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※分岐ルート

「音之進……! どっか痛かところはなか?」
「おいは無事じゃ。どこも痛かところはなか」
 自宅に戻ると、母上は涙ながらに抱き締めてくれた。どうやら、私が誘拐されて五日経っていたようだ。やっと帰って来たことを実感するが、空腹感は全く湧かない。大した物は食べていないのに。思い返せば、悪夢の五日間だった。あんな経験は、もう御免だ。
 名前は部屋の片隅で、静かに控えていた。声をかけると静かに歩み寄って来る。
「ご無事で安心しました」
 名前の声は、か細くて震えていた。気丈に振る舞おうとしても、本音は不安だったのだろう。彼女の不安を取り除きたくても、どうすれば良いのか検討がつかない。
「……心配かけて、すまんかった」
「お疲れでしょう。お風呂を沸かしますから、少々お待ちください」
「ああ……。すまない」
 五日間は風呂すら入れなかったので、至る所が汚れている。名前は風呂支度のために、音もなく踵を返す。結局私は大した言葉を、かけてやれなかったのだ。
 風呂から上がり、清潔な着物に袖を通す。土埃に塗れて汚れた身体は、すっかり綺麗だ。爽やかな空気で火照る身体を冷ましていると、父上がこちらへやって来た。私が誘拐されてから、五日間の顛末を話してくれた。
 父上によると、私の帰宅が遅いのを心配した名前は、毎日町中を探し回っていたという。真白な前かけは綻び、泥で薄汚れるのも構わずに。無我夢中の様子で、今にも泣き出しそうな様子だったと教えてくれた。父上と母上でさえ、彼女が倒れてしまうのではと心配したほどに。

 彼女は私の前で、そんな素振りすら見せなかった。思い返せば昔から名前は、弱い部分は見せなかった。強情なのだ。否、そんなこと知っているではないか。
「名前は、今どちらにおっか?」
「離れで休ませちょっ。音之進からも、ないか言葉をかけてあげやんせ」
 離れに向かう途中で、名前を見つけた。場所は炊事場で、せっせと食事作りに取りかかっている。休む気配すら微塵もない様子に、自ずと脱力してしまいそうになる。
「あら、音之進様。どうされました? 小腹でも空きましたか?」
「いや……、名前ん様子を見に来た。離れで休ませちょっち聞いたんじゃが……」
「それより、湯冷めしてしまいますよ。もっと厚着をしないと!」
 自分の心配より、他人の心配をするのか。これには私も呆れてしまう。よく見れば、目元は潤み、頬は涙に濡れた痕跡が残っている。鼻声の名残りもある。加えて隈も出来ている。連日まともに眠れていない証拠である。原因は私にあるのが、申し訳ない。このままでは倒れてしまう。ならば、実力行使するまで。
「来い」
「音之進様? 離してください! 御夕飯の支度が……」
「他ん女中にやらせば良か」
 私は彼女の腕を掴み、炊事場を出る。行き先は、名前が寝起きしている離れだ。名前は何やら喚いているが、私は無視する。問答無用だ。
 名前の部屋に着き、布団を敷いて少し横になれと言う。目の隈も酷いし、父上と母上も心配していると言っても、彼女は寝ようともしない。こんなに頑固な女であったか? 初めて見る名前の様子に、私は少し困惑してしまう。まるで幼い頃の私そっくりではないか。
「もしかして……眠っとが怖いのか?」
 そう尋ねれば、名前は畳に視線を向けて黙ったまま。どうやら図星らしい。兄さぁが戦死してから、眠れなかった頃を思い出してしまう。
「頼むから、少し眠ってくれ。おはんが倒れてしまうんじゃと、心配なんじゃ」
 眠ることへの恐怖心か。
 もしかしたら―― 名前も、あの時の私と同じ心境なのかもしれない。そっと手を握ると、ひんやり冷たい。記憶の中にある彼女の手はとても温かったのに。
「おいはもうどけも行かん。手を握っちょっで、安心せ」
「……分かりました」
 やっと言うことを聞いてくれて、ホッと安堵する。名前は静かに布団に横たわり、私も枕元の近くに寝そべる。手は繋がれたままだ。

