近場で作業をしていたらしいヘイハチさんとキクチヨさんが、騒ぎを聞きつけ真っ先に駆けつけた。二人はこの場の状況を見て、暫しその足を止める。そうした後で、傍らへと歩み寄って来たヘイハチさんが私の肩に触れるまで、私は、目の前の光景を瞳に映しながらも、どこか別の世界を見ている様な現実味の無い感覚を味わっていた。
 
「…大丈夫ですか」
 
穏やかな、けれど普段の温かみは感じられない声で、ヘイハチさんが尋ねる。私は何も言えぬまま、ぼんやりとヘイハチさんの顔を見て、自分の手元に視線を落とす。私の手から、刀身から、滴り落ちた男の返り血が、地に歪な模様を描いている。漆黒の光沢も、今や曇っていた。やがて私の肩から、静かにヘイハチさんの手が離れていく。それすらもどこか実感が無い様な、とても不思議な感じだった。
 
「カンベエ殿」
 
ヘイハチさんの声に、ぴくりと肩が跳ねる。ゆっくりと顔を向けると、林の傍にカンベエさんが佇んでいた。その表情は、酷く険しい。何も言わぬまま、カンベエさんは私達の方へと歩き出す。カンベエさんがすぐ傍まで来た時、私は無意識のうちに目を逸らしていた。僅かに歩を緩めたものの、カンベエさんはそのまま私の横を通り過ぎ、キララさんの声に目もくれず、鋼筒と、その横に座り込んだままのカツシロウさんの元へ行き、そこで漸くその足を止めた。鋼筒が倒れた際、中から転がり出て来た男の亡骸が横たわっている。その様子を見てから、カンベエさんはカツシロウさんの方を向き、それに気付いたカツシロウさんが俯いていた顔を上げる。そして僅かな沈黙の後、カンベエさんはその頬を手の甲でしたたかに打ち据えた。その衝撃で、カツシロウさんの手にしていた刀が飛ぶ。離れた地面に突き刺さったそれをカンベエさんが抜き取り、血とオイルにまみれた様をじっと見詰めた。そして、傍らで震えているマンゾウさんとシノさんには何も言う事無く、再び来た道を歩き出す。私の傍で一度足を止めたカンベエさんは、固く閉じた私の手を解き、そこから静かに紅も抜き取った。身を起こしたカツシロウさんが、堪らずその背を呼び止める。けれどカンベエさんは振り向きもせず、キクチヨさんに男と鋼筒の始末を命じてその場を去ってしまった。
 
「斬ったのはカツの字と嬢ちゃんだぞ!」
 
キクチヨさんの抗議の声に、悪寒に似た衝撃が背中を走る。紅を握っていた手が、微かに震える。男の腕を斬り落とした感覚が、未だ生々しく残っていた。
 
「来い!」
「おサムライ様!まってけれ!」
 
突然、怒気に満ちた声とシノさんの焦り声が耳に届く。一瞬シノさんが誰と話しているのか解らなかったのは、その声があまりにも普段の様子と違っていたからかも知れない。声の主は、マンゾウさんの首を掴み上げて引き摺って行く、ヘイハチさんだった。その顔に、いつもの温和な笑みは欠片も無い。
 
「娘さん。私はね、このお人を斬りたくて仕方ありませんよ」
 
止めようとするシノさんに対し、ヘイハチさんは容赦の無い声ではっきりと口にする。その内容に慌てたマンゾウさんが必死にヘイハチさんの拘束から逃れようともがくも、それは少しも揺らぐ事は無い。
 
「おとうを許してけれ、おサムライ様!こん通りだ!」
「娘がああ言ってんだ、許してやれ」
 
ついにシノさんは土下座して頼み込む。それを見たキクチヨさんが助け船を出した。それでもヘイハチさんは耳を貸そうとはせず、「貴方はカンベエ殿に命じられた事をやれば良いんです」と冷たく言い放つ。しかし次の時にはいつもの様な笑みを浮かべ、
 
「なに、この人の事は悪い様にはしませんよ」
 
そう言って、マンゾウさんを連れてカンベエさんとは別の方向へと歩き出した。同じように見えて、どこか作り物のような印象を受けるヘイハチさんの笑顔に、ともすればこの時に気付けたのかも知れない。けれど私はただその様子を眺めているだけで、頭の中には何も入って来てなどいなかった。それはカツシロウさんも同じだったように思う。呆然と、カンベエさんの去っていった方角を見詰めたまま動けずに居る。そんな様子を、キララさんが不安げに見詰めていた。私はもう一度、自分の手に視線を落とす。背にも、腕にも、紅の重みを感じない身体は今やまるで重い枷を外されたかの様に軽く感じる。然し同時に、言い知れぬ不安、孤独に似た感情も湧き上がる。私はカツシロウさん達の方を一瞥してから、ふらふらとした足取りでカンベエさんの後を追った。言葉に表す事の出来ないこの感覚を、カンベエさんなら教えてくれると…そんな、気がして。
 
 
 
向かった先には、明かりの灯る一軒の家があった。近付くにつれ、刀を研ぐ音が聞こえて来る。戸口から中を見ると、囲炉裏の傍にカンベエさんの背があった。けれど何と言って声を掛ければ良いか解らず、私は俯く。それに気付いて居たのか、それとも刀身の様子を見る為に立てた刃に私の姿が映ったのか、カンベエさんは静かに声を発した。
 
「何故、殺さなかった」
 
え…、と顔を上げても、カンベエさんは振り向く事無く手を進めていた。私がそれに答えられずに居ると、カンベエさんが続ける。
 
「お主の腕ならば、一閃で相手を仕留める事も出来たであろう。何故、そうしなかった」
「そ、れは…」
 
それは多分、私が、殺す事を拒んだから。あの時、私は自分が今までしてきた事の、本当の意味を理解した。私は、人殺しだった。自分の力では無かったとはいえ、それを望んだのは紛れもない自分自身。知らなかったでは到底済まされない、大きな罪。その事にショックを受けている私を、紅が気遣っての事だったのか、それとも無意識の内に紅の力を私が押し留めてしまったのかは解らないけれど、そうした事が、恐らくは男の腕を斬り落とすというあの行動に結びついたのだろう。けれど、それを言ったところで、どうなるというのか。私の中途半端な行動が、結果としてカツシロウさんまでも人斬りの道へと引き摺り込んでしまったのだ。それはもう、悔やんだところでどうする事も出来ない。
 
「…やはり、お主を連れて来たのは間違いだった」
 
カンベエさんの呟きは、鉛となって私の心へと落ちて行った。
 
 
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