14

「何よ、この記憶……」
 目の前で繰り広げられる、無意味な殺人行為。胸焼けがして、吐き気がする。これは誰の記憶だろう。
 私はあの光景を、見たことがある。診療所の地下室で――イェレナは粛々と造反した義勇兵達を口封じしていた。
 記憶が混濁しているのだ。本物の私が目にしていた記憶と、あったかもしれない世界線の記憶。
「あれは私だ……」
 養父に拾われずに生きて来た、もう一人の私。殺人行為に一切躊躇はなく、何処か遠くの場所を夢想する瞳だった。
 自白剤が魅せる幻影だろうか?
 本物の私は義勇兵の会合場所として、診療所の地下室を提供しただけ。扉の隙間から、イェレナの演説を聴いていたに過ぎない。彼女は私の秘密をチラつかせ、義勇兵の会合場所を提供しろと脅したのだから。
「私の秘密って……何?」
 大事なことを、忘れている気がする。私が私たり得る何かを。
「ナマエ。マーレ人でいる気分は、いかがですか?」
「イェレナ?どういう……意味?」
 手に握るのは鉄の塊。殺人道具は掌に馴染まない。硝煙の匂い。足元には、仲間だった者が事切れている。
「おや、忘れてしまいましたか?大丈夫。私が思い出させてあげます」
 イェレナは薄い冷笑を浮かべたまま。そして、そっと背後から抱き締めてきた。
「この世界に、亡国の民が生きる場所はありません。あなたには、マーレの奴隷になる道しかなかった」
 そうだ。ある日突然、私の世界は壊された。必死に逃げて、抵抗虚しくマーレ軍に捕まった。帰る場所を踏み付けられ、生きる希望も根こそぎ削がれたのだ。
 残ったのは、マーレと巨人への憎しみだけ。
「絶望に打ちひしがれるあなたを、ミョウジ軍医大佐が救ったのです。彼からマーレ人として、生きる術を教わりましたね」
「お養父とうさん……」
 マーレ人として必要な教養。振る舞い。思想を教わった。全ては、マーレで安全に暮らすために。同じ境遇の義勇兵達に比べれば、私はとても運が良かった。そう、ただ単に運が良かっただけ。
 浅はかな私は、その事実に今まで気付けなかったのだ。
「そして努力の甲斐あって、軍医という立派な立場を手に入れました」
「それが、私の秘密……」
「あなた達は、マーレを騙したのです」
 耳へ触れるように囁く声。胸に広がる厭な騒めき。喋るのが苦しい程、呼吸が乱れていく。
「本物のナマエは、どちらでしょう?」
 人の命を救う私と人の命を奪う私。
「――やめて!」
 周りを見渡せば、青白い月光に照らされる見慣れた寝室だった。心臓が破裂しそうな程、鼓動している。
「おい。どうした?」
「クルーガーさん……」
 クルーガーは心配そうに、私を覗き込んでいた。

14.業報

 物凄く生々しい夢だったのに、全身に広がる痛みはない。ほぅと深い息を吐くと、酷い冷や汗をかいていることに気が付いた。
 物音一つしない静寂に混じる、私の荒い吐息。
「大丈夫か。魘されてたぞ」
「……恐い夢を見てしまって」
「恐い夢?どんな?」
 クルーガーの腕の中へ身を寄せる。背中に腕が回され、安堵感に包まれる。強張る身体から力が抜けた。セミダブルの寝台は、二人だと狭い。
「あれ……?何だっけ……」
 夢とは思えない程、生々しかったのに。ぽっかりと記憶が抜け落ちている。忘れてしまえるなら、大した夢ではなかったようだ。
「クルーガーさんは、また眠れないの」
「俺のことは気にせず、あんたは寝てくれ」
「じゃあ、少しだけお話しましょう」
 クルーガーは、寝付きが良くない。私が夜勤明けで軍病院から戻ると、一睡もしていないことが多かった。以前二人で海へ外出した夜に、寝言で謝っていたが――何か関係あるのだろうか。
 彼が眠れない夜は、二人で取り留めない話をする。思い返せば、束の間の穏やかな時間だった。
「あなたの幼馴染の話が聞きたい」
「急に何だよ」
