普通の家庭、普通の成績、普通の生活、普通の毎日。それに何ら不満がある訳じゃなかったし、それが私にとっては当たり前の事だった。なのに、何故あのような事をしてしまったのだろうか。私は今でも、その理由が解らずに居る。
 
 
 
 
 
人気の少ない夕暮れの公園。片隅にあるベンチに腰掛け、汗でじっとりと濡れた掌を開く。そこにあるのは新品のリップグロス。袋に入っている訳でも無ければ、会計済みを示すシールが貼ってある訳でも無いそれは、ほんの数分前に、少し離れた場所にあるコンビニから無断で持ち出した物。未会計、万引き、窃盗、犯罪。瞬時に浮かび上がるワードと、そこから連想される今後について考えると、体中から冷たい汗が噴き出した。誰にも見つからないように、誰にも気付かれないようにと、強く強く手を握り締めて証拠を隠す。
 
「返しに、行かなきゃ…」
 
ぼーっとしていて、うっかり会計をしないまま外に出てしまった、とでも言って謝れば良い。このままこれを持っててはいけない、それだけは駄目だ。そう思って、立ち上がろうとした時だった。
 
「みーちゃった」
 
聞き覚えのない声。けれど明らかに私に向けられた声。それを発した人物は、私の上に影を落とすようにして、いつの間にか真正面に立っていた。言葉の意味を察して固まる私の身体。相手を確認する為に顔を上げるだけでも、多大な勇気と覚悟を必要とした。
 
「…折原、先輩…」
 
その人、折原臨也先輩は、私と目があった瞬間その綺麗な顔を歪ませた。まるで、玩具を見つけた子供の様に。
 
「それ、あそこの角にあるコンビニから盗って来たんでしょ。そういうの何て言うか、知ってるよね?刑法235条、窃盗罪。万引き、って言った方が馴染みがあるかな?法律では10年以下の懲役又は50万円以下の罰金が科せられるんだよ、知ってた?」
「ちが…私、は…」
「それにしても凄いよねぇ、君。あそこの店って今までも結構万引きの被害にあってるから、常に注意するよう従業員に指導を徹底してるんだよ。それなのにあっさり盗んで来ちゃうなんてね、もしかしてこれが初めてじゃないのかな?店員も、まさか君みたいに真面目そうな子が犯罪を犯すだなんて思わなかったのかもね。正直に言うと、俺も少し驚いたよ。様子が可笑しかったから気にはなってたんだけどさ。けど、結果としてこんな場面を抑えられたって訳だ」
 
弁明をする間も与えてくれないまま、折原先輩は私の隣へと腰を降ろし、最後の言葉と共に携帯電話の画面を見せつけるようにこちらへと差し出した。まるで仲の良い恋人がするかのように、空いた片腕を私の肩へと回して、寄り添う様に身体を密着させながら。けれど私はその事に対して驚きや戸惑いを覚えるよりも先に、折原先輩が見せた携帯の画面、そこに映しだされている画像に、意識の全てを奪われていた。先輩の指がボタンを操作して、画像が別の物へと切り替わる。そこに映っているのは、私。棚から商品を手に取る私、それを眺めている私、店の中を歩いて行く私、レジを通らず外へと出ていく、私。
 
「あまりにも自然で大胆だったから、恐らくは俺以外の誰も、君が何をしたか何て気付いてなかったと思うよ。尤も、君がもっと周囲を気にしてたなら、俺に写真を撮られてる事に気付けただろうから、こうして犯罪が成立してしまう事もなかったんだろうけどね。どっちの方が良かったのかな?」
 
言葉が、出てこなかった。頭の中では様々な思いが錯綜しているというのに、耳に届く折原先輩の声は場違いな程に優しく穏やかな声音で、それが逆に私の混乱を煽っているらしい。血の気が引いて徐々に体温が落ちていくのに気付いたのか、私の肩を抱いていた先輩の手が静かに上下する。擦ると言うよりもまるで緩慢な愛撫のようなそれは、酷く気持ちの悪いものに感じられた。けれど、その手を振り払う事も出来ないまま、漸く落ち着きを取り戻して来た私は口を開く。
 