 話したいことは沢山あるのに、何から話せば良いのだろう。海城学校のことを話せば良いだろうか? それとも、函館での生活を聞いた方が良いだろうか? 色々考えるが、どの話題もそぐわない気がする。
 母屋から離れている分、ここはとても静かである。穏やかな時間が流れている。私は手持ち無沙汰に、八畳ほどの部屋を見渡す。部屋の片隅に文机があり、数冊の本が置かれている。衣紋掛けには、数着の着物と羽織。整理整頓された部屋だと思った。
「音之進様、覚えてますか? あなたが眠れない時に、こうして手を繋いだことを」
 沈黙を破ったのは、名前だった。
「ああ、覚えちょっぞ。懐かしかね。今は逆転しちょっがな」
「ふふふ……。そうですね」
 楽しそうに小さく笑う名前は、幾つになっても変わらない。私は子供の頃から、彼女の笑い方が好きなのだと今更気づく。
「父上から話は聞いた……。毎日おいを探し回ったと」
「音之進様は……私には想像が出来ないくらい、怖い思いをしたと思います。お疲れなのに、御迷惑をかけて申し訳ありません」
「いや、気にすっな。謝るのは、おいん方や。心配かけて、すまんかった」
 今回のことだけではない。名前に謝らねばならんことが、沢山あるではないか。薄暗くて埃臭い監禁場所で、後悔したばかりだろう。
「名前。聞いてくれ」
「何でしょうか?」
 口から溢れる言葉は、まとまりがない。私の気持ちを、知って欲しい。誤魔化すつもりはない。寧ろ、洗いざらい伝えるつもりだ。
「ずっと冷て態度を取って、手紙も無視してすまんかった。兄さぁが亡くなって、父上が笑わんくなって……色々反抗した。言い訳に聞けるかもしれんが、あん頃んおいは父上に笑うて欲しゅうて……見て欲しかったんじゃ」
 我ながら言葉選びが、たどたどしい。情けないほど覚束ない。だけど彼女は、私の話に横槍を入れることなく、静かに聞いてくれる。清らかな瞳が、こちらを見つめていた。
「名前に酷かこともゆってしもた。おいに構う名前を、疎ましかと……思うたこともあった。八つ当たりをしてしもた。信じてくれとはゆわんが、決して本心じゃらせんじゃった」

 互いの掌は握られたままだ。独白を続けても、良いのだと感じてしまう。まるで受け入れてくれるような錯覚に陥るのだ。さすがに、都合良すぎるだろうか。
「兄さぁの死を考ゆっと、船酔うれすっごつなってしもた。立派な将校に、なるっわけがなか。学校では落ちこぼれだ。手紙ん返事が書けんやったんも、ないて書けば良かか分からんでな……。っせることも出来んで、読んだ後は抽斗にしもうたままだ」
「誰にだって、大人が疎ましく感じる時期はあります。私も、お節介を焼いてしまった自覚があるので、気にしていませんよ」
 確かに、思春期特有の扱いにくい時期かもしれない。だけど、私の胸に巣食っていた複雑な虚の正体を、お年頃で済まされたくない。
「ちごっ! おいが知ろごたっとは、そげんこっじゃなか。本音をゆてくれ。おいも本音を話した。冷たっされて、名前はどげん風に感じたんか……? おいは、おはんの本心が知ろごたっど」
「……嫌われてしまったかと、思いました」
 長い沈黙が、部屋を支配した。まるで葉先から水滴が零れ落ちるように、ぽつりと溢れた言葉は寂しさが滲んでいた。見上げる瞳には涙の膜が張っており、今にも目尻から溢れてしまいそうだ。
「音之進様が私に言った言葉は、本音じゃないと分かっていても……辛いものがありました。ですが平之丞様を亡くされて、寂しさを紛らわすために問題行動を起こし、遣り場のない気持ちを吐き出しているのだろうと」
「名前……」
「私は見守ることしが出来ないと……思っておりました。少しでも心の傷が癒えて欲しい気持ちで色々とお節介を焼いてしまい、結果的に苛立たせてしまいました。音之進様が誘拐されたと聞いて、どうしたら良いか気が動転して……。旦那様と鶴見様が宥めても、私は居ても立っても居られなくて――」
「おはんの気持ちは分かった。ほんのこて、すまんやった……。泣くなら、おいの胸で沢山泣いて良か」
 潤み声が涙に濡れ、湿った声へ。ずっと我慢させていたのか。じんわりと鼻奥が痺れ、視界がぼんやりと滲む。たまらなくなった私は、名前を引き寄せた。その小さな背中へ両腕を回し、ぎゅうっと抱き締める。小さく震える名前は、まるで幼い頃の私を彷彿させた。

