02
「じゃあ私、キッチンの方にも少し顔出して来ますね」
「今日は相馬さんと佐藤さんだよ〜」
「…っそ、そっか。ありがとうぽぷらちゃん」
杏子達と一通り話を済ませた紅音は、キッチンへと足を向ける。その途中で掛けられたぽぷらの言葉に、紅音はどきりと心臓を弾ませた。ぽぷらの口から発せられたある人物の名に。
心を落ち着かせようとしながらゆっくりと進める足。けれどもそこへ近付く程に冷静さを取り戻すどころか、反対に早まっていく鼓動。
思い通りにならない自分の心臓に、紅音は痛い程実感させられる。
彼のことが好きで好きで仕方のないということを。
そして、彼から離れ、彼を諦めようとこの半年の間にした努力は何ら意味はなかったということに。
いつも通り、いつも通りに、と自分の心の中で呟きながら言葉を紡ごうとする。
半年も期間を空けていつも通りがどんな風かなんてさっぱり思い浮かばない。けれども自然と流れ出てくれた落ち着いたトーンの声に救われる。
「ただいまー」
私服のままでキッチンに入ってはいけないと、紅音はバックヤードの廊下からキッチン内を覗き込んだ。
「あ、柏葉さん!」
すると、紅音の声を聞いて一番にキッチンから顔を出したのは相馬だった。
「おかえり。元気にしてた?」
「うん、相馬君も元気そうだね」
「よお、柏葉。久しぶりだな」
相馬と会話していると後ろから現れた男に紅音は、思わずびくりと体を揺らした。
左目を覆いかくす長い前髪、そしてそれ含めた髪を全て染め上げる金色。女性の平均身長より上を行く紅音が見上げるような高い身長。鋭い目付き。一見柄の悪く見える彼の容姿。
けれど、紅音が体をこわばらせたのは怯えからではない。
緊張という感情は含まれているのかもしれないけれど、ただ"緊張"という単純な一言では表現することの出来ない、様々な感情が渦巻いていた。
驚き、戸惑い、嬉しさ………そしてときめき。
様々な感情が一瞬のうちに紅音の全身を駆け巡った。
彼女は好きなのだ。
ワグナリア キッチン担当のアルバイト佐藤潤、彼のことが。
久しく見る彼の姿に鼓動を弾ませながら、それでも紅音はその感情の揺らぎを面に出さないよう気を付けながら口を開いた。
「久しぶりね」
「どうだった?留学の方は」
「すごい楽しかった!良い経験できたよ」
「英語ペラペラになった?」
「そんな、半年じゃ無理だよ!少しは上達したと思うけど…」
「そういうもんなのか?留学したらペラペラになって帰ってきそうなイメージあるけどな」
紅音はにこやかに会話を続けるもその心中は穏やかなものではなかった。
「そうなるには時間が全然足りなくてさ、もっと長く滞在してたかった」
――――そう。色んな意味で、まだ帰って来たくはなかった。
決して顔には出さないよう心の中で紅音は自嘲した。
紅音は彼、佐藤潤が好きなのだ。
けれど彼女は3年半にも及ぶ長い片想いに終止符を打つため、彼のことを諦めようと必死でもがいていた。
それが一方通行のまま、先に進めることなく終わってしまう恋だと分かっていたから。
だからといって簡単に諦めることが出来る程人間の感情というやつは便利にできてはいない。
加えて彼も一方通行の、実るには難しい恋をしていることを彼女は知っている。
中途半端な期待が決意を揺るがす。
そして想いの環はぐるぐると周り続ける。
繋がることなく繰り返し、ぐるぐると。
ぐるぐるとぐるぐると、螺旋を描く。
片想いの連鎖