Le ciel croche | ナノ

「へえ……すげえな」

 斜め後ろから聞こえた溜息交じりの小声に、作業の手を止めて振り返る。振り返ったあたしを見てぴくりと肩を揺らしたウソップは、じりりと僅かに後退すると、両手を挙げて慌てたように口を開いた。

「わっ、悪ィ、邪魔するつもりじゃなかったんだけどよ……」
「ううん、大丈夫。こういうの好きなの?」
「おお、手仕事は全般的に興味あるな」

 メリー号に乗せてもらうことになって、二日目。波も穏やかな昼下がり。
 作業が途中だったトランペットの事を思い出して、キッチンの机を借りて彫り込みをしていたら、通りすがりのウソップの目に留まったらしい。興味津々の彼はあたしの向かいに腰を下ろすと、目を爛々と輝かせつつ笑った。

「いやぁしかし、そういう細工、あると無いとじゃ楽器の音も変わってきたりしてな!」
「うん、腕のある本職の細工師さんが手を入れた楽器は、やっぱり違うって言うよ」
「やっぱそうだよな〜、まず気分からして違うよな。これも良い音出そうだしよ」
「ふふ、ありがとう。あたしのはちょっとした飾りだけどね」
「いやいやいや〜」

 机に乗せた細工済みのバイオリンを眺めつつ、感嘆の声を漏らすウソップ。その視線はバイオリンからトランペットに移って、あたしの手元に移って、あたしに戻ってくる。

「なあ、なんか演奏してみてくれよ」
「うーん、ごめん、これ全部、旅費にするための商品だから」
「そうなのか!?」
「うん。バイオリンはそもそも殆ど弾けないし」
「へェ……まァでもそうか、本職は採掘屋なんだよな」

 がっかりした様子は見せず、それ以上深追いもせず、バイオリンを眺めるのに戻ったその反応は正直有難い。居心地が悪い訳ではない穏やかな沈黙の中、彫金用の鏨(タガネ)を再び手に取る。
 模様を彫る位置を見定めて、ゆっくりと触れる。未だ見ぬ軌跡を思い描いて、力を籠めるその直前、ばたりと盛大な音を立てて甲板への扉が開いた。

「もう! 信っじらんない!」

 足を踏み鳴らして入ってきたのはナミ。怒りと呆れが混ざった不満の声をあげつつ、どさりとベンチに腰を下ろした。彫り始める前でよかった。なにかの始まりの予感がしたから、鏨を机に置いて彼女の方に向き直る。

「おう、どうしたナミ」
「どうしたもこうしたもないわ! ルフィったら、ちょっと眼を離した隙に、この船の食糧、ぜーんぶ食べつくしちゃったのよ!」
「はァ!!!?」
「……ぜんぶ?」
「そう、全部! カヤが沢山積んでくれたのに、ぜんぶ!!」
「なんだとォォォ!?」

 がたりと立ち上がったウソップは顔面蒼白。この船の周り、東西南北どこを見ても青しか広がっていないこの状況で、食料が底を尽きたなんてそれはまずい。あたしも多少は持ってるけど、五人分となると何日持つか。
 でも、その話を持ってきたナミは、呆れはすれど、焦ってはいないように見える。昨日の夜からお世話になってる女部屋あたりに、個別の蓄えでもあるのかな。そんな事を考えていたら、甲板への扉が再び開いた。

「ナミ〜〜〜、悪かったって。メシ分けてくれよォ」
「あんだけ食っといてよく言うぜ……」

 ルフィとゾロがやってきて、ダイニングに全員勢揃い。思い思いに腰を下ろした二人とウソップとを順々に見て、ナミが盛大に溜息を吐く。

「あのね。私はあんた達と手を組むとは言ったけど、一緒に餓死する気は更々無いわ。今回のこれは、完っ全にルフィの自業自得じゃない! 次の島に着くまで、魚釣りでもしてなさい!」
「肉……」
「チッ……酒はまだあんのか……?」
「つ、次の島って、いつ着くんだ……?」
「この辺りはまだ大陸の近くだから、一日か二日すれば小さな島くらいあるはずよ」

 口では厳しい事を言いつつ、完全に見捨てているわけではなさそうだ。彼女と三人の間にあるのは、微妙なバランスの上に成り立っている協力関係。意図しているのかいないのか、そこまでは分からないけれど。
 ナミの口からまた一つ溜息が零れる。でも、黙って成り行きを見守っていたあたしを気遣ってか、彼女はくるりとこちらを向くと、一転して爽やかな笑顔を浮かべた。

「あ、ニーナ、あんたは気にしなくていいからね。私の蓄え分で、女二人なら余裕で数日持つから」
「ふふ、ありがとう」
「「ひでェ!!!!」」
「しるか! 自分らで何とかしろ!」
「ちぇー……しょーがねえなァ」