 トントンとあやすように、優しく背中を叩く。名前が私にしてくれたように。今度は私の番だ。
「あの、音之進様……?」
「……ないもゆわんで良か。好きなだけ泣け」
「音之進様も、泣いてます」
「……おいは泣いちょらん」
 頼むから、今の私を見ないでくれ。
 そう言いたいのに、言葉が出ない。涙で濡れた睫毛。少しだけ色づく頬。色っぽい名前の姿に、目が離せないのだ。
「でも――」
「せからしか。こんた汗や。涙じゃなか」
 ごしごしと乱雑に袖で拭う。不恰好な姿を見られたくなくて、私は名前を更に抱き寄せる。ゆっくり労るように背中をさすれば、彼女の震えが消えていく。遠慮しがちに、私の背中へ腕を回してきた。二人の間に、隙間はなくなった。
 桃に似た甘い匂いが鼻腔を掠める。香袋の芳しい香りではなく、女性特有の甘い香りだ。安心して、徐々に力が抜けていく。そして、私達はお互い静かに泣いた。
 たまらなく愛しい。ようやく私は、名前のことが好きだと自覚したのだ。
「名前。好いちょっ」
 唐突な私の告白を聞いた名前は、案の定ぽかんとしている。涙の粒を流しながら。
「えっ、あ……」
 今伝えるつもりは毛頭なかったのに。気持ちが昂ってしまい、無意識に口走ってしまった。
「そのっ……こんた、ちごっ」
「……違うのですか?」
「キエェ、そうじゃなくて……!」
 私の涙は引っ込んでしまった。口を開けば開くほど、勘違いされてしまいそうだ。それは勘弁したい。もう寝た方が良いかもしれない。
「おいも名前も疲れちょっで、少しだけ眠ろう。ないもせん! 手は出さん」
 自分でも何を言っているのか分からない。背中に回した両手を離し、ぐるりと背中を向ける。二人の間に隙間が出来て、体温が滲んで溶けていく。寂しさを感じるが致し方ない。
「あの……音之進様」
「な、なんだ」
「畳の上だと風邪を引いてしまいますので、宜しければ……こちらへどうぞ」
 名前の言葉に、眩暈を覚える。
 隣に来ても良い、という意味だろうか? 私の気持ちを知った上で――意味が分かった上での言葉なのか。それとも、揶揄っているのか? 分からない。混乱する。全ては自分が口走ったせいなのに。
「こ、子供扱いすっな! やっぱい、自分の部屋で寝る」
 私は脱兎の如く、名前の部屋を飛び出したのだ。

 自分の部屋に戻ってから我に返る。冷静に考えて、とんでもない行動を取ってしまったのではないか。ぎこちない動きで、両手を見る。この手で、彼女を――抱き寄せてしまった。あろうことか、拒絶されなかった。
「……意外と細うて、柔らかかったな」
 彼女の感触が、生々しくも残っている。ぬるい体温。肉の柔らかさ。そして、鼻腔に残る微かな甘い匂い。それらは、男に持ち得ない。女と縁遠い生活を送る私にとって、先ほどの接触は些か刺激が強すぎた。胸の内で燻る気持ちに、どう対処すれば良いか分からない。悶々する気持ちを、落ち着かせる術も知らない。
 私は猿叫を上げながら、床板の上をゴロゴロした。こんな時は木刀を素振りする方が良いのだろうが、そんな体力はあいにく残っていない。さすがの私も、今日は疲れ果ててしまっているのだ。
 許容範囲を超える出来事ばかりで頭が働かない。食欲も余計に湧かなかった。床板の上で散々転がり続けた私は、知らぬ間に睡魔に負けてしまっていた。
 翌日は、身体の節々の痛みで目が覚めた。痛む腰に耐えながら居間に行くと、名前が朝食の用意をしていた。父上と母上も揃っている。
「おはようございます。今から起こしに行こうと思っていたのですが、ちゃんと起きられたのですね」
「あ、ああ……。寮では起床時間が決まっちょっで……」
「そうですか。御飯はこれくらいで良いですか?」
「……自分でやる」
 もそもそと朝食を咀嚼しながら、名前の様子を観察する。特に変わった様子はない。いつも通りだ。無意識に百面相していれば、母上に心配されてしまった。
「音之進。朝食ん後、街を散歩しよう」
 黙々と箸を進める父上が、静かに言う。その内容に、思わず箸を止めてしまった。
「父上、仕事はお休みと?」
 玄関前で待っている、と言葉少なに席を立ち居間を後にする。多忙の父上が、仕事を休んでくれた。その事実を噛み締めれば、心の中がじんわりと温まる。親子水入らずに過ごすのは、一体いつぶりだろうか。私も急いで箸を進めた。