「海を見に行った時、幼馴染の話をしてくれたでしょう?二人の幼馴染がいるって。どんな人達なのかなって……」
 クルーガーは、ゆっくり語り始める。思い出を掘り起こしながら。
「丘にある木に向かって駆けっこしたり、隠れんぼしたり……外の世界について書かれた本を読んで、一緒に胸を躍らせた。近所にいる年上のガキ達と、いつも喧嘩ばっかりしていたっけ」
「クルーガーさんは、喧嘩は強かったの?」
「いや……俺よりミカサの方が強い。俺は負けん気だけは強いけど、負けてばっかでミカサに助けてもらっていた」
「ミカサって、どんな子なの?」
「前に話しただろ、強盗に親を殺された子供だ。あの出来事の後、俺の家族と一緒に暮らすことになったんだ。ミカサは何でも卒なくこなしちまう。自分のことは二の次で、いつも俺のことばかり心配する。後先考えず突っ走る俺の後を着いて来て……守ろうとするんだ」
 時には命すら惜しまない彼女の行動に、クルーガーはもどかしい思いをしたそうだ。
「……守られてばかりは嫌だった。本当は俺の手で守りたいのに、自分が情けなくて悔しかった」
 柔らかい語り口調だ。私は口を挟まず、静かに続きを促す。
「もう一人の幼馴染は、アルミンっていうんだ。アルミンは、外の世界に憧れて……よく虐められていた」
 アルミンが他の子供達から虐められ、クルーガーが止めに入る。だけど上手く収拾がつかず、最終的にはミカサが強引に喧嘩を終わらせていたらしい。彼ら三人の日常だった。
 子供時代の話をしている時、クルーガーの表情はとても穏やかだった。在りし日の記憶を懐かしむように。
「一緒に海を見に行こう。夢を語る時のアルミンは、いつも目を輝かせていた。俺は母親が巨人に喰われて、幼い頃の夢すら忘れていたのに。アルミンは、どんなに絶望的な状況でも、希望を見失わない。誰よりも勇敢だ」
 いつも激情を滲ませる彼とは、似ても似つかない。こんな優しい顔も、するんだなと思った。共に長い時間を過ごして築かれた、揺るがない関係性が垣間見える。会ったこともない彼の幼馴染が、少しだけ羨ましいと思ってしまった。
「……大事な人達なのね」
「あいつらがいるから、俺は今もここにいる」
 クルーガーは泣き出すのを堪えるように、唇を噛み締めるのだ。三人の間に、何があったのか。それぞれの道は、訣別してしまったのだろうか。クルーガーの表情だけでは、全貌が見えない。
 だけど一つだけ分かったことがある。
「全てが終わったら、島に帰りたい……?」
 物音すら引っ込む沈黙の間が降りる。しばらくの間、クルーガーは口許をもごもごさせた。そして喉奥から、苦渋の色を吐き出した。
「そう、だな。全部終わらせたら……」
「……そっか」
 故郷で幼馴染が待っている。自分が帰って来ることを、待ってくれる人がいる。これ以上の幸せはないだろう。帰る場所があれば、自分を見失うことはない。
 紅蓮の炎の根源かもしれない。
「帰れると良いわね」
 私は胸の中に広がる寂しさから、目を背けるように言った。
 世界を覆う空は、パラディ島の向こう側まで広がっている。同じ空を見上げて生きて来たのに。生まれも、育った環境も全く違う。当然、目に映した光景すら異なる。
 相手の息遣い。温かな体温。胸に耳を当てれば、心地良い心音もよく聞こえる。腕の中にいるのに、心には手が届かない。いつも遠くにいる。
 目に見えない壁。
 世界が途方もない時間をかけて募らせた怨嗟の正体だ。
 私はパラディ島に行ったことがない。どんな島なのか、想像も出来ない。クルーガーの幼馴染の顔が、ぼやけて映るのだ。
 あなたの故郷を見てみたい。
 あの時、勇気を出したら――クルーガーは何て言っただろう。連れて行ってくれたのだろうか。
「今話したことは、忘れてくれ。もう寝よう」
「……分かった。おやすみなさい」
 クルーガーの温もりを感じながら、私は目をそっと閉じた。意識が深く沈んでいく。
