軍資金

「母上……、大兄上」
 こんなところで鉢合うとは思ってもいなかった。心の準備が不十分だ。ごくりと生唾を呑み込み、旭川に帰省した理由を伝えようとしたのに、無様に口の中をもごもごさせるだけ。身体が硬って、上手く発音出来ない。喉奥から声を振り絞り、ようやく来訪の意を伝えることが出来た。実の家族と話すより、聞き分けの悪い入院患者の面倒を看る方が楽である。
「……お、お休みを頂いたので、お墓参りに来ました」
 母上は私の掌を温めるように、ぎゅっと握ってくる。瑞々しさが失われ、かさつく乾燥した皮膚。肉づきの良かった掌は、骨が出て角張っている。無常な時の流れを感じさせる老婆の掌は、思いのほか力強かった。
「名前、寒くないかい? ちゃんと食べているの? 来るなら電報の一本くらいしなさいな」
「ご、ごめんなさい……。急遽、だったので」
「お、おい、母上……」
 大兄上は私から距離を取りながらも、母上が取った行動に狼狽える。
 昔はぎこちない家族ではなかった。どこにでもありふれた仲の良い兄弟姉妹だった。歯車の車輪が軋み始めたきっかけは妹の病死。完全に歯車が狂ってしまったのは、私が女学生の頃だ。第七師団の将校様との縁談を、父上が持って来てからだ。
「とにかく、ここだと身体が冷えてしまうわ。さ、名前も一緒に帰りましょう」
「……母上が言うなら仕方ない。名前、早く来なさい」
 大兄上は深い溜息を吐き出す。吐き出された吐息は、白い靄となって、溶けて消えていった。
 大きな門が私を出迎える。五年ぶりの実家に足を踏み入れた。二階建ての入母屋いりおもや造りは、雪の重みを物ともせず、どっしりと構えていた。広い敷地内には、母家の他に離れが二棟ある。庭先にある大きな土蔵も健在だ。玄関先では、屋敷に奉公している女中達が待ち構えていた。
「まぁ、名前お嬢様!」
「お嬢様。荷物はこちらで、お預かりしますわ」
「え、あ……っ、大丈夫よ。自分でやるから」
「いいえ、いけません。これが私の仕事ですので」
 言葉尻は柔らかいのに、有無を言わせない強い意志。女中が半ば強引に羽織と襟巻き、手袋、手荷物を持って行ってしまい、私は手持ち無沙汰になってしまう。さぁ、こちらへと案内される。まるで他人の家に来た感覚を抱きながら、私は女中の後を追う。
 玄関から伸びる渡り廊下から、真白に塗り潰された中庭が見える。幼い頃は深雪降り積もる庭で、雪だるまや鎌倉を作って遊んだものだ。
 屋敷は和洋折衷の様式を取り入れている。応接間は襖を取り外せば、宴会場として使える広さだ。畳が敷き詰められた茶の間は、囲炉裏が設えている。茶の間の奥に二階へ続く階段がある。幼い頃の記憶と、ちっとも変わっていない。
 私はあれよあれよと、茶の間に案内された。出奔する前は何をするにも、彼女達が身の回りの世話をしてくれることが当たり前だったのに。今は居心地が悪くて仕方ない。慣れとは恐ろしいものだと思う。
「母上も大兄上も、お元気そうでなによりです。ところで義姉あね様のお姿がないのですが……お元気なのでしょうか?」
「……ああ。出産間近だから、今は里帰りしている」
「まあ! そうだったのですね」
「それで、急に前触れもなく帰って来たのは、何か理由があるのだろう? 何が目的だ」
「…… 茶の間ここでは、ちょっと」
 女中達の耳もあるし、隣の部屋には母上もいる。そんな場で、父上の件は尋ねにくい。埒があかないと思ったのか、大兄上は近くに控えていた女中に声をかける。
「君。悪いが私の書斎に、お茶を二つ持って来てくれ」
「はい。かしこまりました」
 大兄上は無言で立ち上がり、二階へと行ってしまう。私も急いでその後を追う。
 