「…何を、すれば良いんですか」
 
その時、私の横で折原先輩が確かに笑うのを感じた。
 
「良いね、頭の良い子は特に好きだよ。理解が早くて助かる」
 
携帯電話をしまうと、先輩の手は固く握られたままの私の掌へと落ちて来る。抗う事は容易な筈なのに、その細い指に促されて、隠していた物が露わになってしまう。リップグロスを手にとって、先輩はしげしげとそれを眺めながらまた笑う。
 
「あの様子からすると、盗って来るものは何でも良かったんだろうけど…やっぱり、君もこういうのに興味があるのかな?見たところ普段はあんまり化粧とかしてるタイプには思えないけど、そうだなぁ、確かにこれなら君に似合いそうだ」
 
不意に、肩に置かれていた手も、すぐ傍にあった先輩の身体も離れていく。無意識の内に張り詰めていた緊張が緩んだ、その一瞬。唐突に伸びて来た手に顎を掬い取られる様な形で、私の視界は横へと移動する。
 
「じっとしててね」
 
先輩の端麗な顔が驚くほど間近に映り、思わず目を閉じた。固く結んだ唇にひんやりした物が触れた瞬間、肩が跳ねる。そのまま唇をなぞる様に動いていた物がやがて離れていくのを感じて、恐る恐る目を開けた。
 
「思った通りだ、良く似合う」
 
口元へ手を当てると、ほんのりと甘い香りがする。その手を取られたかと思うと、掌には今先輩によって塗られたらしい、開封済みのグロスが置かれた。
 
「明日から学校に来る時は、必ずそれを付けて来るように」
 
そう言って立ち上がる折原先輩を、私はただ呆気に取られた顔で見詰めるしかなかった。三年の、折原臨也先輩。一学年下である私はこうして直接会う機会など今までになかったが、飛び交う噂や、頻繁に起こる喧嘩と称された危険行為や破壊活動の数々によって、一方的にその存在を知っていた。決して敵に回してはいけない人物。出来る事ならば関わり合いにならない方が良い相手。弱みを握られた代わりにどんな酷い要求をされるか、想像しただけでも恐ろしかった。なのに、
 
「それだけ、ですか…?」
 
無意識の内に発していたその問い掛けに対し、立ち去りかけていた先輩は歩みを止めて振り向く。その顔を見た瞬間、私は自分の甘さを理解する。
 
「…やっぱり、何でもありません」
「そう?じゃあまた明日、学校で。苗字名前さん」
 
嘲笑うかのように私を見下ろす紅い目に、全て見透かされている気がした。私が、普通で居る事にどこか飽きていた事も、そうした思いが歪んだ形で現れる事も、それでも普通を捨て切れない事も、僅かな希望に縋ろうとする脆弱な心も、全部。
 
 
 
 
 
「彼女が自首した所で、結果は変わらなかったさ。警察に突き出され、一時の気の迷いのお陰で人生を棒に振るか、それとも俺と言うたった一人の目撃者の口を封じる為に努力するか…答えは簡単だよね。尤も、彼女にとっての最善は、誰にも気付かれぬまま犯罪を犯してしまったという事実を闇に葬ってしまう事だったんだろうけど、起こらなかった事柄についてどうこう言っても仕方が無いだろう?寧ろ彼女には感謝して欲しいくらいだよ、もし目撃者が俺以外の誰かだったら、交換条件としてどんな酷い仕打ちをされたか解らない。けど、俺は優しいからね。女の子をいたぶる趣味は無いし、傷付けるのも本意じゃない。普通に考えれば、犯罪を見て見ぬ振りをしてもらうのにこれほど破格の条件は無いと思うよ。…だから、彼女には頑張って貰わないとね」

 
 

 

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