 残りの夏季休暇は、あっという間に過ぎた。あの日から数日経っても、名前は普通だった。他の女中と持ち回りで、せっせと家事をこなしている。
 誘拐事件以降、一人で外出するのは気が引けた。恐怖心は――ないと言ったら嘘だ。これ以上、心配や迷惑をかけたくないので、自宅で大人しく過ごしている。今は心身共に、穏やかでいたい。
 身体を使うと、精神が研ぎ澄まされる気がする。庭先で剣術稽古を終え、火照った身体を、手拭いで拭く。
「稽古に精が出ますね。お風呂も沸いてますが、入りますか?」
 私が頷くと名前は踵を返す。彼女の薄い背中へ呼びかける。
「名前」
「何でしょうか?」
「……いや。ないでんなか」
 抱き締めてしまったことはおろか、口走って告白したことすら問われない。あの時の出来事は、まるでなかったように振る舞う名前に、どうにも私は複雑な気持ちを抱く。
 少しは狼狽えてくれたら良いのに。私ばかりが変に意識して、何だか負けた気になるではないか。負けるのは、やっぱり良い気分ではない。
 ひょっとしたら、子供の戯れ言だと思われているのかもしれない。年上の彼女から見れば、十六歳は子供だろう。事実は否めないから、余計に歯痒いのだ。
 否、もっと前向きに考えよう。
 己の気持ちを言葉にしたことで、実感が増したではないか。本気にされていないなら、私が本気だと自覚してもらえば良い。悩むことなどない。簡単なことではないか。
 東京へ戻る日。母上と名前が、船着場まで見送りに来てくれた。
「忘れ物はなか?」
「ああ」
「音之進様。手紙を書いても、良いでしょうか……?」
 名前が控えめに質問してきた。きっと、迷惑じゃないか確認したいのだろう。私の答えは、決まっているというのに。健気でいじらしい。私は深呼吸する。磯の香りを、肺の奥底へめいっぱい吸い込んだ。
「も、勿論だ。今度は、ちゃんと返事を書っで……楽しみにしちょっ」
 名残惜しさに浸っていると、大きな汽笛が鼓膜を揺する。出立時刻が迫っている。はよ乗りやんせ、と母上に船へ押し込まれた。
 長かったようで、短かった夏季休暇。
 一度は死を覚悟した。あの時感じた、絶望感や無力感は一生忘れない。誘拐事件は、私の心に暗い影を落としている。忌まわしい記憶となり、何年経っても消えない爪痕になりつつある。
 だけど、救いもあった。父上は、いの一番に助けに来てくれた。誇らしいと言ってくれた。とても嬉しかった。私の気持ちは行きと比べると、帰りの方が晴れやかだ。
 そして海からへ。私は進路を、変えることに決めた。これは休暇中に、ずっと考えていたことだ。船酔いは、未だ治る兆しがない。このまま治らないのだろう。ならば、己の生きる道を変えるのみ。
 陸へ進めば、憧れの月寒あんぱんの人がいる。助けてくれた恩返しも出来る。父上に進路変更を反対されると思ったが、杞憂に終わった。今度こそ、立派な軍人になるのだ。

 東京の陸軍士官学校に入学し、落ちこぼれの生活から一変した。頭を丸め、一日でも早く立派な将校になるため勉学に励む。
 士官学校での生活は忙しく、帰省する時間も取りずらい。同期と共に東京で過ごす中、名前とは手紙で連絡を取っている。初めて彼女へ返事を出す時、とても緊張したものだ。
 文通の内容は、取り留めないことばかりだ。
 庭先に猫が来た。お隣さんから、魚のお裾分をもらった。母上の付き添いで、買い物に行った――など、名前の平和な生活の一部が綴られている。世間は日露戦争で騒がしいが、彼女からの頼りを読む時間は忙しい毎日の息抜きでもある。
 あの日の出来事は、今でも話題に出せないままだ。無理に触れる話題でもないし、何より―― 名前と文通出来るだけで、私は嬉しいのだ。そして気がつけば、士官学校に入学して、半年が過ぎていた。
「長旅、お疲れ様でした。音之進様」
「ただいま」
 玄関先で手荷物を整理する手を止め、呆ける名前に声をかけてみる。私の顔に、何かつているのだろうか。すると、名前はハッと我に返った。
「し、失礼しました……!」
 頬を少し染め、慌てふためく彼女は新鮮だ。今まで見たことない、初めて目にする姿。
 ずっと大事にした拙い感情が、胸の内で大きく育つ音がする。もっと色んな表情の名前が見たい。好いた女のことなら、何でも知りたいと思うのは至極当然だろう。いわゆる独占欲、というものか。それとも、彼女に近づきたいという気持ちだろうか。
「ないや? 教えてくいやい」
「何でもないです……」
「まこち? おいは久しぶりに会えて嬉しか」
 嘘偽りない、私の気持ちである。相手の気持ちが知りたい。裏を返せば、相手に自分の気持ちを知って欲しい。自分の恋心を自覚した時から、ずっと。
 文通はしているが、面と向かって会うのは久しぶりだ。名前も私と同じ気持ちなら、とても嬉しい。
「名前は、どうなんだ?」
「……すっかり見ない内に、逞しくなったなぁと思いまして」
 名前は照れ臭そうに観念した。思いも寄らない返答に、喉奥がヒュッと鳴る。
「……それは、おいに見惚れちょった、ちゅうこっか?」
 自惚れかもしれないが、私にとって大事なことだ。一人の男として見てくれているのか。期待と不安が同居して、妙に落ち着かない心地だ。僅かな間が、永遠にも感じる。沈黙を破ったのは、名前だった。
「奥方様が、居間で待ってますよ」
「あっ、名前!」 
 私の質問に答えず、名前は手荷物を両腕に抱えて小走りで逃げて行く。パタパタと駆ける足音は消え、私は玄関先でぽつんと取り残されてしまった。
 あんな顔、初めて見た。
 困ったような、だけど嬉しそうな眦。淡く色づいた頬。小ぶりな唇から発せられる声。思い出すだけで、徐々に鼓動が早まる。まるで、外に聞こえてしまいそうなくらいに。はあ、と肺に溜まった空気を吐き出す。
「むぜ……」
 たった一言。私の呟きは誰にも聞かれることなく、玄関先で静かに溶けて消える。頬を染める彼女の姿は、他の男に見せたくない。私だけが知っていれば十分だ。
 結局、名前の本音が聞けなかった。躱された、と言うべきか。初恋とは、甘くてほろ苦いのか。我ながら、柄にもないことを思ってしまった。