 角度が急な階段を上がる度に、床板がギシッと軋む。二階は書斎や洋琴が置かれた部屋、西洋形式の応接室がある。渡り廊下を進むと個々の一室が連なり、一番奥に私の部屋がある。
書斎ここなら誰にも邪魔されない。さっさと言いなさい。私も暇じゃないんだ」
 かつて父上が使っていた書斎は、今は大兄上が使っている。革張りのソファに腰を降ろすも、何だか気持ちが落ち着かない。
「父上を殺した犯人は、今も捕まっていないと聞いています」
 単刀直入にそう言えば、目の前に座る大兄上のまとう気丈な雰囲気が一瞬だけ崩れる。私の口から、父上のことが飛び出るとは予想外だったのだろう。
 淹れたての緑茶を持って来た女中は、静かにお辞儀をして退室する。大兄上は口の中を潤すために、それを一口含む。緑茶のおかげで落ち着いたのか、彼はすぐにいつも通りの気丈さを取り戻した。
「ああ。当時、父上がどこで誰と何をしていたのか分かっていない。官憲の捜査も終わっている。今更、家出したお前が気にしているとは……。何を企んでいる?」
 私は風呂敷包みから、兄上が書き遺した日記帳を一冊取り出した。
「この日記帳に書かれていることに、お心当たりはありませんか?」
 大兄上はそれを乱雑に受け取り一瞥し、中身に目を通す。次第に顔を強張らせながら、日記帳と私の顔を交互に見遣る。
「こ、これは……」
「兄上は実家に数回顔を出した、と記載しています。何か・・を調べに来たのでは? 例えば、父上の過去とか――」
 パラ、とページを捲る指先が微かに震えている。
 日記の日付は、明治三三年一月。私が実家を出奔する少し前の頃だ。日記を食い入るように読み込む大兄上は、先ほどから一語一句拾い漏らさないように目を見開いている。いつも居丈高な態度の彼は、額から冷や汗が吹き出ていた。日記に書き遺された内容は間違いないと直感した。
 私は更に畳みかけるように問う。
「徳川幕府の埋蔵金――、函館戦争の軍資金・・・は父上と何か関係あるのですね?」
 肺の奥から絞り出された溜息が、大きく吐き出される。
「これは、あいつの日記か。名前……お前達二人は、どこでそんな話を……」 
 脱力した大兄上は、ひとまわり小さくなったように見えた。額に流れる冷や汗をハンカチで拭っている。
「やっぱり、大兄上はご存知だったのですね。この日記は鶴見中尉殿から、兄上の遺品として渡されました」
「そうか。鶴見中尉殿から……」
 大兄上は、誤魔化すことが出来ないと悟ったらしい。観念したように語り始めた。
「俺も詳しいことは知らないが、一度だけ父上が泥酔したことがあった。その時に、気になることを言っていたのだ。俺が生まれる少し前、父上が旧幕府軍の榎本艦隊に所属していたのは知っているだろう」
「はい。戊辰戦争に参戦したと聞いたことがあります」
 最後の将軍である徳川慶喜は、政の権限を朝廷へ返上した。大政奉還によって、二六〇年に及ぶ徳川幕府は崩壊。薩長は武力倒幕の大義名分を失ってしまった。

 慶応三年。倒幕の正当性を失った薩長の倒幕派は諦めなかった。再び主導権を握るために発令されたのが、王政復古の大号令である。
 翌年の慶応四年。鳥羽伏見の地で、戊辰戦争の火蓋は切られた。
 西国諸藩が中心となった明治新政府は、錦の御旗を掲げ――朝敵となった旧幕府軍の討伐に本格的に乗り出していく。士気も高い新政府軍の前で、旧幕府軍は歯が立たなかった。
 大坂城まで撤退を余儀なくされた旧幕府軍は、ひと足早く徳川慶喜を脱出させた。その際、軍艦と共に積み込まれたものがあったそうだ。
「その埋蔵金は、北海道で新政府軍を迎え討つための軍資金だったらしい」
