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※企画サイト「remedy」様へ提出済み。
(通常企画「火と蜜のふたり」)
※「remedy」様提出分の分岐ルートを書き下ろし、合わせて掲載。下部に分岐ルートへの指示あり。
※金塊争奪戦以降の捏造あり。




 某月某日 晴天
 
 胸に燻る想いを紙に記せば整理出来ると、誰かが言っていたので、私と名前のことを記してみようと思う。しかし己の記憶を回顧して、それを残すのは些か面映い。
 とは言っても、私以外の誰かに読ませるつもりはない。支離滅裂になるかもしれないが、今はこの気持ちをどこかに書き記しておきたいのだ。
 まずはどこから書き始めれば良いか。
 名字名前と初めて出会ったのは、兄さぁが日清戦争へ出征する前だったと思う。父上の伝手で、新米女中としてやって来たと記憶している。

 ※

「大きっなったや、おいは名前を嫁にすっ。おいが守っど」
「ふふふ、頼もしい。とても楽しみです」
 私の口癖に、彼女は小さく笑う。色白のきめ細かな肌に、艶やかな黒髪が映える。名前は気が利き、そしてよく笑う。ころころと鈴を転がすように笑う姿は、まるで子供みたいだ。
 海軍に所属する父上と兄さぁは、私の誇りだ。常日頃から戦艦に乗り、海上で過ごす時間が多い。家を留守にしがちで、帰宅することはあまりない。長期休暇が待ち遠しく、二人が帰郷する前日は興奮して寝つけず、母上や名前を困らせるのが常だ。
 軍人であれば、御国のために命を使う。私も、二人に恥じない海軍将校になることが将来の夢だ。
「音之進様なら、立派な軍人様になれますよ」
 名前は私のことを、音之進様と呼ぶ。それがどうしても嫌で、名前で呼ぶように強請った。
「音之進様じゃなく、音之進ち呼んで欲しか!」
「いけませんよ、音之進様」
「ないごて!」
「私は女中なので、出来ないんです」
「音之進ち呼んで!」
 だけど彼女は、折れなかった。
「将来のお嫁さんに、呼んでもらいましょうね」
 嫌だ嫌だと、地団駄を踏んでも無意味だった。自分の意思を曲げない名前を、余計に困らせたい。そんな気持ちに駆られた。今振り返ればこの頃から私は、彼女のことを好いていたのだと思う。
 父上と兄さぁが戦地に赴いたが、私の日常は穏やかである。学校が終われば級友と近所で遊んだり、自顕流の稽古に勤しむ。名前が道場まで迎えに来て、一緒に帰路に着く。私が一日の出来事や、稽古のことを話し、彼女は一つずつ相槌を打つ。
 彼女と歩く時間は、心安らかになれる瞬間だ。桜島の端に沈む黄金色の夕陽が、今でも瞼の裏に残っている。
 私の八つの誕生日。彼女から、毛糸の手編み手袋を貰った。いつも外を駆け回るから、手を冷やさないようにと編んでくれたのだ。
「編み物はあまり得意ではなくて、奥方様に教えて貰いながら編みました」
 ちょっと照れ臭そうに言う名前は、いつもの大人っぽさはない。年相応な少女の顔をしていた。些か不恰好な形のそれは、今では小さすぎて収まらない。だけど彼女から初めて貰った物なので、今も大事に保管している。

 兄さぁが戦死した。
 母上は気丈に振る舞うも空元気だし、名前も表情が強張っている。家の中に暗い影が落ちているのに、周囲の人間は兄さぁを誉れ高き軍人だと口々に言う。
 軍人の本懐だと分かっていても、寂しさはどうにも埋められない。
「音之進様。最近、寝不足でしょう。隈が出来てます」
「……兄さぁの最期を想像して眠れん」
「私が手を握ってますから。どうか安心して、お眠りください」
 私は彼女の腰元に、ぎゅうっと抱きつく。私が怖い夢を見て寝つけないと、いつも兄さぁは布団に招き入れてくれた。優しい兄さぁの記憶を、思い出してしまう。
 繋がれた掌から、生きた人間の体温を感じる。兄さぁの温もりに似ているようで、少し違う。鼻奥が痺れ、涙が溢れそうだ。だけど、名前に泣き顔を見られるのは嫌だ。
「名前は、どこも行かん? ずっと一緒におってくるっ?」
「音之進様。私はどこにも行きませんよ」
 子供をあやす口調が、悲しみに暮れる心に染み渡る。髪を撫でる手つきが優しい。その夜は、久しぶりにぐっすり眠れることが出来たのだ。

