狐火が転々と続いてゆく道を、マツバと並んで歩いている。山道とまではいかないが、舗装もなにもされていない、野草に挟まれた土の道である。さあさあと降り続けている雨などまったく意に介していないというふうに、ゆらりゆらり微かに風を受けて光る狐火、これを見るのは初めてではなかったが、慣れるまでには至らない。触れたら熱いのだろうか、などと考えてしまうのは研究者の性であるものの、いつだったかマツバに触ってはいけないと先回りをされてしまったので、今も触ることは叶わなかった。曰くこれは、道しるべなのだという。
気がづくと、周りにはだんだんと人影が増え始めていた。皆マツバのような格好をしているものだから、どこまでも自分が悪目立ちしてしまうと思いつつも既に諦めの境地に達しているミナキは、気休め程度に蝶ネクタイをきっちりと正し、たまたま脇を抜けてゆくところであったひとりに会釈をした。傘から顔を覗かせたその男は、ミナキを珍しそうに見つめてからマツバに視線を移しておやまあ、と喜色を浮かべると目を細めた。どうやら気が緩んだのかもしれない、彼の背後に一瞬何かが見えたような気がした。マツバさんじゃあないですか。ああどうも、久しぶりだねえ。なんだ、いらっしゃるんなら土産のひとつも持ってきましたのに、フエンせんべいお好きでしょう。うんうん、また今度頼んだよ。
にこやかに交わされる会話を聞いていると、どうやら彼は遥々ホウエンからやって来たらしい。すこし訛りが違うからジョウトの者ではないと思っていたが、そんなに遠くから参列しているとは驚きだった。新郎側だよ、マツバが耳打ちをしてきたので黙って頷けば、彼はもう一度ミナキをしげしげと見てから今度は微笑んでぺこりと頭を下げた。そうして、ではまた後ほどとやはり嬉しそうに告げて、そそくさと先へと歩いていってしまったのだった。
「知り合いが多いな」
「なに、彼は送り火山に棲んでいるから」
「もう長いのか?」
「まあ君より年上なのは、確かだよ」
機嫌良さげに笑うマツバに、やれやれと肩を竦めてミナキは息をついた。そんなことは聞かなくても分かる。恐らく、と前置きするまでもなく、この列に加わっている者はミナキよりも年嵩に違いないのだ。人間よりもずっと長生きをするキュウコン達、しかも人型をとれるほどの力を持つ者にしてみれば、ミナキなどまだ取るに足らない若造なのかもしれない。並んでいるマツバはまた境遇が異なるが、それでも今しがたのやり取りを見ていればかなりの貴賓扱いなのだろう。そう考えるとどうも自分が場違いに思えてならないのだが、ここまで来てしまっては仕方がない。狐の嫁入り、すなわちキュウコンの婚礼に参列するなど勿論生まれて初めての経験だ。物怖じしていては罰が当たる。
「流石、それでこそミナキ君」
「……おいマツバ」
「違うよ。あんまり不安そうじゃないから、安心しただけさ」
ほんとうに気楽にしていればいいんだよ、とつけ加えてマツバは相変わらず笑んで見せた。そらもうすぐ会場だ、と誰かが弾んだ調子で言うと、周りを歩いていた者たちの足取りも軽やかになる。狐火が描いていた直線が終わりを迎える頃には、はしゃぐあまりにキュウコンの姿に戻っている者までいた。そして傘が差せなくて、慌てて人の姿に戻るのだ。滑稽で微笑ましい。どうやらこういった婚礼はあまり頻繁に行われるわけでもなさそうだ、とミナキはマツバと一緒になって笑いながらまたひとつ胸に記録をした。狐というものと関わるようになってそれなりに経つが、まだまだ知らないことばかりだ。


宴が始まった。
誰が奏でるでもなく、鼓と笛の音が参列者の輪を彩っている。
「多分その折紙は、師匠があの子にあげたんだ」
「ふむ、なるほどな」
あの時エンジュの先代の名を口にしたのは、別れを告げに来たということだったのだろう。いきさつは分からないが、彼女はエンジュジムの主が代替わりしたことを知らなかったのだ。それなのに疑うような目を向けてしまって悪いことをしたな、とミナキは気まずさに頭を掻き、ちょうど輪の向かいあたりに座している新婦を遠目に見つめた。夫となる人、もといキュウコンが人型をとった姿と寄り添うようにしている彼女の胸の内には、少なからずほろ苦い気持ちが宿っているのかもしれない。だがああしている彼女の顔は幸せそうであったので、こちらの気もさほど重くならずに済みそうだった。この折紙は、必ず先代に渡すからな。そう視線のみで告げてみると、ちらりとミナキのほうへ瞳を向けた彼女の眼差しがほんの一寸だけ、美しい赤に光った、ように見えた。