 江戸城の無血開城後、新政府軍と旧幕府軍による戦いの火は、会津藩や東北諸藩にまで燃え広がった。江戸を脱出した榎本艦隊は、東北雄藩である仙台へ向かう。そこで形勢を整えようとしたが、東北戦争は敗戦の匂いが濃厚だった。
 東北、北越、会津戦争に敗北した旧幕府軍は、かつて蝦夷地と呼ばれていたこの地まで追い込まれる。新政府軍の勢いは、もう止まらない。
 鳥羽伏見の戦いから始まった戦線は、一年ほどで日本全土に広がったのだ。旧幕府軍は新政府軍の追撃を受けながらも北の大地に降り立ち、函館の五稜郭を攻略して蝦夷共和国を樹立する。行き場を失った旧幕府軍勢力による、事実上の政権である。
 榎本艦隊員として戊辰戦争に参戦し、遠路遥々やって来た父上にとって、蝦夷地はどんな風に映ったのだろうか。何を思って、雪深い土地に降り立ったのだろう。幼い頃、父上に昔話をせがんでも頑として語ってくれなかった。背中に残った火傷痕が、当時の熾烈な戦いを物語っていただけ。
「戦線が函館に移り、敗戦を感じ取った父上は、旧幕府軍を脱走したと仰った」
「え……?」
「父上が旭川市長になり、俺が銀行業を継いだ時に話してくれた。父上は珍しくも、大変酔っておられた。誰にも言えずに、ずっと胸の内に押し込んでいたのかもしれん」
 耳を疑った。喉奥に何かが貼りついて、上手く声を出すことが出来ない。絞り出した声は、あまりにも掠れていた。
「嘘ですよね……?」 
「俺も最初はそう思った。だけど、どうしても嘘を言っているようには見えなかった」 
 幕末の動乱に紛れた父上の秘密。父上が頑なに口を閉ざしていた理由。敵前逃亡は重大な兵規違反だ。その場で斬られてもおかしくない。あまりにも重い事実に、どう反応すれば良いか分からなかった。
 端的に言えば、茫然自失だった。幕末の動乱を戦い抜いた志士として、尊敬していた部分もあったから。今更、父上を責めたところで無意味だ。無意味だからこそ、胸に虚しさが広がるのだ。

 元号も慶応四年から、明治元年に改元された。父上は徳川の時代が終わったのだと、実感したのかもしれない。
 明治二年四月。待ちに待った雪解けの時期。新政府軍は、北海道上陸に向けて進軍を開始する。旧幕府軍は三隻の軍艦の内、一隻を新政府軍に拿捕だほされてしまう。
「函館湾の戦いが負けたと聞いて、父上は五稜郭から脱走したと仰った」
 函館戦争の最終決戦は、海から陸に移ることになる。 
 戦争勝利の条件。地理。戦費。人員。情報。外交――。様々な要因が上手く絡まってもたらされるものだと思う。時には勢いや運も、大事な要素なのかもしれない。そういった意味では、勢い良く波に上手く乗った新政府軍が勝利するのは、決まっていたのかもしれない。恐らく、錦の御旗を掲げた時から。
 旧幕府軍は、攻め入る新政府軍の最新鋭の武器に手も足も出ず、五稜郭へ撤退した。
「ところで……大坂城から積まれた軍資金は、どうなったのでしょうか」
 兄上と私は鶴見中尉殿から、函館軍資金の行方を調べるように、と命を受けているのだ。中尉殿が私達兄妹を名指しするということは、名字家が絡んでいるのは明白だ。
 大兄上は、言い難そうに口をもごもごさせた。バラバラの符号が一つになる瞬間。これで、鶴見中尉殿が知りたがっている軍資金の所在が明らかに――。
「……父上が軍を脱走する時に、一緒に持ち出したそうだ」
 四肢の末端が冷えていく。臓腑に冷たいものが流れ込む感覚。張り詰めた身体から、力が抜けていく。
 自軍を裏切るだけでなく、軍資金まで持ち出していたなんて。驚愕の事実に、思わず私は両手で顔を覆ってしまう。
「そんな……」
 半ば消え入るような声を出してしまった。
 兄上はこの事実まで、辿り着いていたのだろうか? 遺された日記帳には、何も言及されていないから分からない。
