絡新婦

 二階堂を伴い、病院の裏庭に出る。看護婦や医者に出くわすことはなかった。病院内のどこに診察室があって、人気が少ない場所など頭に入っている。相変わらず外の空気は冷たい。辺り一面雪が高く積もっているが、ここは屋根があるおかげであまり積もっていない。名字の小言を受け流しながら、廃用防止の名目で病院内を散策していた時に見つけた。人の目が届かないこの場所は、密談するのに打ってつけである。
 兵営で支給された煙草を口に咥え、マッチで火を点ける。ツンとした燐の匂いの後、煙草特有の紙臭い匂いが広がる。二階堂は気怠げに煙を吐いた。
「尾形上等兵が煙草を吸うとは珍しいですね。兵営内では、あまり吸わなかったのに」
「ここの一日は、長くて暇なんだよ」
 軍での生活が遠い昔に感じる。起床点呼から消灯まで目まぐるしかった。日中や夜間の軍事演習。班員への教練。食料運搬車の検査から練習用具準備などの雑務。宇佐美と一緒に時々サボり、谷垣達へ押し付けたりした。通常業務に加えて、鶴見中尉の命で、アイヌの金塊探しや裏仕事もこなした。

 それに比べて病院の生活は穏やかだ。寝坊してもうるさい小言だけで終わるし、味の良し悪しは別にして――何もしなくても、勝手に飯が出る。
 上官達に目をつけられた兵卒が、夜な夜な物置小屋に呼び出されて行なわれる通過儀礼いう名の暴行や体罰もない。師団長の落とし胤ということもあり、俺は上官達から目をつけられて、沢山の青痣や生傷を拵えたものだ。
『百之助は銃しか脳がない』
 宇佐美から、よく揶揄されたものだ。
 一等卒から上等兵に、抜擢された時は酷かった。周りから、山猫と陰口を叩かれるくらいだ。俺自身のひん曲がった性格も災いして、気に食わなかったんだろうが、知ったこっちゃねぇ。俺はそいつらを返り討ちにしてやった。
 通過儀礼は時に興が乗り過ぎて、性的暴行まで発展することもある。消灯後に隠れて煙草を吸いに兵舎を彷徨いていたら、そういう場面に出くわしたこともあった。物陰に隠れて盗み見したが、あれは見ものだったな。

 話は逸れたが、病院では機能訓練と散歩以外やることがない。おまけに頻繁に見舞いに来る輩もいない。ぼんやり外を眺めて、いつの間に居眠りしていることが多い。
 紫煙を燻らせながら、大きく空気を吸い込む。苦味のある香りが口腔内を通り、肺の奥まで満たす。寒い日に吸う煙草は美味い。
「狙撃手は煙草の臭いで標的に居場所が割れてしまうから、吸わないって聞いたことがありますが……」
 ふぅと青白い煙を深く吐き出せば、一筋の糸が冷たい空気に乗って流れた。
「煙草の臭いで狙撃出来ないなら、そいつは狙撃手とは言わん。俺は、煙草の臭いで居所を標的に露見するヘマはしない」
「はぁ……、そうですか」
 二階堂は、どうでも良さそうに返事をした。午後の日差しに、ぷかぷかと薄い煙が揺蕩う。この男は上官に対して、ぞんざいな態度を取ることがある。
「今更ですが、怪我人なのに喫煙して看護婦に怒られたりしないんですか?」
 その言葉に、名字が脳裏によぎる。人目を忍んで、勝手に喫煙しているところを見られたら、うるさい小言を零すだろうな。
「……構わん。今はモルヒネ女が留守だから良いんだよ」
「……モルヒネ女?」
 何食わぬ顔で嘘を言う女だ。今頃どこで何をしてるのか、分かったもんじゃない。
 咥えたままの煙草は、先端からじわじわ燃える。灰がボロッと崩れ落ちた。あの女のことより、さっさと本題に移らなければ。
「師団内の状況を教えろ」
 二階堂は大きく煙を吐き出してから、おもむろに口を開く。
「“ふじみ”の三文字ですよ。尾形上等兵の身に何が起こったのか調べるために、玉井伍長は数名の部下と一緒に山に行ったきり行方不明です。不死身の杉元に殺られたんだ」
「玉井伍長の他に、誰が行方不明だと?」
「野間と岡田、それと谷垣の三名です」
「……谷垣源次郎一等卒」
 かねてから玉井伍長は、谷垣を造反組に引き入れようとする節があった。谷垣は阿仁マタギの出身で、真面目な男である。アイヌの金塊争奪戦で、鶴見中尉を出し抜こうという話には乗ってくる男ではないと、何度も釘を刺したのだが。
 谷垣は山での生き方を熟知している。遭難するとは考えにくい。おおかた谷垣への交渉が失敗して、三人とも殺されたと考えた方が良い。そうであれば――。