 忘れて良いなら、忘れてしまおう。何も知らなかった頃に戻れる。目に見えない壁から目を背け、私はこれからも生きていく。
 人間だと認めてくれただけで十分だ。
 どうして、クルーガーの言葉が忘れらないのだろう。
 やっぱり覚えていたい。クルーガーと過ごした束の間の時間は、誰にも穢されたくない。例え、私自身であっても。

  ※

 何だか長い夢を見た気分だ。
 鉛が詰まったみたいに頭が重い。ぐらぐらと、視界が揺れて回り続けている。どうも三半規管が不安定なようだ。身体は異常な程、発汗していた。汗で湿った肌に、服が張り付いて不快だ。
「気が付いたか、軍医殿」
「う、うぅ……」
「声をかけても無反応だったから、死んでしまったかと焦ったよ」
 口内が乾き、声が上手く出せない。胃の中は空っぽなのに吐きそうだ。胃液が競り上がる。どうしても吐き気に堪えられず、そのまま嘔吐してしまった。胃液特有の酸っぱい匂いが、口の中に充満する。
「薬の投与量が、少し多かったか」
 ここはどこだ。どうして私は、捕まっているのだろう。身体の至る所が痛い。何で傷だらけなのだろう。記憶が断片的だ。どろどろした倦怠感が残る頭で、必死に記憶を手繰り寄せる。
 ここは治安当局の地下牢。両手足を鎖で繋がれている。私はクルーガーを匿った容疑で、拷問されていたのだ。
「薬物中毒で死なれては困る。ほら、見ろ。顔色が真っ青だ」
 結われた髪は、ボサボサに解けている。目元には隈が出来て、目尻は涙の痕跡が残っている。自白剤の影響なのか、顔色は真っ青だ。頬には青痣と切り傷。両手の爪は剥がされて、血が滲んでいる。鎖で縛られた手首と足首は、摩擦で赤くなっていた。
 手鏡に映る自身の姿は、酷い有り様だ。
「エレン・クルーガーはどこにいる?」
 こんな苦痛に堪えながら、私は何を守ろうとしているのか。どうせ地獄に堕ちるなら、島の悪魔を道連れにして堕ちてやる。初めは、その腹積りだった。
「さぁ、居場所を言うんだ。そうすれば解放する。私達は同じマーレ人じゃないか」
「……お、お養父とうさ……ん」
 どんな人にも、心の中に悪魔は潜んでいる。人によって、悪魔は姿や形を変えるのだ。
 私の悪魔は、自分を偽ること。それが私の心に巣食う悪魔の正体。
 一度外した仮面は、二度と着けられない。マーレ人だろうが、亡国の民だろうが、エルディア人だろうが関係ない。もうこれ以上、私は自分を殺したくないのだ。
 ごめんなさい。
「わ、わたし――」
 拳を振り上げることは、意外と簡単だ。それに比べて、拳を下ろすことはとても難しい。
 世界は今、振り上げた拳を下ろす機会を見失っている。その隙を突いて、クルーガーは確実に拳を振るうだろう。私が出来ることは、振り上げたままの拳を下ろすことだ。
「わたしは……マーレ人じゃ、ない。あなた達に、滅ぼされた……亡国の民」
 地獄に堕ちるのは、私だけで良い。

 養父と私の秘密。死ぬまで誰にも話すつもりはなかったのに。マーレに同化したことも。軍医になるため、勉強に明け暮れたことも。全部が水の泡。
 でも、不思議と後悔はない。
 軍医の立場を棄て、身の安全も手放した。そして次は、自らの命をも投げようとしている。文字通り、もう私には何もない。何も残っていない。
 喉から絞り出した言葉に、男は呆気に取られていた。
「何を……言っている?証拠は、あるのか?」
「傷……マーレに連れて来られた時、付けられた」
 襟元を乱暴に寛げられた。ボタンが取れて、冷たい床に転がる。汗で濡れた肌が外気に曝され、体温が冷えていく。
「おいおい……。こんな近くに、鼠が紛れているとは……。思わぬ収穫だ」
 こんな男に、肌を曝すことになるなんて。無骨な指が、鎖骨から数センチ下の切傷を撫でる。思わず虫唾が走り、身を震わせた。まるで陵辱された気分だった。