「どうして父上が……軍資金の保管場所を知っていたんですか?」
「大坂城を脱出した際、軍資金の管理者が父上だったらしい」
 自軍の資金を持ち去ってしまうほど、黄金は人を狂わす魔物なのだろうか。あいにく私には、莫大な黄金を手に入れて、成し遂げたい夢や願望などない。黄金のおかげで、鶴見中尉殿が幸せならばそれで良いのだ。
「そもそも男一人だけで、持ち出せる量だったのでしょうか」
「北海道に上陸する際、悪天候で軍艦が座礁してしまったことがあったらしい。その時に、半分は海の底に落ちたそうだ」
 大坂城から積み込まれた軍資金の半分は、今は冷たい荒波の底。誰の手にも届かない場所で眠っているであろう。函館軍資金と共に旧幕府軍を脱走した父上は、世情が落ち着くまで山奥に身を隠していたという。
「亡くなる前の父上は、どんな様子だったのですか」
 私は父上について、何一つ知らない。犯人への手がかりは、ないだろうか?
「……亡くなる数日前、父上は様子がおかしかった。落ち着きがないというか――顔色が悪かったのは覚えている」
「父上の遺体は首を絞められていたと聞いてますが、本当にそれだけしか手がかりはなかったのでしょうか?」
 私は父上の遺体を目にしていないのだ。遺体の様子を質問するのは憚られたが、何か糸口が隠れているかもしれない。
「……身元不明の遺体がある、と早朝に官憲から連絡が来たのだ。遺体の損傷は酷い有り様で、母上には見せられるものではなかった」
 いつの間にか、大兄上の表情は抜け落ちていた。
「顔が……潰れていたんだ」
 私は思わず息を呑んだ。ぞわっと何かが背筋を這い回る。カタカタと身体が震えてしまった。
「怨恨か……身元を分からなくするためか」
 猟奇的な内容と不釣り合いな淡々とした語り口調。それが余計に悍ましさを煽るのだ。
「……どうしてその遺体が父上だと?」
「火傷の痕だ。父上の背中には、戊辰戦争で負った怪我があっただろう」
 早々に火葬したのは、大兄上の判断だと言う。遺体から犯人へ繋がる情報は、何も出て来なかった。父上の遺体は損傷が酷く、そのままにしておくことが偲びなかったからだ。
「……きな臭いのだ」
「きな臭い、とは?」
 これ以上他に何があるのだろう。こういう場合、事態は更に悪い方向へ転がるのが関の山なのだ。
「ここから先は、俺なりに考えたことだが――世迷いごとだと思って欲しい」
 大兄上は、一旦言葉を切った。再び湯呑みの緑茶を飲み、ふぅと大きく胸中から息を吐いてから口を開いた。
「新政府軍の勢いに押されて、旧幕府軍から脱走する者が続出したのは事実だ。敵前逃亡は軍規違反だとしても、鳥羽伏見から苦楽を共にした仲間を、簡単に裏切れるだろうか。それに旧幕府軍には、新撰組副長である土方歳三もいたのだぞ。見つかれば命はない。それなのに、函館軍資金を持ち出して逃げることが出来たなんて、あまりにも都合が良すぎだと思わんか?」
 きな臭い正体。幕末の動乱の影に潜む、何者かの意志。
「……旧幕府軍の中に、父上の協力者がいたと?」
「確証も証拠もないが、そう考えた方がしっくりするのだ。もちろん、父上が自軍を裏切って逃げたなんて思いたくない気持ちもある」
「ですが、父上が軍を脱走した事実は変わりません」
 そう――この事実は梃子でも動かせない。
 私がそう言うと大兄上は、分かっているとぼそっと呟く。自身に言い聞かせるような口調の裏に、微かな苛立ちが孕んでいた。
 仮に大兄上の世迷いごとが事実だとしたら、誰が父上を手にかけた? 函館軍資金はどこにある? 分からない。芋蔓式に掘り起こされるのは、こたえではなく謎ばかりだ。