「鶴見中尉に筒抜けの可能性があるな」
 さて、鶴見中尉はどう動くのか。
「それにしても、凄い傷を拵えましたね」
 俺は頭から顎にかけて巻かれた包帯をずらした。立派な縫合痕を、二階堂に見せつける。
「うわぁ……痛そう」
 まだ赤く腫れる縫合痕を見せられて、二階堂は不快げに顔を歪ませた。期待通りの反応に俺は満足する。
「そりゃあ、痛てぇに決まってるだろ」
「鎮痛薬はちゃんと服用しているんですよね?」
「いや、していない」
「……正気ですか」
 呆れ顔の二階堂は、ひたすら煙草を燻らす。やはり上官に対しての物言いではなかった。
 正気であれば、欲望渦巻く金塊争奪戦に関わらない。せっかくあの戦争から生きて帰って来れたのに、呪われた金塊を巡って再び命のやり取りをしようなんて正気の沙汰ではない。この争奪戦に参加するのは、俺と同じで帰る場所をなくしたならず者達か、何かが欠けたままの奴らだ。
「まんまと杉元に逃げれた鶴見中尉は、今どうしている?」
「杉元の捜索は切り上げて、刺青脱獄囚の行方を探ってます。この近辺で惨殺された遺体が見つかっており、噂によると網走脱獄囚の仕業ではないかと……」
 二階堂によると、遺体の状態が不可解らしい。刃物で『目』の文字が刻まれていた。鶴見中尉は噂の真偽を確認するため、捜索隊を方々に放っているという。鶴見中尉が犯人を確保するまで、どのくらい時間を要するか分からないが、官憲も行方を追っているはず。中尉の目が逸れている内に、ここから脱走した方が良さそうだ。怪我が完治するまで、悠長に構えていられないかもしれない。

「二階堂。俺は見ての通り、まだ自由に動けない。腕と顎が完治するまで、ひと月かかるだろう」
「そうでしょうね」
 俺はこれ見よがしに、ギプスで固定された右腕を見せた。二階堂は、退屈そうな顔で間延びしたように呟く。
「鶴見中尉の意識が、その殺人犯に向いている隙を突く。それまでは師団内の情報を可能な限り持って来い――と言いたいところだが、軍病院ここも安全じゃないからもう来るな」
「……どういう意味ですか?」
「俺の勘だよ」
「……尾形上等兵。あんたの勘が当たっているなら、色々と詰んでいるのでは?」
「詰んだ相手と一緒に逃避行しようとするお前は、とんだ酔狂な野郎だな」
 俺は喉奥で低く嗤う。
 名字に関して決定的な証拠はないが、多崎婦長が口にした“彼女の現所在”は無視出来ない。頭の隅で引っかかるのだ。もしかしたら俺は、何か大事なことを見落としているのかもしれない。
 鶴見中尉の影がちらつくのだ。多崎婦長もしくは名字のどちらかが、中尉と繋がっている可能性は否めない。分かっていることは、俺の立場は芳しくないということだ。
「ともかく、師団の状況を知らせろ。牛乳で記せ」
「牛乳……ですか?」
 牛乳で記された紙を下から火で炙ると、文字が浮かび上がるのだ。文字を炙り出す連絡手段が、樺太かどこかの監獄で使われているらしい。以前鶴見中尉から耳にしたことがあった。二階堂は怪訝な顔をしたままだ。
「必ず知らせろ」
 話はこれでしまいだと言うように、俺はつま先で煙草を捻って揉み消す。真白な雪に、黒々とした灰が滲む。二階堂に背を向けて左手をひらひらと振り、俺はその場を後にした。そろそろ病室に戻らないと、婦長に怪しまれるかもしれない。おちおち寝てもいられなくなった。空は憎らしいほどの晴天だった。