 東京と比べると、北海道の夏は比較的過ごしやすい。
 夏季休暇中は課題に取り組み、剣術稽古に勤しむ毎日だ。三年前みたいに、町中を三輪バイクで爆走――なんてことはしない。
「本当に良いのですか? 買い出しのお手伝いだなんて」
「構わん。おはんと二人で歩っとも、良かもんじゃ」
「……そういうことは、あまり言わない方が宜しいかと」
「そげんこっとは、ないや?」
「ですから、その……二人で歩くのは楽しい、と」
「ないごて? 嘘じゃなか。本当んこっじゃっで、ゆちょるんに」
「音之進様。そういうところです……」
 少しでも名前と一緒にいたい。
 本当のことだから、正直に言っただけだ。ちらっと横目で見れば、名前は困ったような顔をしていた。私には彼女の意図が見えない。見えないから、彼女の考えていることが分からない。だから、益々知りたいのだ。
 函館の町も以前に比べて、西洋建築や洋館が増えた。目的地の市場に着いた。函館湾から水揚げされた新鮮な海産物。北海道各地で採れた農作物。その他諸々。それらを買い求め、市場は人で賑わっている。露西亜と戦争中とは思えないほどだ。
 名前は次々と野菜を購入し、風呂敷に包んでいく。
「おいが持つ。そのために、付き添いで来た」
 しばらく迷っていた名前だが、素直に言うことを聞いてくれた。私は風呂敷を両腕で持ち、残りは背嚢に詰め込む。ずっしり重たいが、日頃から鍛えているので大したことない。
「どれが良さそうですか?」
 野菜の良し悪しなど、私には分からない。二つを見比べても、艶やかな黄色の粒が所狭しと敷き詰められている。実を包む葉も、生き生きとした緑だ。蒸しても焼いても美味いだろう。甲乙つけがたい。どっちも同じではないか、と言いそうになる。
「……こっちはどうだ? 大きかし、身が締まっちょっ気がすっ」
「では、こちらのトウモロコシをお願いします」
「毎度あり」
 ああだこうだと話しながら、彼女と買い物するのは嫌ではない。
 あらかた買い出しが終わり、そろそろ帰ることにした。人混みを縫って大通りに出る。
「買い出しに付き合わせて、すみません。助かりました。少し休憩しましょうか」
 連れて来られたのは、甘味処だった。甘いものは普段食べないので、自分一人では足が向かない所だ。名前曰く、この店の水羊羹が美味いという。せっかくなので、それを二つ注文した。
「人混みを移動しながら、買い物すったぁ大変じゃな」
「今日は一段と混んでました。音之進様のおかげで、早めに買い出しが終わったので良かったです」
「……それは良か」
 そう言ってくれると、付き添いした甲斐がある。ちょっぴり嬉しくて、口の中がもごもごしてしまう。彼女が喜んでくれれば、私は良いのだ。
 運ばれて来た水羊羹を一口頬張るれば、瑞々しい食感と共に控えめな甘さが広がった。後味もしつこくない。さっぱり食べられるので、夏にぴったりである。美味いと言われる理由も頷ける。すると名前が、ふふふと笑いながら私を見る。
「失礼しました。美味しそうに召し上がっているので」
「名前は、こん水羊羹が好きなんか?」
「はい、好きです」
 好きな人の好物は、どうして美味しく感じるのか。元の味は勿論だが、同じ物を囲んで食べるから余計そう感じるのかもしれない。些細な時間が幸せだと思った。名前の笑顔は、私が守りたい。