「名前。何故父上は、旭川ここを第七師団の拠点にしたのか考えたことがあるか?」
 北海道は広い。当時の旭川は函館や札幌、小樽に比べて未開だった。青々とした原始林が視界に収まり切らないほど茂る、緑豊かな土地であった。
「露西亜の南下に備えるためでしょう? 他の都市と比べて、四方に軍隊を派遣しやすい場所です」
 大兄上が言わんとする意図が見えない。
「それもあるが、土地が安かったんだ。明治政府は土地を奪われたアイヌのために、給与地として旭川を用意していた」
「……ちょっと、待って下さい! じゃあ軍資金は――」
 大兄上の憶測が、本当だとしたら。
 明治政府がアイヌのために用意した旭川。北海道の開拓は、迫り来る露西亜の脅威から守るために急務だった。父上は旧幕府軍から持ち出した軍資金を元手に、この広大な土地を手に入れたのかもしれない。
 明治政府の約束破りの片棒を担いでいた可能性。誰にとって、都合が悪いのか。
 仮にそうだとして、父上が殺される理由は何だったのか。背中に大粒の冷や汗を感じた。口腔内が乾き、上手く発音出来ない。それなのに、頭の中は熱い。
「父上を、殺したのは――」
「世迷いごとだと言っただろう!」
 震える言葉の先を言わせないように。大兄上は腹の奥底から発声した。ぐるぐると奈落の底へ堕ちていく感覚が消え、私は我に返る。
「俺が官憲に捜査継続を嘆願しないのは、父上の名誉のためでもある。再捜査となれば、父上の秘密が白日の元に曝されて、汚名を着せられてしまうかもしれん。いくら何でもあんな惨たらしく殺された後、更に辱めを受ける謂れはない」
「名誉って、一体何ですか……? 父親を殺されたかもしれないのに……」
「父上の反対を押し切って、出奔したお前が家族面か? 持ち出した軍資金でアイヌの土地を買い、政府に献上して用済みになったと証言しろと? そもそも証拠だってない。憶測でものを言ったら、ただじゃ済まないんだぞ」
 大兄上の意見は当然だが、証拠さえあれば話は別とも受け取れる。一旦、冷静にならなければ。
「……母上は父上の過去を、ご存知なのでしょうか」
「知らない。父上がこの話をしたのは、あの時だけだ。俺も口止めされた。下手に首を突っ込んだら、面倒なことに巻き込まれかねない。お前が何をしようとしているのか分からんが――」
 丁度その時、ノックの音と共に女中の声が聞こえた。
「旦那様。失礼いたします」
 彼女は静かに扉を開けた後、書斎に漂う緊迫した空気を感じ取ったようだ。私達二人の話を中断してしまった非礼を慌てて詫びる。
「お話の途中に、申し訳ございません!」
 踵を返そうとする彼女に、大兄上が声をかけた。
「いや……構わん。丁度終わったところだ」
 いつの間にか、窓から暗闇が覗き込んでいる。
「お夕飯の支度が整いました。大奥様もお待ちです」
 彼女の言葉に、私達はだいぶ話し込んでいたことに気がついた。長居しすぎた。持参した日記帳を風呂敷に包み、急いで帰り支度をする。
「名前は居間で飯を食べて来なさい。それと、今夜は泊まっていけ」
「……良いのですか?」
 大兄上の言葉は意外だった。私がこの家にいるのが嫌だろうと思って、今夜は師団道路にある旅館に泊まろうと思っていたのだ。
「母上が泊まらせろと、うるさいのだ」
 大兄上も母上を邪険には出来ないみたいだ。女中の後を追うように書斎を出る時、背中に一言だけ投げつけられた。
「俺達家族を、巻き込むようなことはしないでくれ」
 ぼつりと呟かれたその言葉には、様々な思いが込められていた。名字家の大黒柱として。これから生まれて来る命を守るために。
