Le ciel croche | ナノ

 ──足音がきこえる。

(西から七人……東から八人……南は十人、ってとこかな……)

 狭い路地に反響する小刻みなそれが、頭の中で音符になっては消えていく。飛んでは跳ねる3連符や16分音符は、どたばたと忙しなく駆けまわる“彼ら”が、まだそう近くには居ない事を意味している。統率がとれているとは言い難いそれは、楽譜に書き起こすのは難しそうだ。
 スタッカートの効いたそれらを、自分の耳を頼りに分析してみる。小娘一人に対する大袈裟な追手は、総計ざっと三十人弱。今のところ、北側には回り込まれていないらしい。これなら、あたしの『最終手段』は、今回も使うまでもなさそうだ。
 とはいえ、前に使った記憶は遙か彼方。自分の意思で隠しているのに、どこか物足りなく思ってしまうあたり、だいぶ余裕が出てきたということか。どちらにせよ、使うつもりは毛頭ないけれど。

 音符の発生源からはまだまだ距離があるのを確かめてから、胸元に手をやりつつ腰に下げてるポーチを開いて本日の戦利品を確認。今回の場所は今まででも結構大変だったほうの部類に入るけど、それだけの労力を払った甲斐は十分すぎるほどあった。
 あたしの新たな「仲間」とも言うべき、一つの宝石と一つの原石。雫型をしたネックレスは、深海を思わせるバミューダ・ブルー。小ぶりながらも重量感のある鉱物は、一見なんの変哲もない黒い石。形は違えど、二つとも、大事な大事な『海の涙(ラクリマ・マレ)』。自然と緩む口角はそのままに、二つの“新入り”を交互に見下ろす。

(“あの”先々代ですら、辿り着けなかったところ、か……)

 ──見る人が見れば、どちらもその価値はかなり高い。
 雫型の方はおそらく、宝石商に持ってけば少なくとも50万ベリーはくだらない。これの過去の持ち主を証明できれば、値段は百倍どころじゃない跳ね上がり方をするだろうけど。
 原石の方は、ちょっと知識のある人が見たら、文字通りダイヤの原石だろう。中に秘められた輝きは、軽く200カラットは見込めそう。歴史に残るレベルのサイズを持つそれが表舞台に出たら、ひと騒動起こることは間違いない。
 とはいえ、あたし目線の“本来の用途”から言わせて貰えば、二つともそんな数値化できる価値は飛び越えている。だけど、そうやって一蹴するには、『輝く洞窟』ニテンス・カーヴは有名すぎるほど有名だった。

「……お陰でこれ、だもんねぇ」

 洞窟を出てすぐに鉢合わせした、でっぷりしたお腹が目立つギラギラした三流海賊を思い出して溜息をひとつ。タイミングが悪かったと言えばそれまでだけど、いかにも探索してきました風な格好で出てきちゃったのも、思わずダッシュで逃げちゃったのも、ツメが甘かったなっていう反省点。それにしても、あの形相はホントに凄かった。見つかったら容赦なく身ぐるみ剥がされるのは間違いない。
 けど、あたしの“採掘屋”としての、それに何より“エルフィン”としてのプライドに賭けても、ラクリマ・マレの本当の価値も分からないオジサン達に、観賞用コレクションとして大人しく渡してあげる気なんか更々無い。雫形の方は二十年も、原石の方に至っては、百年だか千年だか分からないくらいずっと、その主となるエルフィンを──あたしを、待っててくれたんだから。
 ふたつの石を改めてじっと見つめてみる。最大限に輝くように計算されて磨かれた雫形の方だけでなく、内部に閉じ込めたラクリマ・マレを僅かな隙間から覗かせるその原石までも、陽の光の届かない薄暗い路地の中、確かにぱちりとひとつ瞬きを返してくれた。

(うん、ありがとう。これからよろしくね)

 不思議な輝きを見送りながら、しっかりとポーチを閉める。ネックレスの方は走るときに邪魔にならないように、首元のストールの下に仕舞いこんだ。さて、そろそろ休憩終了。
 そう、あたしは未だおっかないオジサン達と、本気の鬼ごっこ真っ最中。だいぶ距離は取れたし次の手も用意しているとはいえ、今回はただでさえ“エルフィン”の足跡が色濃く残っている場所。相手がそう強くなさそうな三流海賊でも気は抜けない。島のどこかに、少々頭の切れる海兵か役人でも居たら割と厄介だし。油断は禁物。
 物音を立てないように細心の注意を払いつつ、それなりのスピードで裏路地を駆ける。頭にぱっと描いた地図が確かなら、次の十字路を左に行けば、メインストリートのすぐ脇の細い路地に入れるはずだ。
 程なく現れた十字の分かれ道で足を止める。耳を澄ましてみれば、先ほど聞き取った複数人の足音が奏でる歪なメロディーは、メゾ・フォルテからピアニッシッシモへと変化していた。

