「離したら直ぐにでも逃げるだろう?」


ちょっと誰かこの状況を説明して欲しい。いや駄目だ、居るかも来るかも分からない誰かを頼るくらいなら私自身で状況を整理すべきだ。うん、大丈夫。私なら出来る。近界民を相手にするよりはずっとマシなはずなんだ。現実逃避をするにはまだ早い。一度深呼吸をしてから目の前の人物へと向き合おうとすれば

「そんなに緊張する程の事じゃ無いさ。」

と、笑みを含んだ低い声と筋張った指先が耳元を撫ぜた。そう、今、私は事もあろうに東春秋の膝の上へと乗せられながら保冷剤で耳朶を冷やされている。正直膝に乗る必要性は感じないんだけど、少しでも身を引こうものなら背丈に見合った大きな掌でぐい、と腰を引かれて仕舞うので諸々諦めて心を無にする事に全力を注いでいるところだ。さて、どうしてこんな状況になっているかと言うと、数十分前、運悪く廊下ですれ違った東さんに腕をむんずと掴まれた所から始まる。
一応、向かい側から東さんが歩いて来ている事は分かっていた。だからと言って別段用事も話題も無いし、とは言え気付いてしまった以上無言で擦れ違う事も出来ず、「お疲れ様です。」と軽く会釈だけして通り過ぎようと思ってなるべく廊下の端へと身体を寄せ、さあ今まさに擦れ違うぞというタイミングで腕を掴まれた。私としてはそのまま前進する気満々だったため、突然後方に向かって引き寄せられた事によって数歩たたらを踏みながら東さんの方へ振り向いた。多分だけど、私の眉間には分かり易く皺が溜まっていた事だろう。

誤解の無い様に言っておくけど、私は東さんに対して積りに積もった苦手意識はあるけれど、別に嫌いという訳じゃない。戦場では文句無しに背中を預けられる心強い同期だし、多くの後輩達から慕われている事に関して理解も納得もしているし、彼の人望があってこそ師事を受けたがる人間が後を絶たないという事も分かってる。何なら、東さんに憧れて狙撃手というポジションを選ぶ子も居るくらいだ。それらの事実を素直に受け入れられる程度には東さんのことを嫌ってはいない。と言うより、ある種認めていると言っても過言ではない。でも、それはそれこれはこれ。と言うやつだ。大の男が廊下で女性の腕を掴んで良い理由にはならない。ほらちょっと落ち着いて周りを見て欲しい。道行くC級隊員がこちらをちらちらと見てはひそひそと声を潜めて何かを話している姿が見える。一応、掴まれた腕をゆらゆらと揺すってみたけど離してくれる気は無いみたいだ。逃がしてくれる気が無いのなら、諦めた方が早い。はぁ、と息を吐き出してから随分と上の方にある顔を見上げると、私が話をする体勢に入った事に気が付いた東さんが僅かに表情を緩めた。


「あの、東さん?」
「嗚呼、急に悪いな。」
「そう思うなら、手を離してくれると嬉しいです。」
「離したら直ぐにでも逃げるだろう?」
「…否定はしないですけど。」


ほらな、と言わんばかりに可笑しそうに笑う東さんは何故だか少し上機嫌だ。腹の奥底がぐるぐると不愉快に回る。私は東さんの行動にこんなにも困惑しているのに、何でそんなにも楽しそうに笑うのか。いや、楽しそうなのは何よりだけども。他人の楽しそうな表情を恨めしく思うほど性格の悪い人間には、成りたくない。成りたくないのに、少しだけ面白くないと思ってしまうのは、東さんに対してどうしても素直になりきれない自分への罪悪感のせいなのか。不機嫌を隠しきれない唇をつんと尖らせていると、やわやわと頭を撫でられた。少しだけ伸びてきた髪の毛が、揺れる度に頬を擽ってきてなんかもう、色々と痒い。

東さんの眠たげな瞳が、私の頭上からゆっくりと下へ流れていく。…や、改まってそう見られると何となく恥ずかしいと言うか、謎のいたたまれなさを感じると言うか。


「うん、名前はあれだな、あー……質素?」
「もしかして地味って言われてます?」
「いや、そんなつもりはなかったんだが、そう聞こえたなら謝るよ。」
「いえ、まあ、別に…、加古ちゃんみたいにきらびやかで無いのは確かなので。」
「アクセサリーに興味は?」
「んー…、無い訳じゃないですけど、身に付けてなくちゃ困るって事も無いですし。人並みですかね。」
「うーん、そうか。いやな、今日は名前にプレゼントと思ってこんな物を用意してみたんだが…。」


ごそり、ポケットから取り出したのは未開封滅菌済みなピアッサー二個。正直に言ってしまうと、アクセサリーを渡すにしたってもっと他にあっただろうと言いたい。しかも、ただのピアスでは無くピアッサーを差し出して来ているということは、私の耳朶にホールが開いていない事を承知の上で渡してきているという事だ。初めて身に付けるアクセサリーとしては大分ハードルが高い気がしてならない。別にこの身体に穴が空いたところで構いはしないんだけど、でもさ、こういう物には勢いとタイミングが必要だと思うんだよね。少なくとも自分の意思が必要で、他人に強要されるものでは無い。けど、東さんから差し出されたそれを直ぐに突っぱねない理由もある。それは、パッケージに載っているファーストピアスの色が千佳ちゃんの瞳の色そのものだからだ。綺麗なパープルサファイアの石が、やけに輝いて見える。これを常に身に付けていれば、千佳ちゃんが言ってくれるような格好良い私で居続けることが出来るだろうか。そんな気持ちでこれを身に付けてしまって、千佳ちゃんに気持ち悪いと思われないだろうか。いやでも、言わなければ見当も付かないだろうし、一種の願掛けと思えば…──思考の渦から私を引き上げたのは、ずっと掴んだまま離してはくれない東さんの腕だった。にこやかな笑顔を浮かべた東さんが