 私は大兄上を一瞥する。こちらに背中を向けていたので、どんな顔をしていたのか分からなかった。軽くお辞儀して、書斎を出る。彼にとっての家族という枠に、私はいない。蚊帳の外。父上に逆らって家を出た私の自業自得なのだから。
 私は、五年ぶりに実家で食事を摂った。何を話せば良いか分からなくて、無言で箸を口に運び続ける。まるで機械になった気分だ。
 看護学校で過ごしたこと。日露戦争に看護婦として従軍したこと。今は小樽の軍病院に勤務していること。色んなことを伝えたいのに、上手く言葉に出来ない。
 女中達は空になった皿に、せっせと食事を追加してくる。
「名前。一人でも、しっかりご飯食べているのかしら?」 
「はい。ちゃんと食べております。あの、母上。もうお腹いっぱいなので――」
「何言ってるの。もっとお食べなさい。今夜はあなたのために、沢山用意したのよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
 せっかく空にした皿に、女中が新たな食事を盛りつけてくれた。
 食事が終わっても、大兄上は一度も居間に降りて来なかった。多分私がいるから、別室で食事を摂ったのだろう。

「結局、お風呂まで入っちゃった……」
 満腹を超えた食事の後、お風呂も入りなさいと母上に言われた。小樽から旭川までの長旅。身体も冷え切っていたし、断る理由はなかったので入ることにしたのだ。
 実家なのに、居心地が悪い。
 かつて自室だった部屋は、家出寸前の時から何も変わっていなかった。大きな箪笥を開けると、女学校時代に来ていた着物や袴が綺麗に畳まれていた。勉強机には、文学書や教科書がそのまま並んでいる。大人の真似で買った香水や化粧品類もそのままだ。
 まるで部屋だけ、時の流れが止まったように感じる。だけど、埃臭さは微塵もなかった。寝台の布団も固くない。
 寝台にごろんと寝転び、寝台脇の机にある洋燈を点ける。橙色のじんわりした明かりが、暗闇に慣れた目に染みた。
 今日は疲れた。なのに眠れない。
 戊辰戦争。榎本艦隊。父上の過去。函館軍資金の在処。鶴見中尉殿から課せられた密命。尾形さんの監視。兄上の日記帳。アイヌの土地。父上を手にかけた犯人――。それぞれの符号が、頭の中を無意味に駆け巡る。妙に頭が覚醒して、気が狂いそうだ。
 凶暴な女郎蜘蛛は、一体何だろう。
 振り切るように、寝返りを打つ。
「尾形さん、大丈夫かしら」
 他にも受け持ち患者がいるのに、何故か彼のことが頭によぎった。食事の内容や量。点滴の種類。機能訓練内容全てを、同僚に引き継ぎしておいた。業務上は問題ないだろうが、私が不在中に何か動きでもあったら――。
 ゆうさくどの。
 花沢勇作少尉殿。兄上の日記に登場した人物が頭に浮かぶ。どこかで聞いたことがある音。はなざわ、ゆうさく。
『うう……ゆうさく、どの』
「あ――」
 尾形さんが魘されながら口にした名前だ。奇妙な符号に背筋が粟立ち、身体に氷水をかけられた心地だ。尚更眠れそうにない。寝るのを諦め、寝台から起き上がる。私は兄上の日記を開いて、該当ページを捲った。兄上と花沢勇作殿は、陸軍士官学校の先輩と後輩だった。
 尾形さんと花沢勇作殿は、一体どんな関係なのか。兄上の日記には、どこにも言及されていない。何か切り札になるかもしれない。褞袍を羽織り、洋燈を手に持った私は自室を出た。
 向かった先は、兄上の部屋だ。私の部屋と同様、何も変わっていない。当時の面影が色濃く残っている。きっと母上が当時のままの状態が保てるように、毎日欠かさず掃除をしているのだろう。小さな背中を丸めた母上の哀愁漂う姿を想像して、私は言葉を失った。居心地が悪いだなんて最低だ。誰かに叱責して欲しかった。
