musica
004
来た。店内に客の姿がないことを確認して、店の掃除のために出てきたという理由のために箒を持ち出す。素知らぬ顔で扉をくぐった。一瞬、身体を縮めた彼は、それでもその場から動かない。視線を向けずに彼の動きを追えば、店内へ視線を向けているものの、明らかにこちらを意識していることに気付いた。逃げられるかもしれない。試しにほんの少し近づいてみる。しかし、予想に反して、少年は地面に縫い付けられたように棒立ちとなっていた。
それに気をよくした小淵は、にじり寄るように少しずつ彼へ近づいた。あくまでも、掃除のためであるという体裁をとりながら。
少年まで、あと三十センチほど。これ以上進めば、相手のパーソナリティスペースに入ることになる。一旦、忙しなく動いていた手を止めた。
「この前は、ごめん」
少年が弾かれたようにこちらを見た。もう、逃げないかな。探りつつ、彼へ視線を向ける。動揺しています、と顔に書いてあるような、情けない表情。八の字となった眉が、なんだかかわいらしくて、噴出しそうになった。
それを見て、さらに垂れ下がる眉。それでも、何かに気付いたらしい彼は、慌てたようにポケットから白い紙を取り出した。折りたたまれたそれを広げて、小淵へ突きつける。
『この間は、貴方の顔を見てあんな失礼な態度をとってしまいすみませんでした。憧れていた方だったので、動揺してしまったんです』
すんなり読める、綺麗に整えられた文字。達筆すぎて読めないなんてことはなく、止め跳ねをしっかり書き、適切な大きさの文字がすっきりした形で並べられている。
「憧れ…?」
そう言えば、思いっきり首を振る少年。あまりに必死な姿に、どこか違和感を覚える。
小淵のそんな表情を見たからか、彼は別のポケットからスケッチブックとペンを取り出し、さらさらと何かを書きつけた。
『貴方のバンドが作られた曲を知ってます。そのファンなんです』
再び見せられた文字に納得する。使い込まれたスケッチブックとペン、そして並べられた文字。直接書かれたバンドの話よりも、その事実の方がよほど衝撃的だった。
「…君、声が」
『先に言うのを忘れてました。僕は、声が出ません。すみませんが、筆談になります』
単純な、ただの事実だけが記された一枚の白いページ。それを提示する彼は、どこか淋しげに微笑んでいた。