蛇の目を広げたところ、光を透かした朱色がたいそう美しく見えたので、ミナキはそれを頭上に翳したきりしばらく呆けたように骨組の真ん中あたりを見上げていた。ぱらぱらと降り出した小糠雨が和紙にはじかれて、小気味よい音をたてている。こんなに陽光が差しているのは、いわゆる天気雨というやつであるからだろう。出掛けにほとんど押し付けられたかたちだったこの傘を、まさか本当に使うことになろうとは、そう持ち主であるマツバの笑顔を思い起こしてひとりごちでみれば、今となってはひどく意味ありげな顔だったように思われて苦笑いを漏らしてしまった。さすが狐だ、帰ったら手放しで褒めてやらねばならないだろう。旅の道中で通り雨にやられるならば諦めもつくが、エンジュで思いがけなくずぶ濡れになってしまった、とあっては恰好がつかない。マツバの屋敷から焼けた塔までは近いとも言い切れない距離であるから、やがて止むであろうと分かっていてもこの傘は有り難かった。行きにすれ違った人々の物珍しそうな視線、天気予報も見ていないのかしらといった眼差しへの気まずさは、これで帳消しといったところだ。
(それにしても、私の出で立ちと蛇の目は合わないな)
改めてみずからの全身像を鑑みてしまい、ますます苦いものが頬に浮かびそうになってかぶりを振る。そうしてからやっと歩を進めたところであったのだが、ふと視線を巡らせた双眸に飛び込んできた光景にミナキは一寸ぽかんとして、折角動き出した足をまたも止める羽目になった。どきりとしてしまった。高鳴りといったたぐいのそれではなく、ただ純粋に驚いたのだ。よくありがちな光景、とは言い難かったものだから。

「もしもし、濡れてしまいますよ」

それでもすぐに走り寄って傘を傾けたのは、なにも気取りたがりゆえであったためではない。ごく自然な流れであったはずだ。閉まっているエンジュジムの正面入り口に向かって立ち尽くす、妙齢の女性を前にしては。つややかな黒髪、いかにも上品である着物に、淡く化粧のほどこされたかんばせ。うつむき気味の横顔はそのつくりまでを伝えてくることはなかったものの、翳された傘を避けるでもなく、ただ大人しくその場に立ち続けていた。和紙独特の反響が、傘に守られた空間だけでぱらぱらと泳いでいる。ミナキの肩は濡れ始めていたが、どうにもいらえがないことには、上手く口が回らなかった。静けさと雨音だけが、二人の共有しうるものであった。ジムの周囲には人影もない。そう、今日が定休日であることはエンジュの人間ならずとも、トレーナーならば簡単に分かることだ。ましてや正面まで来てしまえば言わずもがな。だというのに彼女はここで、雨に濡れることも厭わずに一体、どうして佇んでいたというのだろうか。
「――、は、」
「え?」
「――さんは、いらっしゃらないのですね」
雨音に紛れて聞き逃してしまった声を、耳を近づけて拾う。そして僅かに眉をひそめたミナキは、失礼かと思いながらもやや膝を屈めて、窺うようにして彼女の顔をじっと見つめた。そうして間を置かず、密かに息を逃がした。なんのことはない、まだ纏う雰囲気よりも幼そうな、さっぱりとした美人であった。白すぎる顔が少々気にかかったくらいで、しかしきっと冷えてしまったせいであろうと思い、それまでに感じていた不信感はすぐに影を潜めてしまった。いや申し訳ない。笑みながら距離をとり直すと、今しがたの問いにその通りだと頷いて見せる。すると初めて視線を交わらせた彼女はそれを聞いてしゅんとしたように肩を落とし、体の前で手を組んでそうですか、とだけ細く呟いた。睫毛が揺らぎ、なで肩を黒髪がするりと流れる。本当に知らなかったようだとその様子からひしと感じ取り、居た堪れないような、しかしやはりちょっと奇妙だなという、再び首をもたげた訝しみをまじえてミナキは表情を曇らせた。
「あーええと、もしよければ自宅へ案内するが……どうだろう?」
「いいえ、もう時間がないものですから」
「何かご予定が?」
「…………」
「おっと、不躾に申し訳なかった」
ぱっと片方の手のひらを見せるようにして詫びれば、気にしていないと言いたいのかふるりと首を振った彼女は、でも本当にいいんです、と先程よりもはっきりと告げて一歩そこから後ずさった。あっと思わず動揺し、ミナキもそれを追おうとする。なにせまだ雨が降り続いているのだから、少しでも離れたら濡れてしまうのだ。待ってくれ、送って行こう。いつの間にか敬語を忘れていることにも気づかずに、背を向けつつあるシルエットに声をかけた、そのときだった。
「っ!?」
ぽん、と何かを投げ寄越されてたたらを踏み、慌ててそれを手で捉える。どうやら柔らかい。危うく潰してしまうところだった、と騒ぐ心音を聞きながら掌を開いてみれば、小さな、それでいて極めて精巧に美しく折られた紙の鳥が、ちょこんとミナキの手に乗っかっていた。
「おいきみこれは、」
顔をあげるともう、辺りには誰の姿も見えなかった。細かな雨はまだ過ぎ去る気配はなく、かといってぼんやりと明るい日差しが翳ってしまう兆しもなく、人影のないエンジュジムの周辺は細雨とそれが照りかえす光とで、不思議な眩しさに包まれていた。寸分前までここにもうひとり居たのだと、たとえ語ったところで信じてもらえるか分からないほど、初めからまったくそのようであったといわんばかりの景色であった。
ミナキはぽかんとした面持ちで立ち尽くしながら、彼女が口にした名前を脳内でなぞってみた。その名には十分すぎるほど聞き覚えがあるのだが、やはりあの状況で出てくるのは少しおかしい。これは報告したほうがいいかもしれないと、口元に手をあてながらふうむとひとり唸った。


しかしてマツバの屋敷の前まで行くと、当の本人とばったり鉢合わせてしまった。ミナキが差しているものと揃いの蛇の目を傾けて顔を見せると、おやおかえりミナキ君、とのんびりした調子でマツバは笑った。正装とおぼしき藤色の着物に墨染の羽織を身につけている彼は、いつものゆるい雰囲気とはまた何か違った空気を感じさせる。目を瞬かせたミナキは開口一番に言おうとしていたことも飲み込んで、まじまじとその格好を眺めてから問うた。
「どうしたんだ、出掛けるのか」
「そうだよ、言ってなかったっけ…実はこれから婚礼があるのさ」
「婚礼!そんな大事なことなら一言教えてくれればよかったじゃないか…準備くらい手伝ったのに」
「いやごめん、そんな仰々しいものじゃないんだ。ミナキ君の調査が終わるまでには帰ろうと思っていたんだけど、君もずいぶん早く帰って来たね……雨のせいかい」
「あ、そうだった…実はな、」
ミナキが戻って来たわけを話すと、マツバは終わりに向かうにつれてなにやら面白そうな顔色になり、仕舞いに折紙を見せられたところでついにくすくすと笑いだした。そうなると予想外というか、訳が分からないのはミナキである。それは不思議だねえくらいの相槌を期待していた身としては、憮然とした顔になってしまうのは致し方なかった。
「なんだ、笑うようなことか?」
「ごめんごめん、ふふ……まさかミナキ君と会うとはねえ…あの子も運が良いんだか、悪いんだか」
「マツバ、やはりあの人を知っているんだな」
「知っているもなにも、今日の主役はあの子だから」
「……なんだって?」