

「はい」
「うおおお、いいのか!? ありがとう!!!!」

 まだ手を付けていないフォークを添えて、グラスごと横にスッとスライド。途端に目を輝かせたルフィは、ものの数秒でそれを空にしてしまった。

「うっめェェェェ!!!!」
「甘やかすことないのに」
「んん、まあ、一口くらい……」
「一口で全部持ってかれてるけどな」
「あはは……」

 美味しそうな顔でフルーツを頬張るナミに曖昧に相槌を打てば、ゾロに尤もすぎる突っ込みを入れられた。ちょっと適当に答え過ぎたかな。
 とりあえず笑って誤魔化していたら、後ろの論争がいつの間にやらヒートアップしていた。
「毒だろーが毒じゃなかろーが、キノコは食わねェって決めてんだよ!」
「食う前から決めつけてんじゃねェよ!」
「食った事あるから言ってんだろ!!」
「てめェが食ったのとコレとは別物だろ!!」
「キノコは全部キノコだろ!!」
「やめて、私のために争わないで」
「はい! やめます」
「誰がてめェのためかっ!!」

 見かねたナミが口を挟めば、サンジはぴたりと口を噤んだ。分かり易すぎる反応に、ナミが浮かべる笑みが妖艶なそれに変わる。
 あ、これはなにか仕掛ける気だ。そう思ったちょうどその時、彼女は両手をサンジの頬に沿えて、くいっと眼前に近付けた。

「ところでねえ、コックさん?」
「はい!」
「ここのお料理、私には少し高いみたい」
「もちろん!! 無料で!」
「うれしい、ありがとう」
「あー!」

 お礼とばかりにギュッと首元にハグすれば、サンジは骨の髄から蕩けそうな声をあげた。全ての語尾にハートが乱舞している。
 会話の着地点は、見事にナミの思う壺。値切るどころかタダにまで持っていくなんて、その手腕には感心するしかない。

(でもそれは、ちゃっかりしてる、って言うよりも)

 ――生きるために磨いた術なんじゃないかな。そんな場違いな感想が頭を過ぎった。
 一見自然体で一味に馴染んでいるように見えるナミは、それでいて事あるごとに男三人と一線を引いた発言をしている。海賊じゃない、手を組んでるだけ。彼女がそう口にする度に、その表情に若干の陰が差すことを、本人は気付いているのかいないのか。
 やっぱりワケありなんだろうなあ、って、あたしが言えた事ではないんだけど。

「レディ達以外は払えよ!!」
「なぬっ!!」

 余計な詮索に持って行かれていた思考は、正気に返ったサンジの一喝で引き戻された。
 レディ達、というその括りには、あたしも入っているらしい。こちらを見てニイッと笑って見せたサンジは、大したことないと言わんばかりに片手を振る。
 なんだか悪い気がするけど、ここで敢えて異を唱えることもないか。大人しくお言葉に甘えておこう。ありがとうの代わりに友好的な笑顔を浮かべてみれば、穏やかな微笑がでれりと崩れた。
 ……フェミニスト気味の知り合いは何人かいるけど、ここまで徹底的に分かり易く、女性に激甘なひとは初めてだ。

「魔女かてめェは……!!」
「あ、お茶がうめェ」
「あなた達もじゅうぶん気を付けるのよ」

 呆れるゾロと呑気にお茶を啜るルフィに、ナミは悪戯にぷぷっと笑う。
 幸か不幸かその笑顔を目撃していないサンジは、ご機嫌な足取りであたしたちのテーブルを後にした。丁度入店してきた女性二人組が、そんな彼を見止めてひらひらと手を振る。

「あ、サンジさん、お久しぶり」
「ああよく来たね、ロクサーヌ!」
「あの軟派ヤロー。フルーツだせよ」
「……ところでてめェは何をくつろいでるんだ、雑用っ!!!!」
「ぶっ!」

 ウソップの呟きが聞こえた訳ではないと思うけど、女性達に挨拶を済ませたサンジがとんぼ返りで戻ってきた。ルフィの頭のてっぺんに炸裂した見事な踵落とし。湯呑みのお茶を顔面にぶちまけたルフィは、そのままサンジに引き摺られていった。

「店に客が入ったらおしぼりだ」
「御意」
「ルフィ、御意なんて単語使うんだねえ……」
「お前は突っ込みどころが違うだろ……」

 ぽつりと素直な感想を漏らせば、再びゾロから突っ込みが入った。

(……さて、それにしても)

 本当に雑用として働いているところを目の当たりにすると、急ぎじゃないとは言いつつも、あまり悠長に構えてもいられない。他の三人がどうするかも見つつ、ローグタウン方面に行く良い船がないか、チェック位はしておかないといけないな。
 そんな事を考えていると、ここ十数日の記憶が、さあっと脳裏に蘇る。割と良い船に当たったな、最初に浮かんだ感想は外れず、久しぶりの海賊船は思った以上に過ごしやすかった。
 寂しい気持ちが無いわけじゃないけど、これもいつもの事だと割り切るしかない。何かがいつもと違うという事をひしひしと感じているのは、紛れも無くあたし自身なんだけど。

 ――ひとまず情報収集しつつ様子見。そう決めた二日後、思わぬ大事件が訪れる。




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