 翌日。朝食後に、多崎婦長が包帯を交換しにやって来た。相変わらず無愛想な女で、見ているだけで気が滅入ってしまう。多崎婦長は眉ひとつ動かさずに、骨折した右腕の包帯を取り替える。
「名字はいつ戻る予定だ?」
「彼女は明後日から出勤します」
「じゃあ明日まで、あんたの無愛想な顔見て我慢しなきゃいけないのかい」
「……彼女のことが、気になるのですか」
 多崎婦長の眉根が神経質に小さく動いた。彼女の口調や語尾から察するに、名字のことを良く思っていないのだろう。女同士のくだらねぇいざこざに興味ないが、上手く利用して出し抜けるかもしれない。
「あの女は、俺の担当看護婦だからな」
「尾形さん。彼女には気を付けて下さい」
「気を付けろと言われても、俺はあの女のことを、何一つ知らない。げんに俺は、彼女から数日休むことも聞いていないんだぜ。あんたは何か知っているのか?」
「実は……彼女は一度、この病院で問題を起こしているのですよ」
「へぇ……、殺しか?」
 多崎婦長の口許がもごもごする。話そうか迷っている様子だ。名字に対して、妬みなのか僻みなのか判別つかないが、女の職場ならではの鬱憤は溜まっている様子だ。もう少し突けば、案外あっさり口を割るかもしれない。
「そんな恐ろしい女には見えないがなぁ? おい、詳しく教えろよ」
「人は見かけによりません」
 短く息を吐き、居住まいを正して語り始める。
「半年程前、彼女の受け持ち患者が一人消えたのです。尾形さんと同じ第七師団の兵士がこの病院に入院し、ひと月ほど療養していました。時々、平服を来た坊主頭の男が彼女を訪ねて、二人が宿直室に入って行くのを見かけたこともあります。病院の一角にある花壇を整備したのも、その男と彼女です」
「芥子の花か」
「あら、ご存知でしたか」
「今後の軍需に備えて、試験的に栽培しているんだろう? 名字本人から聞いた」
「軍部から病院上層部に、話が降りてきたそうです。名字さんを指名してきました」
 国として芥子栽培は、使用や売買を含め重い罰則規定が定められている。増税だけでは、日露戦争の戦費が賄えなかった。結局、海外から多額の金額を借り入れるしかなかったのだ。返済に苦慮している今、儲け話となれば話は別だ。白い花を咲かせる美しい花。第七師団絡みの依頼だと考えて良い。背後にいるのは、鶴見中尉死神だろう。