「冷やした方が痛くないって聞くからな、うちの隊室においで。」

そう言って有無を言わさずに腕を引っ張られた。トリオン体ならまだしも、生身では力で適うはずもなく…。空ける方向にぐらついてはいるものの、確かな決心がつかないままずるずると引き摺られて、あれよあれよと東隊の作戦室に連れ去られ、逃げるかどうかを迷っている間に保冷剤を手にした東さんに捕まり、果てには胡座をかいている脚の上に乗せられて冒頭に至る。どう足掻いても逃がす気は無いらしい。とは言え東さんのことだから、多分本気で嫌がれば逃がしてくれるんだろうけど、まあでも…うーん……千佳ちゃん……。うんうんと悩むのに忙し過ぎて、ここぞとばかりに甘やかすように撫でてくる掌に気を配る事も出来なかった。

東さんが満足するまで耳朶を冷やし終えれば、丁寧にパッケージを開封していく東さん。……東春秋に手ずからピアスを開けて貰えると射撃精度が爆上がりするとか、出世するとか、滋養強壮に良いとかってジンクス誰か知らないかなあ、今から作るんでも全然構わないんだけど。

私に一声掛けて、ピアッサーに耳朶を固定する。耳朶を触られている感覚がほとんど無いから、冷やす事には成功してるんだろうなあ。と、身を任せることにした私は呑気に考えていた。


「それじゃあ、開けるぞ。痛みがない訳では無いだろうけど、手を離すまでは動かない様に。」
「はい、どうぞ。」
「いくぞ、」


さん、にー、いち。減っていく数に身構えていると、ばちん!と耳元で大きな音がした。待って、そんな音がするなんて聞いてない。痛いってこと以外情報が無かったよ?驚いて飛び上がりそうになるのをどうにか我慢して身を固くしていると、おそらくホールが開いたのであろう場所からじわじわと熱くなってくる。痛いと言うよりは、じんじんする感じだ。痛みの度合いとしては思っていたよりも大したことが無くて良かった。ピアッサーが耳から離れ、ひとつ息を吐いていると、東さんがピアスのキャッチ部分を緩めてくれた。あ、圧迫されてる感じが無くなったお陰か、少しだけじんじんしているのが軽減したかも知れない。ピアス、開け慣れてるのかな。でも東さんはピアス開けてないし…待って、もしかしたらだけど、本当にジンクスが存在してるかもしれない。皆お姉さんの知らない内にこぞってピアス開けて貰ってるのかも知れない。今度賢ちゃんに聞いてみよう。

同じ手順で反対側の耳朶も冷やしてから、今再びのばちんに怯えてぎゅううぅ〜ッと自分の服を握り身体を強ばらせる。大きい音、苦手なんだよねえ。何でって聞かれても困るけど、苦手なものは苦手なのだ。そんな私の顔を、少し困った様子で見下ろしつつも確りと耳朶をセットしていくあたり優しいんだか何なんだか分からなくなってくる。音が鳴ると分かっているのだから、初見よりも大丈夫なはず。そう自分に言い聞かせながら、また3から順に減っていく数に耳を傾けていると、不意に後頭部を引き寄せられて額にちゅう、と軽く唇が触れたのと同時に耳元では、先程よりもどこか遠くで大きな音が鳴った気がした。それは、間違いなく私の耳元で鳴っていたのだと、じんじんと熱が広がる耳朶が証明してくれている。

なんて事ない顔をした東さんが、またキャッチを緩めてピアスホール貫通の義は終了したので、ゆっくりと身体を離す。今度は案外、簡単に離れられた。とは言えまだ手を伸ばせば触れられる距離に居る。ゆっくりと私の顔へと向かって手を伸ばしてきた東さんは、私の髪を耳に掛けて満足そうに目元を緩めた。


「似合ってるじゃないか。」
「待ってください、私まだ理解が追い付いて無くて………気でも狂ってますか?」
「はは、手厳しいな。」


そのまま親指の腹で私の頬を撫ぜて来たので、手を思い切り叩き落としてやった。柔らかな感触が額に残っている気がして、何となく前髪を整えてから一応の礼儀として一礼をして部屋を出て行った。







後日、たまたま廊下で擦れ違ったカゲ君と話をしていたら、ピアスに気が付いた途端可愛いお顔を顰めていた。

「…あ゛?何時の間にピアス何て開けたんだよ。」
「えーと、一週間前くらい?」
「名前にそんな洒落っ気があったとはな。」
「いやぁ…、実は自分で開けた訳じゃ無いんだよねえ。そうだ、東さんにピアス開けて貰うと何か良い事起こる的なジンクス知ってる?」
「はあ!?!?」



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