 私がマーレ人に成り済ましていた事実は、治安当局内でも衝撃だったらしい。彼らはクルーガーの居場所探しを止め、目の前にいる獲物に狙いを定めた。少しでも、クルーガーから目を逸らしてもらう。ほんの僅かな時間稼ぎが出来れば良い。何もない私が出来る、唯一のことだ。
 故郷を巨人に踏み潰された過去。マーレに連れて来られ、養父に拾われたこと。様々な教育を受けて、軍医になるまで。男が質問すれば、私は洗いざらい全て話した。
「軍医大佐殿が……何てことだ。我々をコケにしやがって」
 結果的に、養父をも貶めることになった。私は最後まで、親不孝者だ。申し訳ない気持ちで一杯だが、涙は出なかった。どうやら、枯れてしまったようだ。
 静かな地下牢で、一人横になる。両手足は鎖で繋がれ、軍医から罪人へ成り下がった。日付や時間感覚はない。拷問で受けた痛みすら、いつの間にか身体に馴染んでいる。地下牢に監禁され、息を吸って吐くだけ。まだ罪状は決まらないらしいが、恐らく死刑になるのだろう。
 もう一度眠ろう。瞼を閉じかけた時、人の気配を感じた。
「タイバー家の演説は、鼠を誘き寄せるため?ガセじゃないのか?」
「世界の要人を、わざわざ収容区へ集める理由が他にあるか?」
「万が一タイバー家の当主が死んだら、世界は黙ってないだろ」
「いやいや、戦鎚の巨人がいるから大丈夫だろう」
 二人の会話はレベリオ収容区で行われる、大演説のことだろうか。祭りの準備で、大層賑わっているはずだ。終戦後、初めて行われる一大イベントは、大勢が楽しみにしている。そこで一体何が――。
 鼠。タイバー家。囮。当主。戦鎚の巨人。祭り。悪魔の島。
 もしかして――。
 男達が話す単語の羅列に、私の意識は一気に覚醒する。産毛が逆立つような気がした。大勢が集まる祭り。タイバー家の大演説は罠の可能性がある。
 両手足に繋がれた鎖が外れた瞬間。痛む身体のどこに、力が残っていたのか。私は男達に体当たりし、思い切り突き飛ばした。呆気に取られた彼らを振り切り、ふらつく身体を引き摺る。
 思うように、身体が動かせない。走ろうとするだけで、躓いてしまいそうだ。だいぶ体力は消耗している。脚が縺れてしまうが、形振り構わず駆け出した。
「あ!逃げるぞ!」
「クソ!もう殺せ!」
 取り乱した声と怒鳴り声が、背後から襲って来た。後ろを振り返ると、一人の男は銃を構えていた。逃げる私の背中へ、照準を合わせている。

 早くここから逃げないと。右も左も分からぬまま、ひたすら前に向かって足を踏み出す。既に私には、真っ当な判断力すら残っていない。気力で何とか保っている状態だ。早く伝えないと。
「クルーガーさん……」
 祭りはカモフラージュ。タイバー家の大演説は罠の可能性があると、クルーガーに伝えなければ。
 ドン、と重たい音が何度も轟く。銃口から飛び出す弾は、一直線に照準先へ引き寄せられる。何発もの弾が、身体に着弾する鈍い衝撃。一瞬だけ呼吸が止まった。
 そのままバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。大きく息を吸い込むと、全身に燃えるような熱さが襲ってきた。肉が抉られた鋭い痛みに、思わず呼吸が止まりそうになった。皮膚の表面を、生温い何かが伝う気持ち悪い感覚。毛穴から、厭な脂汗が吹き出す。
 反射的に腹部を押さえると、ぬるぬるした。どうやら撃たれたらしい。白いシャツに広がる赤黒い液体。掌を翳せば、血液がべったりと付着していた。溢れた血が口腔内にも流れ込み、鉄錆の匂いに咽せ返る。
「う、あぁ……」
 呻き声と共に、口端から血が流れた。胸部と腹部に数発着弾し、幾つかは貫通している。どろどろと血が流れ、止まる気配はない。銃弾は身体の大きな動脈を断裂したようだ。
 固くて冷たい床に広がる、火花に似た血痕。身動き一つ取る力が、徐々に失われていく。
「手こずらせやがって」
