「約束通り付けて来てくれたんだ、それ」
 
唇に触れようと伸びて来た手を、顔を背ける事によって拒絶する。先輩は気を悪くした様子もなく、ただ小さく肩を竦めてその手を降ろした。
 
「こんな所に呼び出しちゃってごめんね?女の子には少し居心地が悪いかな」
 
詫びている訳では無い。これは私の羞恥心を煽る為の言葉であるという事は、その楽しげな声音からすぐに解った。やり場のない視線を無機質なタイルの上で彷徨わせながら、小さく拳を握りしめる。折原先輩から連絡があったのは数分前。教えた筈の無い私のアドレスを何故知っているかなどは、聞くだけ無駄な気がして止めた。頭が痛いので保健室に行くと教室を抜け出し、指定された男子トイレへと向かう。特別教室が集中しているこちら側の棟にあるトイレは、普段は滅多に利用する人が居ない。授業中ともなればなおさらだ。女子トイレとは明らかに違う雰囲気に戸惑いながらも足を踏み入れた先に、折原先輩は待っていた。そして、今に至る。
 
「何をすれば、良いんですか」
 
あの時と同じ台詞を吐き出す。昨日も、今朝も、授業中も、ここに来るまでもずっと考えていた事。折原先輩は一体、私に何を望んでいるのか。どうすれば解放してくれるのか、いや、そもそも解放してくれる気はあるのか。噂に聞いていた人物像から、身体や臓器を売られるのかとも思った。けれど流石に、一学生である立ち場でそこまでの事はしないだろうと思い直した。ならば歳相応に、金銭的な要求や性的な要求をされるのかとも思った。しかし、先輩の目はどこかそういった欲望とは別の何かに向けられている気がして考え直した。解らない、この人が何を思い何を考え何を望んでいるのか、全く想像がつかない。結局、私は予想を立てる事を放棄した。何を言われても可笑しくは無いと覚悟していれば、どんな事を要求されようと驚く事もないだろう。だから、折原先輩が、
 
「誑かして欲しい奴が居るんだ」
 
そんな事を言っても、眉一つ動かさずに居られたのだと思う。
 
「誰、ですか」
 
一拍置いて、すぐに返答が返って来ない事に疑問を覚えた私は視線を床のタイルから先輩へと向けた。折原先輩はどこか驚いているとも、ある意味関心しているとも取れるような表情を浮かべていた。怪訝に思って眉を顰める頃にはもう、薄らとした笑みに変わってしまっていたけれど。
 
「平和島静雄。君も、二年なら噂くらいは聞いた事があるだろ」
 
名前を耳にした瞬間、背筋が粟立つのを感じた。折原先輩と同じ三年であり、日々繰り広げられる喧嘩の相手。破壊された備品や校舎の殆どは平和島先輩の手によるものらしく、その所業は凡そ人間の域を超えていた。十数人の不良や他校生を一人で相手にし、悉く討ち破ったという話しも耳にした事がある。決して敵に回してはいけない人物。出来る事ならば近付きすらしない方が良い相手。冷や汗が、伝う。
 
「君にして貰いたい事は簡単さ。シズちゃんに近付いて上手く情報や弱みを引き摺り出し、俺に伝える、たったそれだけ。まずは手紙で校舎裏にでも呼び出して、告白する事から始めようか。大丈夫、シズちゃんは女の子に免疫とか無いし、君みたいに純情そうな子の方がタイプだろうから。上手く了承を得たら徐々に距離を詰めていけば良い。さっきも言った様に、彼、今までに付き合った事とかないから、そう簡単に手を出して来たりもしないと思うよ。嫌がる子に無理矢理って感じでも無いし、君の貞操は守られる。あぁ、ごめん。君の方は既に経験があっても可笑しくないかな」
 
それらの言葉のどこまでが私の頭に届いていたか、自分にもよく解らなかった。今でこそ無いが、好きな人が出来た事は何回かあった。イベントの度に一喜一憂したりもした。けれど、付き合うという経験をした事は一度も無い。それはただ単に、今まで愛情だと思っていた感情が友情の延長線だったと気付いたからだったり、周りの友人に彼氏や彼女が出来るようになった頃に、自分にはそうした存在が必要だと思わなかったりしたからだ。そんな自分が、誰かを誑かすなどという時点で既に難しい課題だというのに、よりによってその相手があの平和島静雄先輩だ、なんて。
 
「そんな、事、私に出来るとは思えません」
 
ともすれば命に関わるかも知れないと、零れ落ちる弱音と共に視界が降下した。その時、折原先輩の口から今まで以上に大きく、そして軽薄な嘲笑が上がる。
 
「どの口がそんな事を言うのかなぁ」
「ッ!」
 
唐突に腕を引かれ、身体がよろける。反射的に踏み止まろうと反った腰は見る間に先輩の腕に捉えられ、その視線から逃れようとするよりも早く、顔を固定された。互いにベンチへと腰かけていたあの時とは違い、身長差のはっきりとした今は首が痛くなる程強引に上を向かされる。抗おうと胸板を押してみても、細い身体のどこに力があるのかと思う程に、先輩は微動だにしなかった。
 
「離して、下さ」
「君は自分の立場をよく理解してる子だと思って居たけれど、どうやら俺の見込み違いだったようだね。仕方が無いから改めてきちんと説明してあげよう。良いかい、君は犯罪者だ。昨日の事が知られたら、もう今までのように普通の生活は送れない。学校は退学、友人とは疎遠になるだろう。君の家族だって無傷じゃ済まない。娘が万引きをしているなんて知ったらショックを受けるのは言うまでもないだろうけど、それ以上に世間の風当たりの方が辛いかも知れないね。君のお父さん、今の会社では部長を務めてるんだって?もうすぐ役員昇進も近いって噂されてたよ、おめでとう。だけど娘が犯罪者になったら、それもどうなるか。今は専業主婦のお母さんも、働きに出なくちゃならなくなるかもね。弟君は今、小学五年生だったかな?丁度、道徳心を学ぶという意味でも大事な時期だよね」
「…っ!」
「でも大丈夫、俺は君をそんな酷い目に合わせるつもりはないから。けど、犯罪を見て見ぬ振りをするって言うのも、それなりのリスクがあったりするものでね。君の為にそうした危険を冒すんだから、それに見合うくらいの事はしてもらいたいと思うのは当然の事だろう?無償で助けてやる程、俺も出来た人間じゃないし。そこまでする程親しい間柄って訳でもないしね、俺達。それに、金銭的な要求や性的な要求をされるよりはずっと良いと思うよ?上手く行ったら、証拠の画像を消してあげる事もやぶさかでないんだしさ」
 
霞む視界の中で、漸く閉じられた先輩の唇が綺麗な弧を描く様だけは、やけにはっきりと見えた。徐に近付いたその距離に、強く瞑った瞳から水滴が落ちる。
 
「…あれで居て、シズちゃんは甘い物が好きなんだ」
 
先輩の髪が、吐息が、触れそうなほど近くで、そんな言葉を聞いた。授業時間の終わりを告げるチャイムの音が、どこか遠くで鳴っている様に聞こえる。
 
「それじゃあ、宜しくね」
 
身体の自由が戻っても、私は暫くの間、そこから動く事が出来なかった。後ろの方で扉の閉まる音がして、折原先輩がこの場から居なくなった事に気付いた時、二つ目の滴がタイルの上へと落ちていった。その涙の訳も、その意味も、今の私には解らない。何もかも、解らない事だらけだ。

 
 

 

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