 ぶーぶーと口を尖らせつつも、主犯のルフィは観念したらしい。キッチンの隅に立て掛けてあった釣竿を手に、釣りの準備をし始めている。
 なんとなく観察していたお陰で、あたしの備蓄の事を告げるタイミングを逃してしまった。話がまとまりつつある今、ヘタに言うより、本当の緊急時まで取っておいた方がいいかなあ。
 そんな事を考えていたら、ルフィに倣って釣竿を手にしたウソップが、ふと思いついたかのように口を開く。

「……っつーか、次の島に着いたところで、おれら、食料調達する金すらそんなに無ェんじゃ……」
「………」
「んー、まー、何とかなるだろ!」
「ほんっと無計画ね……」

 ゾロの沈黙はおそらく肯定。気楽に笑うルフィと呆れるナミを見て、ウソップは顔色を悪くする一方。
 ……なにかしら口を挟むなら、今かな。過去に乗せてもらった船での事を思い出しつつ、彼らに向かって提案をひとつ。

「あ、じゃあさ。これ売って食費にしようよ」
「「えっ!?」」

 口を開いたあたしに、全員の注目が一挙に集まる。机上のバイオリンを指し示せば、両側からナミとウソップが見事に声を揃えた。ぶんぶんと両手を振る動作まで同様にして、いやいやいやいやと大反対。

「流石に勿体無ェだろそれ!」
「そうよ、何もあんたがそこまでする事ないのよ!?」
「うーん、でも、船乗せて貰ってるし、今まで毎回そうしてたし。どっちにしろ、これは元々売り物用だから。ほら、ギブアンドテイクって事で」
「お前の船壊したのも、食糧食い尽くしたのもルフィだけどな……」

 詰め寄る二人にさらりと答えれば、ゾロが尤もな意見を零した。それはそうなんだけど、船の事は結果的にプラスだった訳だし。与えすぎず、貰いすぎず。一人旅をしてきた中で得た、安全の秘訣のひとつ。天秤に掛けてみればプラマイゼロ。
 でも、あたしに言わせて貰えばそうでも、彼らから見て“貰いすぎ”になるなら意味がない。この場合の交渉相手は、バイオリンに興味津々といった様子の船長だ。

「うおっ何だこれすげェ! いいのかニーナ!」
「うん。ローグタウンはまだ先だもん。そこまでずっと、ナミの蓄えに頼りっぱなしって訳にもいかないでしょ。乾パンよりは柔らかいパンが食べたいしね」

 つり合いが取れているように見せる、追加のひと押し。あたしの備蓄食糧の存在を明かしていない今、これは彼らから見ても当然のこと。
 冗談めかして一言付け加えてみれば、各々に浮かぶのは納得の表情。それ以上の問答は無いままに、船は順調に次の島へと進んでいった。
 *


「よし! 頼んだぞニーナ!!」
「ホント悪ィな、魚くらいは釣っとくからよ!」
「うん。よろしくね」

 ナミの予想は見事に当たり、メリー号はあれから一日半で小さな島へと辿り着いた。見張り台から双眼鏡で見た感じ、密集した街並みが確認できたから、経験上まあなんとかなると思う。楽器屋さんの一つでもあれば上々だ。
 食糧はなんだかんだと多少は分け合っていたから、男三人もそこまでげっそりはしていない。とはいえ、あたしを見送るルフィ達の、釣竿を握りしめる拳には、かなり力が入っているみたいだけど。
 細工を施した楽器たちは、木箱に分けて二つ分。持ちやすいように重ねていたら、後ろからナミの声が降ってきた。

「ゾロ、あんた運ぶの手伝ってあげなさいよ」
「あ? なんでおれが」
「うん? 一人で大丈夫だよ?」
「ニーナ……おめェ……意外と力あんな……」

 接岸作業を終えてひと眠りしようとしていたゾロは、突然の指名に不機嫌顔。無理に付いて来てもらう必要もないから、木箱二箱抱えてナミに答えれば、ウソップがぼそりと感嘆の声をあげた。
 それでも彼女は、木箱のせいで見えなかったけど、たぶん爽やかな笑顔を浮かべて、さらりと決定打を投下した。

「行きは良くても、帰りは食料買って来るでしょ。お酒とかお酒とかで重くなるじゃない」
「……うし、行くか」

 意外と近くで聞こえた言葉の直後、ぱっと視界が開ける。両手で抱えていた木箱は一瞬で姿を消して、ゾロの左肩の上に乗っていた。
 そのまま器用にすたすたと梯子を下りていく背中をぽかんと見送っていたら、ナミがくすくすと笑いを漏らす。振り返れば、悪戯な笑みを浮かべた彼女が、ひらひらと片手を振っていた。

(なるほど、お酒も買ってきて、って事ね……)

 そういう言い回しは嫌いじゃない。ナミに軽く手を振り返して、あたしもゾロを追いかけた。

 置いていく荷物の心配をしなくて良いくらいには、この船の事は信用している。裏を返せば、最低限手元に無いと困るものは、全部持ち歩くようにしている。
 ──だから、気にもしなかったんだ。船にひとつだけ置いてきた、売り物じゃない、あたしの『楽器』の事なんて。




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