 桐の本棚に陳列された写真アルバムが目に入る。花沢勇作殿の手がかりが、残っているかもしれない。私はアルバムを手に取り、一ページずつ捲る。そこには、陸軍士官学校時代の思い出が詰まっていた。数人の同期と撮ったのだろうか。それぞれの写真の下に、兄上の直筆で名前や撮影地が記されている。
 何度もページを捲り続け、新たなアルバムを手に取る。兄上の後輩だった彼も、きっとアルバムの中にいるはずだ。洋燈の明かりを頼りに、私は一心にページを捲り続け――。
「……あった」
 どきりと心臓が高鳴った。
 何冊目か分からなかったけれど、目的の人物が写った写真を見つけ出すことが出来た。二人の青年がにこやかに笑っている。どこで撮った写真だろうか。
 東京見物。不忍池ト桜。勇作殿。
 兄上の筆跡で、そう記されていた。私も東京で暮らしていたので、上野公園の桜は見たことがある。桜の名所で春になると、花見客が押し寄せて大層賑わうのだ。
 兄上の隣で控えめに微笑む青年と、尾形さんがどう繋がるのか。この写真からは何も読み取れない。洋燈で手元を照らしてみるが、勇作殿と思しき青年は軍帽を目深に被っているせいで顔立ちはよく分からなかった。写真の中にいる彼らは、無言で私に微笑みかけるだけ。ひとまず私は、この写真を持ち帰ることにした。尾形さんへの切り札に成り得るかもしれない。

 ふぅと一息吐く。漸く冷静になって辺りを見回せば、文机の引き出しは開けっ放しでアルバムなどが散乱していた。一体私は夜中に、何をしているのだろう。虚しい気持ちを抱きながら後片付けをしていると、窓から庭の片隅にある大きな土蔵が見えた。月明かりに照らされたそれは、巨大な化け物のようだ。
 子供の頃、一人で土蔵の中を探検していたら、父上に激怒されたことがあった。暗くて危ないから入るなと言われ、鍵をかけられてしまったのだ。それ以降は土蔵に入ることはおろか、近寄ることも出来なくなってしまった。そんなことがあったのを、すっかり忘れていた。
 底冷えする夜闇の中を、慎重に歩く。お風呂で温まった身体は、あっという間に冷えてしまう。土蔵の扉は重くて開けるのに一苦労したが、何とか中へ入ることが出来た。施錠されていなくて良かった。
 物置きと化した蔵の中は埃くさい。埃を吸い込まないように、ハンカチを鼻先に覆う。歩く度に床の上に積もった埃の感触が、雪下駄越しでも分かった。直近で、誰か足を踏み入れた痕跡は――なさそうだ。床に厚い埃が溜まっているのが証拠である。
 真っ暗な土蔵の中を、私は洋燈を翳してあちこち眺めた。子供の頃は広く感じたのに。大人になって目線が高くなったからか、当時の感覚に違和感を覚えてしまう。
 ぼんやりとした明かりの中、掛け軸や大小様々な箪笥が浮かび上がる。巻物らしき物が、所狭しと積まれていた。足の踏み場はない。記憶通りだと、奥の方に二階へ続く階段があったはずだ。
「こんなに急な階段だとは思わなかった」
 当時は身体が小さかった分、小回り出来たのかもしれない。
 急勾配の階段を登り切る。二階も一階と同様の有り様だった。足の踏み場を探しながら奥へ行くと、ずっしりした造りの金庫がこれ見よがしに放置されている。
 父上が激怒した理由が、この金庫の中にあるかもしれない。確認しないわけにはいかなかった。ごくりと生唾を飲み込み、小ぶりの取っ手を掴む。扉が軋み、中身が曝される。
「……空振りか」
 分厚い埃が積もっているだけ。空っぽだった。幼い頃の記憶を頼りに、土蔵に来てみたが無駄だったようだ。八方塞がり。まるで暗礁に乗り上げた気分だった。鶴見中尉殿に、どう報告すれば良いだろうか。
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