「あんたを差し置いてか」
 名字が病院内で、上の立場とは思えない。医者や多崎婦長のように、誰かに指示している場面は見たことないからだ。他の看護婦と同様、患者の面倒に手を焼いたり受付や事務処理、洗濯などに勤しんでいる。患者や看護婦共と、雑談するところも見かける。一見すると普通の看護婦だ。だからこそ、隠れ蓑になる。
「自分より下の人間が抜擢されて面白くねぇってか?」
 多崎婦長は黙ったので、どうやら図星のようだ。名字に対して、この女が抱える感情の正体が何となく分かった。男だろうと女だろうが――軍人も看護婦も大差ない。人間であれば誰もが持ち得る感情なのだ。俺は口の端が緩まないように意識する。
「平服の男も、俺と同じ第七師団だ。軍服では目立つから、見舞い客を装って平服で来たのだろう」
 名字を訪ねた男の名前は知らないという。それにしても、坊主頭に平服か。軍服を脱いでしまえば、みんな見ためは同じ。鶴見中尉の配下は、およそ一〇〇名だ。それぞれ通常業務の傍ら、中尉の命で刺青人皮や金塊の行方を追っている。俺ですら、顔と名前が一致しない輩は大勢いる。
「きっと宿直室で、患者の動向を報告したり計画を練っていたに決まってますわ」
 病院で起きた詳細を聞いてみると、話はこうだった。
 名字が宿直日の夜、患者は跡形もなく消えた。宿直明け、頭に包帯を巻く名字は消えた患者の退院手続き書類を持って来たという。
「死体は見たのか?」
「いいえ、見ておりません。ですが不審に思ったので、死体安置室に行きました。もしかしたら、と思いましたので。該当患者の死体はなかったものの、シーツが何枚か足りなくて。それに、よく見れば床に血痕を拭き取った跡が残っていましたし、焼却炉を覗いたら燃え残りのシーツの切れ端がありました。血痕が染みついていたので、私は名字さんを問い詰めたんです」
「彼女は何て?」
 話し出す前は渋っていたが、喋り出すと止まらない様子を見るに、相当腹に据えかねているようだ。先を促すと多崎婦長は頬を紅潮させるが、冷静さを保とうと必死だった。感情の起伏がない女だと思っていたが、どうやら俺の思い違いらしい。
「退院前に上官から極秘に召集がかかって、どうしても今すぐ退院したいと懇願されてやむなく書類を作成した、と。死体安置室と焼却炉のシーツは、別の遺体を清めるために作業をしていたら、滑って転んで頭を打ったから手当てで使ったと言われました。よくもまぁ、抜け抜けと!」
「あんたは彼女の言い分に、納得していないわけだ」
「もちろんです。こんな事態はあってはなりません。病院上層部に報告しても、彼女にお咎めはありませんでした。あの出来事は、黙認されたのです」

 語る内に激情を抑えられなくなったらしい。握り締められた拳は、小刻みに震えている。多崎婦長が抱える名字への感情は、俺に言わせれば実にくだらないものだ。自分より下の者が、国の金策に抜擢された。しかも上司として、かつての不正が暴けなかった相手である。
「ですから、尾形さん。名字さんには気を付けて下さい」
「……俺が彼女に消されると?」
「用心するに越したことはありませんよ」
 名字を揺さぶれる証拠があれば、出し抜けるかもしれない。
 彼女が持って来た露西亜文庫本。戦死した兄の所持品だと言っていた。俺は擦り切れた文庫本を多崎婦長へ見せると、怪訝そうな顔をされた。
「どうしたんですか、この本。外国語、ですか?」
「名字の兄の物だそうだ。彼女について何か聞いているか? 例えば兄のこととか」
「彼女は身内のことを話したがりません。旭川に実家があるというのも、今回初めて知りました」
 誰にでも、触れられたくない脆い部分はある。血の繋がった家族。俺にとって勇作殿がそうであるように、名字にとっても他人に踏み込まれたくない領域なのか?
「私が探りを入れてみましょうか」
「……あんたと名字は仲が悪いんだろ? 警戒して何も言わんと思うがな」
 そう言うと、多崎婦長は不服そうに黙る。下手に行動を起こされて、彼女に露見したら俺が困るのだ。妙なことはするな、と念のため牽制しておいた。
「……少し長居しすぎましたね。今の話は二人だけの秘密ですよ」
 多崎婦長は人差し指を唇の前に持っていく仕草をした。俺にこんな話を聞かせた理由は至極簡単だ。名字が留守の内に俺を使って、粗探しする魂胆なのだろう。馬鹿らしい。女の敵は女だぞ。ここにいない名字に向かって、俺は心の中で言い放った。