 水羊羹を平げた後、二人で肩を並べて帰路に着く。桜島を後ろに、手を繋いで帰ったあの頃が蘇る。当時の私はまだ子供で、名前を見上げていたのに。あれから何年経ったのか。今では逆転している。
 私の身長は三年前に比べると、名前より頭一つ分ほど高くなっているし、更に筋肉量も増した。士官学校では、体格が良い方だと思う。
「東京はどんな街ですか? 私、行ったことがなくて。こことは人の数も、桁違いなのでしょうね」
「そうじゃな……。いつも人で賑おうちょって、色んな物が絶えず入ってくっで、飽かん。だけどここは、視界が広かし潮ん香りもすっ。おいは東京より、函館ん方が好いちょっ。…… 名前がおっで」
「そうですか……」
 隣で歩く彼女はそっぽを向いているから、一体どんな顔をしているか分からない。だけど小ぶりな耳が、ほんのり赤く染まっている。頭上に輝く太陽のせい―― ではないと思いたい。芽吹いた淡い恋心が、立派に大きく育っていく。
 名前を呼ぶと、彼女は律儀にこちらへ顔を向けてくれる。黒目がちな瞳には、真剣な眼差しをした私の姿が映っていた。彼女の瞳に、私を写して欲しい。これから先も。
 恋の自覚をするまで、だいぶ回り道した。時間もかかってしまったし、傷つけることもした。だけど認めてしまえば、後は素直になるだけ。
「おいと、といえしたもんせ」
 微かな潮騒しおさいの音。僅かな潮の香り。ただ、それだけ。名前は何も言わず、静かに黙ったまま。黒い瞳は私を捕らえて離さない。
「鯉登家ん坊ちゃんとしてじゃなく、一人の男として見て欲しか」
「……士官学校を卒業されて、立派な軍人様になられたら考えます」
 夏の日差しに照らされた彼女の姿は――眩しかった。
 夏が終わる頃、日露戦争は終結した。世情も落ち着きを取り戻す中、私は士官学校を卒業した。そして旭川第七師団で、半年間の見習士官生活が始まった。
 名前との文通は続けている。手紙で再び求婚すれば、まだ任官されてないでしょうと躱されてしまう。一つ達成したら、また一つ遠のく。手が届きそうで、届かない。もどかしい距離感。やきもきしながら、隊務に勤しむ日々を送った。

 抜けるような青空に、柔らかな新緑が映える六月。無事に新任少尉として任官したことを、父上と母上へ報告するために函館に戻った。およそ一年振りの帰省だ。
 少尉任官の報告は滞りなく済み安堵するが、もう一つの用件も忘れてはいけない。私に縁談の話が来る前に。
「おいは子供ん頃から、名前んこっが好いちょっ。彼女はいつも、おいんこっを気にかけてくれちょった。じゃっで、その分――」
 その先の言葉を口にしようとすると、煩いくらい心臓が鳴った。少尉任官の報告よりも緊張する。
 婚姻は、家同士の結びつきだという。
 鯉登家として、私がどんな立場か分かっている。勿論、名前の立場も承知の上だ。私がいくら求婚しても、名前は首を縦に振らない。考えずとも、理由は明白だ。
 鯉登家の次期当主と女中。動かせない事実。
 だからこそ、両親に認めてもらわなければならない。これは私がすべきことなのだ。
 上座にいる二人は、私の言葉に横槍を入れない。最後まで話を聞いてくれるようだ。私は意を決して、気持ちを伝える。
「今度は一人の男として、私が彼女を守りたいのです。名前を私の妻に、迎えたいと思っています。軍人である以上は、大日本帝国に身を捧げることは百も承知です。父上、母上。どうか、許可していただけませんか」
 長い沈黙の後、父上は静かな口調で痛い所を突く。
「彼女も承知しちょっとか?」
「……私が求婚してもまだ任官していない、立派な軍人になったらと……言われてしまいます。彼女の立場を考えたら、私の申し出に承知するはずありません。父上と母上が許可していただければ、名前は何も気にせず気持ちを明かしてくれるかもしれない……。その上で、名前が私を選ばなかったら……彼女の気持ちを尊重します」
 変に取り繕って墓穴を掘るより、正直に胸の内を明かした方が良い。
 緊張して煩い心臓の音が、外に聞こえてしまうのではないか。長い沈黙が再び訪れる。父上は目を瞑り、黙っている。何を考えているのか分からない。私の身体が強張っている傍ら、やっと父上は口を開いた。
「彼女ん幸せが、音之進と一緒におっこっであっなら、ないもゆわん。しっかり二人で話し合いやんせ。お互いが納得しちょっなら、構わん」
 父上が母上へ目配せすると、凛とした声音で音之進と呼ばれた。はい、と背筋を伸ばして母上の言葉を待つ。
「例えどげん内容であろうと、彼女ん気持ちを聞いてあげやんせ」
 私は額を畳に擦りつけるように、感謝の意を表す。こうしてはいられない。さっそく名前を探さなければ。