 忌々しそうに顔を歪め、男は私に銃口を向けた。これで終わりだと死を悟り、瞼をきつく閉じる。
「お前は――」
 何やら焦る声と共に、けたたましい銃声が二発。程なく、ぐしゃりと何かが崩れ落ちる音。空薬莢が床に弾ける金属音。身体に痛みと衝撃は、いつまでもやって来ない。
「お久しぶりです。ナマエ」
 抑揚と掴み所がない声。短く切り揃えたブロンドの髪。女の割りに長身の出立ち。底が見えない黒い瞳。三年ぶりの再会が、こんな有り様になるとは。
 声を振り絞るだけで、息も絶え絶えだ。
「……イ……、イェレナ……」
 イェレナの前には、二人の男が崩れ落ちている。二発の銃声は、彼女が撃ったものだと分かった。
「どうやら、遅かったみたいですね」
 私の有り様を眺めながら、歩み寄る。ゆっくり語りかける口調に、底知れぬ恐ろしさを覚えた。
「私に協力してくれて、とても感謝しています。こんな形で、お別れするのは残念です。可哀想に、その出血量では直に死ぬでしょうが……」
 イェレナは拳銃を握っている。今も引鉄に指をかけたまま。
 背筋に走る寒気の正体に、ようやく気が付いた。
 私はイェレナを前にする度、気味悪い薄ら寒さを感じていた。彼女は危険だと、無意識に本能が危険信号を発していたのだ。いつの日か用済みと見做されて、始末されるのではないかと。
「うぅ……」
 少しでも彼女から離れなければ。身の危険を感じて、僅かな気力を振り絞るが脚に力が入らない。匍匐前進しようにも上手く進めない。痛くて堪らないし、出血も止まらない。刻一刻と、身体の末端から冷えていく。
 無様にも程がある。こんな瀕死の状態で、一体何が出来るのだろう。絶望感に心が折れてしまいそうだ。
「待て。イェレナ」
 声の主に、どきりとする。煌々とした洋燈の灯りに、陰りが差す。イェレナの背後にある曲がり角から、松葉杖をついたクルーガーが姿を現した。

 埃っぽい地下室での逢瀬から、どれ程の時間が経過したか分からない。あの夜から何ら変わりない彼の姿を目にした私は、緊張が解けて動けなくなってしまった。
「彼女と話がしたい。悪いが向こうで、敵の様子を見張っててくれ」
「分かりました。積もる話があると思いますが……余り時間に猶予はありません」
「……ああ、分かっている」
 イェレナはクルーガーを一瞥した後、素早く踵を返して元来た方向へ姿を消す。それを見届けたクルーガーは、こちらへ静かにやって来た。
「クルーガー、さん……」
 クルーガーは松葉杖を壁に立て掛け、ゆっくり腰を下ろす。身動きする力も残っていない私を、そっと抱き寄せてくれた。
「血が……」
 クルーガーは私の怪我を見て、苦しげに呟いた。胸部と腹部から溢れる血は止まらない。白いシャツが真っ赤に染まる。シャツに染み込んだ血が滴り、床もべっとり染めていく。私が力なく首を振ると、彼は唇を真一文字に結んだ。もう助からないことは、お互いに分かっている。
 どうして、身の危険を冒してまで治安当局に侵入したのか。その理由を問いたくても、容易に声を出すこともままならない。喉奥から懸命に振り絞る。
「なん、で……ここに」
「あんたが消息不明になったと、イェレナが教えてくれた。俺を匿っていたことが露見した可能性を考えて、治安当局に捕らえられたと見当付けたんだ」
 いつもの私なら嗜めるところだが、今は気力もない。それよりも私が死ぬ前に、伝えなければならないことがある。クルーガーの身に、危険が迫っていることを。
「ダイバー家の……演説、あなたを捕まえる……罠、かも。逃げて……はや、く」
「俺は逃げない」
「どう、して……、」
「戦わなければ、勝てないからだ」
 紅蓮の瞳を燃やしながら、意志の強い声だった。きっと今まで、こうやって死地へ飛び込んで来たに違いない。