 多崎婦長の言う通り、名字は翌々日に出勤した。彼女の様子に変わったところはない。休暇後の引き継ぎに、てんてこ舞いだと言っている。
「尾形さん、婦長から聞きましたよ。私がお休みの時に、機能訓練を拒否したって」
「顎が痛むのが……嫌だったから」
「ほら。やっぱり硬くなってます。駄目ですよ、サボったら」
 数日ぶりに受ける下顎を解す指圧は痛くて、俺は思わず眉根を寄せてしまう。彼女は俺の些細な表情の変化を見逃さなかった。
「ちゃんとモルヒネを服用して下さいって、言っているでしょう? これで服用する気になりましたか?」
「いらねぇって言ってるだろうが」
 あぁ――我儘な子供ガキに手を焼く母親みたいな図式とは、こういうことを言うのかもしれない。
 母との温かい思い出は何だったか。辛うじて思い出せるのは、子守唄を歌ってくれたことくらいだ。会いに来てくれない父のことで、少しずつ頭がおかしくなっていく母を近くで見るのは、子供ながら辛いものがあった。

 幸次郎様――。
 母はいつも虚な目で空中を見つめながら、愛する男の名前を呼んでいた。俺が母の関心を引くために獲った鴨は、ことごとく無視され続けた。茨城の田園風景の中で見た光景が、未だに網膜の裏に残っている。近所に住む同じ年頃の子供達と、その母親達の姿だ。
 駄々を捏ねたり悪戯をした我が子を、母親は咎めたり叱りつけるのだ。時には我が子と手を繋いで歩いたり、小さな頭を撫でたりする。子供を見つめる母親の目は、どれも穏やかで柔らかく慈愛に満ちていた。
 あの光景が祝福ということを理解したのは、物心ついてしばらく経った頃だ。母の瞳に俺が映る余地はなかった。赤の他人の母親達が取る行動原理が、理解出来なかった。でも今なら――少しだけ分かる気がする。
 遠い記憶を手繰り寄せて、俺の看護をする名字名前と、赤の他人の母親達を重ねてみる。俺は――あの光景が羨ましかったのかもしれない。
「いつもは痛いのを我慢するのに、どうしちゃったんですか」
「あんたが数日間、いなかったからな。俺の看護担当なのに、休むなら前もって言ってくれても良かっただろ?」
「ごめんなさい。尾形さんには、ちゃんと言ったと思ってたんですよ。婦長に怒られました」
 眉根を下げて困ったように笑う女。あたかも、思い違いをしたと言い張るらしい。そう言われてしまえば、こちらも仕方ないと言わざるを得ない。どうやって突けば、上っ面を崩せるだろうか。
「俺はてっきり関東まで行ったのかと思った。実家は旭川なんだってな。多崎婦長から聞いたぜ」
「……ええ。日露戦争が始まる頃、両親だけ旭川に引っ越したんです」
「……なるほどな」
 試しに多崎婦長という単語を出してみると、指圧を施す彼女の指が少し強張ったのを肌で感じた。だがそれは一瞬の内で終わり、何もなかったように指圧が続く。

「名字さん! 急患が来たから、搬入するのを手伝って!」
 沈黙の中、一人の看護婦が名字に声をかけて立ち去った。慌てて去って行く看護婦の後を追うために、彼女は指圧を切り上げる。
「尾形さん。私、行きますね」
 下顎から離れる女の手を掴めば、不思議そうに俺を見る視線とかち合う。慈愛に満ちた顔の下に、一体どんな顔が隠れているのか興味が湧いた。
「お、尾形、さん……?」
「お前の兄は、本当に第一師団だったのか?」
 穏和な表情が瞬時に抜け落ちた女の顔は、まるで亡霊みたいだ。俺は下から覗き込み、答えに詰まっている名字へ、更に追い討ちをかける。
「所属聯隊はどこだ?」
「わ、私、患者さんのところに――」
 逃げようとする名字の両手をきつく握り締めた。俺よりも小さい掌は、少し体温が高めだ。手の甲は乾燥気味で、皸が出来ている。
「……ほう、答えられないのか?」
「い、痛っ! ……は、離して下さい! 離して――」
 嘘でなければ、容易に答えられるだろう?
 じとっと睨みながら、逃さないように掴んだ掌に力を込めると、名字は痛みに眉を歪めて小さく呻く。俺の手を力任せで振り解こうとした反動で、潰れた蛙みたいにべしゃっと尻餅を着いてしまう。寝台の上で胡座をかく俺は、無様な有り様の彼女を見下した。掌を摩る女の姿は、さながら肉食獣に生殺与奪権を握られて、怯える小動物を彷彿させる。
 弾けるように立ち上がった名字は、無言のままお辞儀して逃げるように病室から出て行った。パタパタと駆け足の音が次第に遠くなり――病室はしんと静まり返る。しばらくすると、廊下の先から看護婦共の忙しない声が漏れてきた。急患の対応をしているのだろう。

