初雪の日
朝から続いていた軍議もようやく終わり、一息付こうと自室の障子を開けた。
ちょうど、その時だった。
「幸村!」
明るい女声が彼の名を呼んだかと思えば、箪笥の二段目から若い娘が身を乗り出していた。普通ではありえない図だが、彼がそれに驚嘆することはない。
「椿ではないか。一体そこで何をしておるのだ」
「幸村待ってたに決まってんでしょ!」
俺を?とゆるく首をかしげた青年に、彼女は手招きをする。
そして、近づいてきた彼の羽織の袖をくいと引っ張った。
「椿?」
「今ひま?」
「今から息抜きでもと思っておったが、」
「だったら一瞬こっち来れる?」
「ああ。それほど急いでどうしたのだ」
幸村は眉を寄せると、椿の腕を掴む。
しゃらりと首からかけた六文銭が音を立てた。
返答の代わりににんまりと笑った娘は、幸村の手を握る。
彼が目を丸くしたその瞬間、
「じゃ、おいで!ひっぱるよー!」
「なっ!椿!?」
「いっせーのーでっ!」
彼女は幸村の手を力一杯引っ張る。
「うわぁあぁっ!」
そうして、彼はそのまま、暗黒の中へ消えていったのであった。
初雪の日戦国の箪笥に繋がる、平成の押し入れでは、
ちょうど二人がごろごろっと勢いよく飛び出してきたところであった。
悪運が強いというか何というか、幸いにも落下地点はベッドの上で。引っ張った椿の上に、幸村が倒れているという体勢であり、傍から見れば誤解は免れない状況であったが。
「椿」
耳元で聞こえる低い声音に、彼女はそっと目を開いた。
すると、鼻と鼻がくっつきそうな至近距離に少し怒ったような青年の姿があって。
「ついひっぱりすぎちゃったみたい、ごめん!」
あははと苦笑する能天気な姿に、彼は呆れたようにため息を溢した。
「このお転婆娘。…どこか、痛むところはないか」
幸村は椿の上から体を退け、その隣りに腰を下ろした。よいしょと起き上った彼女は大丈夫だと返すと、ふいに青年の顔を見て声を上げる。
「幸村どうしたの!すっごいクマ」
「ん?あぁ、少し雑用が溜まっておってな」
彼の顔を両手で包むと、椿はその顔をじっくりと見つめた。
目の下のクマに、少しやせたような顔。勿体ないことに、折角のイケメンフェイスが少しやつれてしまっている。
「本当に忙しいんだねぇ」
「師走だからな。仕方あるまい」
「可哀そうに」
「そうであろう?だから少し、休んでよいか」
きょとんとした椿の腕をくいとひっぱると、幸村は彼女を腕の中に収めた。
「わっ」
「椿はあったかいな」
ぎゅうと抱き寄せると、彼女の肩に頭を乗せる。
「ちょ、幸村?」
聞こえているはずなのに、彼からの返答はなくて。
ただ、その身体をぎゅうと抱きしめている。
椿は眉を下げると、青年の頭にこつんと頭をつけた。そして、その頭を撫でてやる。
「なんか色々、よく頑張ってるねぇ」
すると、体を抱きしめる力が一層強くなって。
生気を吸い取られているようだと彼女は笑った。
と、その時、ふと彼をこちらに呼んだ理由を思い出した。
ちらりと窓のほうに目をやると、お目当てのものには間に合ったらしい。
「幸村、ほら外見てみて」
とんとんと肩を叩けば、彼の頭がのっそりと上がる。
そして、
「雪だ」
不思議そうな声音が部屋に響いた。
「それも初雪だよ」
すっごいきれいでしょ?これを幸村に見せたくて、と椿は微笑む。
その時、青年が改めて椿に目を向けてみれば、制服のまま。
そして、部屋の端には鞄が放り投げてあった。
きっと急いで押し入れまで来たのだろう。
だから、あれほど強引だったのかとやっと合点がいった。
「俺に見せるために制服も脱がず、来てくれたのか」
返答の代わりにふわりと笑う椿が妙にあたたかくて、またその身体を抱きしめた。
椿がすきだと彼は思った。
愛なんてものはどうしようもなく不確かでみんな必死になって得ようとする、謂わば夢みたいなものだと誰かが云ったが、確かに俺はそれを腕の中に閉じ込めていた。「甘えん坊のゆきちゃん」
くすくすと笑った椿に言われ、うるさいと口を尖らす。
「そういえばさぁ、覚えてる?」
「何をだ?」
「ほら。最初の日のさ、夢の中でくらい甘えさせてくだ「うぁああ!いつの言葉を覚えておるのだ!忘れろっ!」
title by 存外。