 思い返せばクルーガは反戦デモの時も、危険を顧みずに街へ飛び出して私を探していた。遥々海を越えマーレにやって来た事実も含め、自由意志という名の下に行動する。今更嗜めたところで、生まれ持った性質は変えられないのだろう。
 目頭が熱くなり、瞬く間に視界が滲む。最初の涙が零れ落ちると、もう歯止めが効かなかった。私は声なき声を出して泣いた。
 悲しいとか悔しいとか、負の感情ではない。どちらかといえば安堵の涙だ。連日連夜ずっと、張り詰めていた糸が緩んだ瞬間だった。
「……そっかぁ。クルーガー、さん……らしいや」
 視界が狭まり、暗闇が迫って来ている。何も見えなくなる前に、私は腕を伸ばした。ふらふらと覚束ない手が、力強い何かに掴まれる。温かい体温。クルーガーの手だと直感した。

 クルーガーは声を荒げ、憤りと遣る瀬なさが煮詰まった感情を露わにする。言葉とは裏腹に、きっと心は泣いているだろう。
「どうして……こんなに傷付いてボロボロになっても、俺のことを治安当局に黙っていた?仮にもあんたは……マーレの軍医だろ?敵である俺のことを奴らに話しちまえば、ここまで痛め付けられなかったはずだ……!」
「……間違って、ないと思ったから……。私が、選んだの」
 己が下した選択が齎した結果に押し潰された私は、クルーガーの言葉に救われたのだ。他のどんな慰めの言葉よりも。
「あなたを売ったら、絶対に後悔すると……思った……。これ以上、自分自身を……殺したく、なかった」
 マーレに連れて来られてから、マーレ人であり続けた。この土地で安全に生きる術だったからだ。即ち本当の私を、殺し続けることと同義だった。
「あなたと、暮らす内に……私は、変わったのかも……しれない」
 たった数ヶ月。イェレナに仕組まれた、奇妙な共同生活が今では懐かしい。触れたら容易に崩れてしまう儚いものだ。これまでの人生で、一番胸が苦しくて酷く優しい時間だったと思う。
 自分の命を犠牲にする程、こんなにも誰かに深く絆されてしまったのは、生まれて初めてだった。
「私も……逃げるのは止めた。でも……こんな有り様だし、負けちゃったかなぁ……?」
「……あんたは、負けてねぇよ」
 クルーガーは、歯を食いしばるように言う。
 はぁ、はぁ、はぁ。呼吸は浅くなり、空気が上手く肺の奥へ取り込めない。もう泣く体力すら失われた。撃たれた箇所から命が流れるに連れ、焼け付くような痛みも鈍くなってきた。
 体温が下がり、身体が石みたいに重たくなっていく。
「クルーガーさん……寒い……」
「そうだよな、ごめん。ごめんな」
 彼は労るように、ぎゅっと優しく抱き締めてくれた。共に寝台で眠る時みたいに。
「あんたはいつも、体温が低くて……俺が温めていたっけ」
「……クルーガーさんは、子供体温だから……」
 おかしい。ちっとも温かくならない。寒いままだし、睡魔が襲って来た。死が背後から、歩み寄って来る。もう私は死んでしまうけど――。
「生きて……」
 譫言のように何度も繰り返す。声になっているのかも怪しかった。唇から零れているのは、空気だけかもしれない。
 自由を得るために、マーレを潰したとしても。私は彼に死んで欲しくない。生きてさえいれば、未来は切り拓けるはず。
「生きて……欲しい……」
 例えこの言葉が、彼にとって残酷で呪縛になるとしても。私の切なる願いなのだ。
 何も聞こえない。無音に近い世界だ。既に聴覚の機能は、低下しているかもしれない。握られた手に、力が込められたのが分かった。まだ触覚は機能しているようだ。
 最期に一つだけ。
 共同生活最後の日。クルーガーを送り出す時に、聞こうとして――結局聞かなかったこと。一度でも良いから、呼んでみたかった。
「あなたの、本当の名前……教えて……」
「エレン。エレン・イェーガーだ」
 もう何も見えない。酷く眠い。どろどろした睡魔に呑まれ、意識が暗闇へ堕ちていく感覚。もう身体は痛くないし、寒くもない。永遠に醒めることない眠りへ就いた。




- ナノ -