「少し虐めすぎたか。もう少し楽しめると思ったが」
 あからさまな反応だったなと、鼻先で嘲笑う。さて惰眠でも貪るか。ごろんと横になろうとして、ふと寝台脇に何かが落ちているのに気がついた。
「……何だ?」
 元は白い布だったのだろう。丁寧に縫われた長方形の小袋は、赤黒い染みで汚れていた。ところどころ破けているし、紐は擦り切れていた。血痕だろうか。損傷が激しいそれを、屑籠へ放り込もうとして――止めた。俺はこの小袋を、前に見たことがある。そして、持ち主を知っている。
『まさか少尉殿にい人がいたとは、思いませんでしたな』
『違うんだ、あれは私の妹だよ。出征する前に、御守を作って持って来てくれたんだよ』
 はにかみながら彼は、小さな手作りの白い御守を見せてくれた。俺はそれを一瞥する。
『そうですか。じゃあ…… そういうこと・・・・・・にしておきますよ』
 妹だろうが恋人だろうが興味ない。他人の色恋なんざ興味なかったから、当時は適当に受け流して踵を返した。
「……ははっ」
 伸びてきた髪を撫でつける。口端が歪み、思わず冷たい笑みが溢れてしまう。
 死神め。また余所見をしたな。
 腹の底からむずむずと競り上がる嘲笑。嗤い声を呑み込もうと、奥歯をぎゅっと噛んだ。抗い難い欲望に似た感情は、簡単に抑えることは出来ない。
 病室に仄暗い嗤い声が響く。
 愚の骨頂だ。
 死神の掌で無様に踊る道化師は、馬鹿で滑稽で――いじらしいではないか。未だに俺も、あの男の手中にいる。

 この感情は安堵か。それとも嫉妬なのか。声を抑えるために、腰を折り曲げるだけで精一杯だ。くつくつと嗤う度、強張る表情筋と共に下顎の縫合痕が引き攣ってしまう。ひりひりと痛むが、どうでも良かった。今の俺は、とても凶悪な顔をしているのだろう。
 無償の愛。即ち、祝福。
 人の命を預かる看護婦は、果たして人の命を奪うことが出来るのか。この世に清い人間がいるはずない。否、いて良いはずない。一皮剥いてしまえば、みんな同じだ。
 消毒臭い病室に、二〇三高地で嫌というほど嗅いだ硝煙の臭いがする。忌々しい。目障りだ。俺は寝台脇の椅子へ声をかけた。
「勇作殿。まだ俺のそばにいるなら――よく見ておけ」
 名前は無償の愛を、俺に向けてくれるだろうか。
 白衣を纏う偶像を穢してやりたい。柔和な顔の下に隠された本性を暴きたい。常世の秘密に触れてみたい。
 鶴見中尉がお前の首、手足や胴体に巻きつけた呪縛を断ち切ってやりたい。誰からも祝福されない俺によって、家族に祝福されて育った女の世界がぶち壊された瞬間、一体どんな風に顔貌を歪めるのだろう。
 そしてあわよくば――俺と同じところへ、堕としてやりたい。そうすれば勇作殿は、俺の中から消えてくれるかもしれない。どうしても、試してみたくなった。
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