(よし、だいぶ離れたみたい)

 それでも、念には念を入れて用意していた次の手を取るのは忘れない。動きやすさ重視で選んだジャケットを一枚脱ぐ。中に隠していたライトグリーンのチュニックが、柔らかな波を立ててふわりと広がった。ジーンズはハンパ丈になるようにちょっと折り返して、ブーツを脱ぎ捨てグラディエーターのサンダルに履き替える。
 だいぶ伸びてきた髪を纏めるバンダナを取って、洞窟潜入前に買っておいたつばの広い麦わら帽子を被れば、あっという間にビーチ目当てのリゾート客スタイルの完成。ホントは、胸の高さまで零れ落ちてきたウエーブヘアは、そのままにしておいた方がそれっぽい。けど、何かあって走った時に邪魔になりそうだから、ちょっと目深に被った帽子の中にぱぱっと纏めた。

「………」

 十字路から顔を半分覗かせて頃合を見計らう。行きかう人達はみんなキラキラ輝かんばかりに笑っていて、いかにもバカンスしに来ましたって感じ。
 ひとつ深呼吸して、気配を消しつつさり気なくメインストリートの雑踏に紛れる。上手く人波に乗れた。それに逆らうこと無く、徐々に沿岸部へと歩みを進める。よし、これなら大丈夫そう。
 軽く一息ついたその瞬間、有り得ない怒声があたしの背後から響いた。
「居たぞっ! そこの麦わら帽だァ!!」
「!」
「おらあああああ!!!!」
「待てェェェェェ!!!!」
(……え、うそ、)

 バレる要素なんて残してないつもりなのに、まさかのタイミングでピンポイントな指定。もしかして人違いだったりして、と淡い期待を抱いてみたものの、再び背後からどかどかと遠慮ないフォルティッシモで響く大男たちの足音は、確実にこっちに向かってきている。

 ──しらばっくれるか、逃げるか。

 天秤にかけたのは一瞬で、振り向く間も惜しんでとんぼ返りの猛ダッシュ。こうなったら、ひたすら走って入り江まで抜ける手でいくしかしょうがない。最初はそのつもりだったから、ルートはちゃんと頭に入ってる。風の抵抗を受ける帽子が邪魔だったけど、顔を隠すのには丁度良いもんだから、仕方なくつばを抑えて走る。
 狭い路地だから全力は出せてなかったと思うけど、程なくひとつを除いた足音はだいぶ遠のいた。アレグロ・ヴィヴァーチェのどこか楽しげなリズムを刻む最後の一人。何者だろうと顔だけで軽く振り返ると、あたしの三歩後ろを走るのは、麦わら帽子の男だった。見たところ、歳はあたしと同じくらい。

(もしかしなくても、麦わら帽、って、こっちか……)

 ふっと頭の深いところを過ぎった既視感に内心首を捻りつつ、自分の犯したミスを悟って溜息をひとつ。正直、あのオジサン海賊といい今回といい、運が悪かったんだろうけど、しくじったな……。
 彼にしてみれば、前を走るあたしは怪しいことこの上ないはず。殺気は感じないけれど、もし戦り合ったとして勝てそうかと言ったら微妙。なによりそんな時間は無いし、路地じゃ場所が悪すぎる。

 さて、どうする──?

「ん、なんだ、お前も食い逃げかー?」

 視線を受けて漸くあたしに気付いたかのように、彼は呑気な声をあげた。食い逃げであんなに殺気立った追手がつくなんて、一体どれだけ食べたんだろう。どこかで見たような光景に思わず苦笑が漏れる。なんだかちょっと気が抜けた。

「……ん、似たようなモノかな」

 適当に相槌をうちつつ、一瞬合った目を自然に逸らしてざっと観察してみる。彼のあたしに対する敵意と戦意はやっぱり皆無。あはは、と乾いた笑い声を立てて前を向いたまま答えてみれば、にしし、と悪戯な笑いが返って来た。
 その後は流石に彼も走る方に集中し始めたらしい。メトロノームが刻むような規則的なテンポで足音は続いた。

(同じ方向か……)

 着かず離れずの距離はそのままに、気付けば街の外れまで進んでいた。ここまで来れば、あれだけ入り組んでいた路地も素直なもの。分かれ道が無くなり、入り江まではほぼ一直線。その直線を抜けたらすぐ、舟が停めてあるところに出る。街から表通りを通って来るとちょっと回り道のはずだし、船出に掛かる時間を考えても、追手はたぶん大丈夫、かな。
 またひとつ溜息が出そうになったけど、後ろから変わらず続く粒の揃ったリズムにすっと息を飲む。ここまで一緒って事は、同じ入り江に船でもあるんだろう。いくら彼に敵意は無いとは言え、血の気の多い仲間が居ないとも限らない。