 目的の人物は、すぐに見つけることが出来た。名前は中庭の片隅で掃除中だった。私は父上の言葉を伝えた上で、再び求婚する。名前は箒の柄を強く握り、か細い声で拒否をした。
「音之進様の気持ちに……応えることは出来ません」
「な、ないごて? 今度こそ、少尉として任官したぞ」
「今まで期待させることをして、申し訳ございませんでした」
 私を見ようともせず、紡がれた言葉は酷く辛そうだ。視線は地面に向けられたまま。逃げるように、踵を返す彼女を逃がすまいと、反射的に手首を掴む。細い手首が、少しだけ震えている。怖がらせてしまったかもしれない。
「すっ、すまん」
 掴んだ手首を、慌てて離す。
 謝罪が欲しいわけではない。あの時母上は神妙な顔のまま、僅かに含みある物言いだった。名前のことで、何か知っているのだろうか。
 私の気持ちに、応えられない理由があるなら――知りたいのだ。もし悪いところがあれば直したい。
「おいんこっが好かんごつなったんか? ずっと、名前ん気持ちが知ろごたっど。おいん気持ちに応えられん理由があっなら、教えてくれんか?」
 ふらりとした足取りで、名前は縁側へ腰掛ける。私も隣に座った。
 二人で中庭から青空を眺める。何も遮る物がない、広々とした空だ。いつもなら、気持ち良い景色なのに。頭上に広がる青空とは真逆で、私達の間に蔓延る空気は重苦しい。
「……出戻り女ですから」
 名前は、蚊の鳴くような声で言った。
 鯉登家の女中として、やって来る前の話だ。名前は女学校在学中に、とある豪商の跡取り息子に嫁ぎ、二年ほど生活していたという。
 義両親から初孫をせっつかれ、時間だけが無常に過ぎていく。焦燥感が募るに比例して、元旦那は酒の量が増えていく。
「子供が出来なかったから、あの人は変わってしまったんです」
 子供が出来ない苛立ちを、元旦那は暴力で発散し始めた。子供が出来れば、平穏な生活が戻って来る。身体に青痣や生傷が出来る度、彼女は自分に言い聞かせた。子供という存在が、踏み留まる最後の綱だったのかもしれない。
「どんなに望んでも、駄目でした。妻として不適合だと言われ、離縁されてしまいました。解放された……そう思いました」
 名前は泣きながら笑う。下腹部を摩る手つきは、かつて私を撫でてくれた優しい手にそっくりだ。だから余計に、痛々しく見えてしまうのだ。