「お帰りなさいませ」
 日清戦争が終結し、父上が帰還した。三人で出迎えたが、父上は神妙な顔をしたまま。父上は笑わなくなった。それどころか、私が宿題や剣術稽古を放り出したり、何かしら悪戯をしても、咎めるどころか雷が落ちることすらない。
 兄さぁの死が、父上を変えてしまった。
 どうすれば、父上の気を引けるのだろう。学校の授業を抜け出したり、近所の子供と喧嘩する。問題行動を起こしても、忙しい父上に見向きもされない。学校に呼び出された母上は教師に謝るばかりで、名前にも日頃の行いについて叱られる始末。
「音之進様! 宿題をしないと、先生に叱られますよ!」
「ええい、せからしか! おいに構うな!」
 それでも名前は、私のことを気にかけることをやめない。余計に疎ましい。言いようのない苛立ちを勝手に募らせ、名前を傷つける言葉を投げつける始末だ。
 決して本心ではない。父上に無視される度、八つ当たりしてしまう。そんな毎日を繰り返して、勝手に自己嫌悪に陥る。母上や名前と、向き合うことが怖い。心を閉ざすことで、均衡を保とうとする。私は子供だ。

 地元の尋常小学校を卒業した。海軍将校になるため、私は東京の海城学校へ進学する。これを機に、東京で寮生活が始まる。船着場まで父上と母上、名前が見送りしてくれた。
「音之進様、身体に気をつけてください。落ち着いたら、お手紙を送りますからね」
 私は仏頂面をすることしか出来ない。名前と離れて暮らすことが寂しいとは、口が裂けても言えない。彼女に冷たく当たっているのに、未だに音之進と呼んで欲しいなんて。我ながら、虫が良すぎる。
 船が出発し、故郷が水平線の向こうに消えた。鋼板の上で潮風を吸い込むと、不意に兄さぁの最期を想像してしまう。惨たらしい最期を考えると、強い吐き気が襲ってくる。立っていることもままならず、東京に着くまで酷い船酔いと闘う羽目になった。
 立派な海軍将校になる夢が、足元からバラバラと崩れていく。船酔いする海軍将校なんて、聞いたことがない。海城学校で問題児になるのも、時間はかからなかった。
 東京での生活を送る中、故郷にいる名前から便りが届いた。私は未だ素直になり切れず、手紙を読む気も湧かない。屑入れに放り投げては拾い直し、抽斗に仕舞い込む。結局捨てられず、開封してしまうのだ。
 手紙には父上や母上のこと、名前の身の回りで起きたことが認められていた。平和で長閑な日々が綴られてる。決まって末尾には、私の体調を心配する言葉で締め括られていた。半ば自棄を起こしていた私は、彼女の便りに返事を書かなかった。抽斗は彼女からの手紙でいっぱいだ。私は非情になれない。中途半端な男だ。
 
 十四の夏。夏季休暇で鹿児島へ帰郷した。
「……ただいま」
「お帰りなさいませ。音之進様」
「あ……」
 久しぶりに会った名前は、まるで可憐な花のような雰囲気を持つ大人へ成長していたのだ。手紙の返事を出さなかった言い訳が、すっぽり抜け落ちる。頬に熱が集まり、むぜと言いかけた私は脱兎の如く逃げ出した。
 故郷の町をエンジン三輪車で爆走する。見知らぬ男を轢いてしまい、頬を打たれて叱られた。お詫びに西郷さんのお墓を案内し、少しだけ弱音を吐いてしまう。男から貰った月寒あんぱんは甘かった。
 その後、父上の仕事の関係で鹿児島から、北海道の函館に居を移した。
 十六の夏。私の人生に転期が訪れる。
 来年は海軍兵学校の受験だが、私は未だに落ちこぼれのまま。函館の町をエンジン三輪車で乗り回していると、前触れもなく背後から襲われた。視界と手足の自由が奪われる。薄暗い建物に監禁されて、やっと誘拐されたのだと理解した。
 誘拐犯は露西亜人だ。世情を考えれば、父上絡みなのは何となく想像出来る。そして、己が殺されることも。
「兄さんよな息子んなれじ、申し訳あいもはん」
 軍人である父上が、私を助けることはない。電話口の向こうにいる父上に謝る。鯉登家の落ちこぼれが勇敢に戦って死ねば、父上も少しは見直してくれるだろう。倅の最期は誇らしかったと、思って欲しい。私は一人で、必死に露西亜人へ抵抗した。

 父上と母上にも会えない。名前にも。今頃彼女は、何をしているのだろう。最期に話したかった。兄さぁが亡くなり、心に溜まる虚をぶつけてしまった。もう少し早く、素直になれたら良かったのに。
 私の名前を呼ぶ父上の声。二人の露西亜人を貫く大きな銃声の後、月寒あんぱんの人が誘拐犯を鎮圧してくれたのだ。
「誇らしかど」
 ずっと見たかった父上の笑顔に、私は柄にもなく泣いてしまう。胸に巣食う数年分の憑物が、嘘みたいに剥がれ落ちる。晴れやかな心地になるのは、随分久しい。
「月寒あんぱんが、私達を引き合わせたのかな?」
 西郷さんのお墓へ案内した月寒あんぱんの人と、二年ぶりに運命的な再会も果たした。私はこれから先、この日を忘れることはないだろう。


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