musica
003
『というよりね』悶々と彼が逃げ出す理由を考えていた小淵の耳を、友人の真面目な声音が叩く。
『僕は、なんで小淵がそんなことされても関わろうするのかなって方が気になるな』
はぁ、と情けない声が口から洩れる。友人が言いたいことは、わかる。小淵は、それなりに人間関係をうまく築いてきたタイプだ。顔立ちも、モデルとまではいかないが、それなりに整ってもいる。そうなれば、彼の周りに人が集まるのは当然で、来る者拒まず去る者追わずのスタイルが自然と出来上がっていた。
普通の人間なら、あんな態度とられて苛立たないはずがない。それを指摘され、はたと気づく。
確かに彼女の売上貢献は、小淵に課された命題だ。しかし、それだけで避け続ける相手を追うだろうか。客なら、他にもいるのだ。
ふと、フラッシュバックする、泣きそうな顔。大きくもない目に薄く水の膜が張り、こぼれそうで落ちずに消える。きつく結ばれた唇が歪んで、ただある場所を見詰めている。そんな表情。
すとん、と何かが落ちてきた。つっかえがとれたような、霧が晴れたような感覚。
「…多分さ」
『うん』
「あの子が笑うのを見てみたいんだよ」
泣きそうな顔と何かを切望する顔。そのどちらかしか見たことがない、不思議な存在。だからこそ、惹かれたのだ。どうして泣いているんだろう。どうしていつも見ているんだろう。どうして君はそこに立っているんだ。そんな気持が溢れてくる。それと同時に、きっと笑ったらかわいいんじゃないか、そんな期待があるのだ。だから、他の表情を見てみたいと思う。
『そっか…』
自身でもおかしなほど簡単に出た結論。嫌われているかもしれないのに、逃げられたことで余計に火がついたのだろうか。
『優しく話しかけてみたら? 毎日来ることは来るんだろ。悟志のことが怖いなら、その恐怖を取り除いてやればいいんだからさ』
「おう。そうする」
愚痴と相談に付き合ってくれた遠方の友人に、お礼を告げれば、くすくすと笑われる。いつでも頼ってくれていいからね、そんな優しい言葉をかけられ、電話は切れた。
「よし」
端末をポケットに押し込みながら、声を出す。気合を入れて、クローゼットに押し込んだ服に手を出した。