「あれ、あまり飲んでいませんねえ」
「うわっ!いつの間に」
「ははは、驚いてる驚いてる」
知らぬ間に目の前に座っていた男にぎょっとして肩を揺らしてしまったミナキだったが、よく見ればあの列で言葉を交わした男であった。しっかりと自分の杯を持ってきている。ぐるりと見回してみれば宴もたけなわといったところなのか、輪もだいぶ崩れて皆それぞれ自由に移動を始めているらしかった。初めからずっと同じ場所に座っているのは、マツバとミナキくらいのものかもしれない。じっとしていてもマツバのところへは常に誰かが酌をしに来るので、彼にしてみれば動く必要がないのかもしれない。君はどういう狐なんだ、と訪ねてみるのは簡単だがいつだってうまいことはぐらかされてしまうので、まあいいかと面倒になってしまうのが常である。
「あんたも飲んだらいいですよ、ほら」
「ああ、これはどうも」
「……なんか分かった気がするなあ」
「は?」
「マツバさんはとびきり綺麗だけど、あんたも綺麗だ」
「それはどういう、」
「綺麗な色してるってことですよ」
しゅるん、と男の姿がキュウコンに変わった。戻ったと言ったほうが正しいかもしれない。酒精のためかどことなくとろんとしている紅の眼差しにじいと見つめられると、なにか術にかけられてしまいそうな心地がして、ミナキは数度きつく瞬きをした。取り落としそうになったので杯を傍らに置くと、それとタイミングを合わせて彼がすうっとしなやかな毛並みを揺らしてミナキの膝に前脚を乗せた。そうしてミナキの頬を一度、ぺろりと舐めた。
「あんたは、きっと美味いんでしょうね」
「っ……ちょっとまて、喋れるのか!」
「あれ、マツバさんは喋らないんですか」
「マツバは、私の前で完全に獣型にはならないんだ」
抑えるように首の毛を撫でてやると、気持ちよさそうにキュウコンは目を細めた。その口から人の声が発せられるというのは一体どうなっているのか、あるいはテレパシーなのか。しかし流石に深く考えている余裕はなく、ゆらゆらと揺れる九つの柔らかそうな尻尾に意識を逃がした。マツバの獣型という言葉は、どうにも情事を連想させてしまっていけない。理性を潜ませるという意味合いでは、おそらくああいった時のマツバが最も本来の姿に近いのだろうとミナキは思った。
「こら、勝手に口説かないでくれよ…僕のだ」
キュウコンを撫でる手に不意に重なった手にぎくりとして、声の源へと向き直る。酌を受けて誰かと笑っていると思っていたマツバがすぐ目と鼻の先にいたもので、ひどい既視感に襲われつつ胸がうるさくなるのを感じた。どきりとしたのだ、高鳴るというほうの意味で。よくよく見ればマツバの頭からはふたつの金色の耳が生えており、紫のまなこは薄らと赤色を帯びている。酔っているな。ミナキが半目を作って呟けば、ふわりと香るように、妖しげに微笑んだマツバは片手をとったままキュウコンから引き離し、ミナキの頬の、先程彼が舐めたあたりをそっくり真似るようにして舐めてから、何事もなかったようにするりと離れた。
「ふふふ、お熱いことで」
「君もお嫁さんを探しに来たくちかい」
「いえ、俺はまだひとりが気ままでいいので……やだなあ、怒らないでくださいな」
しゅるん、とまたしても一瞬で人型に戻ったキュウコンは黒髪の男の顔でそう軽い調子で笑うと、最初に遭った時のようにあっさりとその場を後にしてしまった。のらりくらりとかわすのが上手い、あれが彼の世渡り術なのだろうか。キュウコンの世界にも色々とあるのだろうな、とこの短い宴会で見ただけでも感じていたミナキはあのキュウコンに憤慨する気も起きなかったのだが、マツバはそうでもないらしかった。視線を戻すと相も変わらずどこか剣呑な眼差しをじっとミナキに向けており、もしや全部聞いていたのかもしれない、と思い至って顔が熱いような冷たいような奇妙な感覚に陥った。
「マ、マツバ」
「ミナキくん……もっと酔おうか」
朱塗りの杯が持ち上げられて、いつの間にか注がれた酒がちゃぷ、と月明かりに揺れた。そうだ、もうすっかりと雨は止んでいる。金色のマツバの髪と耳が月光に照らされて、それがひどく艶っぽく映ってしまい、反射的にミナキは目を逸らした。