(何事も無きゃいいけど……)

 薄暗さに慣れた瞳に徐々に光が入り始める。そろそろだ、と気を引き締めると、間もなく視界が明るく開けた。
 足は止めずにさっと辺りを見渡せば、今のところ追手の姿は無い。よし、セーフ。あとは舟に乗り込んでさっさと出航するだけ。目だけで素早く視線を走らせると、まず目に入ったのは羊の船首を付けた中型の船。
 ──あたしの舟はというと、その陰に隠れるようにして、真っ二つに折れ曲がって、船体が半ば沈みかけていた。

「……え、なにあれ……」
「ん? アレもしかしてお前の舟か?」
「え、うん、そうだけど……」
「まじか! 良かったー! 会えた! っつーか、悪い!」
「え?」
「あの舟の持ち主ってことは、お前──!」

 麦わらの彼が何か言いかけてたけど、それより先にあたしの耳がキャッチしたのは、遠くに小さく聞こえる複数の足音。徐々にだけど確実にクレッシェンドが掛かっているそれは、たぶんまだ諦めてないらしい追手のもの。あたしに対するものなのか、彼に対するものなのかは、今のところは分からない。

「お、帰って来たぞ」
「げ、なんであいつ追われてるんだよ!」
「はぁ!? 面倒事はごめんよ!?」
「だっはっは、悪ィー!」

 その微かな足音をかき消すように、前方の羊船から複数の声が響く。その船に掲げられたジョリーロジャーと同じ帽子を被った彼が、半歩後ろで手を振って答えている。海賊、か。
 彼の仲間が後ろを指差しつつぎゃあぎゃあと叫んでいるのを見るに、船からはもう追手が視認できるらしい。……正直それは、あまりよろしくない。
 何度も確認した地形だけど、もう一度ざっと辺りを見回す。やっぱり、逃げられそうな所も隠れてやり過ごせそうな所も無い。能力使って逃げるのと、普通に戦うのと、どっちがマシだろう。騒ぎ起こすのも目立つのも嫌だけど、捕まるよりは戦って倒して逃げるほうが、まだ“普通”に見えるか──。

 多人数相手にやりあう覚悟を決めて、駆け足に急ブレーキをかける。と、その瞬間、ふいに腰に走った硬い感触。
 反射的に麦わらの彼を振り返ると、彼はニイッと口角を持ち上げて、あたしに向かって笑った。

「飛ぶぞ! 落ちるなよ!」
「え?」

 ──直後、感じたのは力強い浮遊感。

 時間にレンティッシモが掛かったみたいな感覚に、顔をゆるゆると前に向ける。辿った視線の先では、彼の右手が有り得ない長さまで伸びて、羊船の縁を掴んでいた。
 浮遊感の正体は、その伸びた右手が縮まっていくのを利用した大ジャンプ。つい一瞬前まで、頭をフル回転させて目立たず逃げる算段を立ててたっていうのに、今は(あぁ、能力者か……)なんて、悠長な事を考えている。
 仮にも“捕まって”いるというのに、なぜか驚くほど危機感を覚えない。そんな自分に呆れ半分、安堵半分。まあでも、勘が頼りの一人旅で、嫌な予感がしないのは良いことだ。

(とりあえず、事態は悪化はしてない、ってとこかな……)

 緩やかに流れていた瞬間は、軽い着地音で通常に戻った。足元を見れば木の板。後ろを振り返れば、見覚えの無い追手のオジサン達がカンカンに怒っている。コック帽を被った人も居るから、やっぱり完全にこっちの『麦わら』の追手だったみたいだ。
 麦わら、で思い出して無意識に頭に手をやる。なんだか軽くなった気はしてたんだけど、追手と船との間でふわふわと海に向かうそれを見て、落としていたことに漸く気付いた。
 眺めるともなしに落下するそれを見ていたら、そこに向かう良く伸びる右手。あっという間に元の長さに戻ったそれは、しっかりと麦わら帽子を握っていた。ぱすん、という軽い音を立てて、帽子は再びあたしの頭の上に戻る。

「あ、ありがとう」
「おう!」

 反射的に返しただけのお礼の言葉には勿体無いくらいの、満面の笑顔付き。その笑顔に、また微かなデジャヴを感じた。

 そんな、局所的に和やかな雰囲気になっていたことで忘れていた現実──あたしが、今まさに出港した船に、文字通り飛び入りで乗ってしまったこと──を思い出させたのは、間近で響いた、ガツン、という痛そうな音だった。




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