 実家で過ごす療養の日々は、穏やかだったという。両親は何度か縁談を持って来たが、名前は頑なに全部断り続けた。次第に縁談話を持って来る数は減り――代わりに鯉登家女中の話を持って来たそうだ。
「だから音之進様の気持ちには、応えられないのです。もうあんな思いは、したくありませんから……」
「嫌な記憶を思い出させて、すまんやった」
 ぽろぽろと涙を零す名前を引き寄せる。
「おいん両親は、名前ん過去を知っちょるんじゃな?」
「……はい。女中に雇われる時に、事情を伝えました」
「そうか」
 父上が、しっかり話し合えと言ったこと。母上が神妙な表情をした理由も合点がいく。
 好いた女の知られざる過去。もう思い出したくないし、誰にも知られたくない記憶だろう。子供が出来ないから、苛立ちに任せて暴力を振るった元旦那が許せない。
 私が思い切り、叩きのめしてやりたい。見ず知らずの男への怒りより、隣にいる名前を幸せにしたい気持ちが上回る。例え訳ありの過去だとしても、私の気持ちは微塵も揺るがないのだ。それどころか、更に愛おしく感じてしまう。
「こんな私でも、音之進様は好きだというのですか……?」
 とっくの昔に、惚れてしまっているのだ。答えなんて決まっている。今更ではないか。
「子供が出来ん理由で、おいが名前を諦むっわけなかじゃろう? 子供ん頃から、おはんが好きなんじゃ。おいん気持ちを見くびっなじゃ」
「音之進様……」
「名前が幸せであれば、子供がおらんでん構わん。父上と母上は反対せず、話し合えちゆちょっ。おいなら、おはんを幸せにしてみせっ。じゃっで、本音を聞かせてくれ」
 三年前に二人きりの離れで、抱き締めたことを思い出す。我慢強いというか、頑固なのか――ともかく、何も変わらない彼女が好きだ。
「音之進様と出会い、少しずつ癒されていきました。将来の嫁にすると仰るのも、大人に憧れてるだけで、大きくなれば自然と離れる。立派な軍人様になったら考えると言えば、諦めてくださるだろう……そう思っておりました」
 ぽつり、ぽつりと胸の内が語られる。やはり私は、あしらわれていたらしい。
 転機が訪れたのは、三年前だと言った。忘れもしない。忌まわしい誘拐事件である。
「あの時、初めて音之進様に抱き締められて混乱しました。でも、泣きながら謝る音之進様の気持ちは十分伝わりましたよ。子供だと思っていたのに……気がつけば違う意味で、目が離せなくなってしまいました」
「そ、それは、どう意味や?」
「音之進様は鯉登家を背負う方で、良家の御令嬢と結ばれるべきなのに、嫌だと思ってしまうんです。ただの女中が……離縁された出戻り女が懸想して良い相手ではないと、言い聞かせてきたのに……」
「名前――」
「どうして……こんな気持ちに、なるのでしょう? 駄目だと思うほど、辛いのです」
 名前の胸の内から、密かに募らせた恋慕が堰を切って溢れ出す。嗚咽混じりの彼女を、私は強く抱き締める。自惚れていなければ、名前も私と同じ気持ちだと思う。頬に熱が集まってしまう。柄にもなく嬉しくて、感情が抑え切れずに口端が緩みそうだ。
「なぁ、名前。顔を見せてくれんか」
「音之進様には、酷い顔を見せたくないです」
「気にすっな。おいも酷か顔をしちょっじゃろう」
 名前は両手で顔を隠しているので、どんな表情をしているか分からない。涙でぐちゃぐちゃな顔でも構わない。とにかく、ちゃんと面と向かって伝えたいのだ。
 しばらくして、鼻先と目尻を赤く染めた顔が表れた。涙の粒は睫毛に絡まり、きらりと輝く。潤んだ黒い瞳には、頬を赤くする私自身が映っている。
「子供がいなくても、一生大事にする。私の妻に、なってくれないか」
「音之進様のお側に……置いてください」
 言われなくても、そうするつもりだ。背中にそっと回される両腕の感触に、心が温かくなるのを感じた。

 ※

 その後、私達は父上と母上に結婚の承諾を得ることが出来た。とは言え、当時の私は少尉に任官したばかり。軍人としても、男としても未熟な私に、父上は結婚の最低条件を提示したのだ。
 軍務に専念し、指揮官として色々学ぶこと。一年後、中尉へ昇進してから祝言を上げること。これらの条件を飲み、私と名前は将来を誓い合ったのだ。
 それからすぐに父上と私は、金塊争奪戦へ身を投じることになる。あれが私にとって、初めての戦争だった。
 網走監獄から脱獄した、一癖も二癖もある囚人相手と斬り合い、樺太へ渡って露西亜へ密入国までした。九死に一生を得るような経験も沢山したし、ずっと信じて疑わなかったことが、足元から崩れ去る出来事もあった。
 何を信じたら良いのか、私なりに悩み尽くした。無関係な人間を巻き込む恐ろしさ。大義と私怨。本音と建前。指揮官として、部下達を守ることも学んだ。今思えば無茶ばかりだったが、私は後悔していない。
 あの争奪戦は得た物がある分、失った物も大きい。戦後処理で忙しない毎日を送る中、私は中尉へ昇進した。そして私と名前は、晴れて夫婦となり――気がつけば三年経っていた。
「音さん。まだ起きているんですか? 明日が休みだからって、夜更かしは良くないわ」
 名前との出会いを記していると、書斎の扉が開く音と共に愛しい人の気遣わしげな声がした。
「どうした? 眠れんのか?」
「この子がポンポンって元気に蹴るから、目が覚めてしまって」
 ぼんやりした洋燈の灯りに照らされる彼女は柔らかく微笑み、臨月に入って膨れた腹部を優しく摩っている。お腹は襦袢の上から分かるほど、なだらかに大きく膨れている。思いもよらない授かり物が、私達夫婦の元に舞い降りてくれたのだ。
 子供が出来なくても構わない。
 夫婦二人で幸せなら、良いではないか。そういう気持ちだったので、名前から妊娠を告げられた時は本当に驚いた。それと共に、とても嬉しかったのを覚えている。当時の名前は、嬉し涙を流していた。

 戌の日参りで安産祈願をしてもらい、岩田帯は彼女の腹部を守るように常に巻かれている。お腹の膨らみが大きくなるのは、宝ものが成長している証である。少しずつ大きくなる彼女のお腹を見る度に、とても愛おしい気持ちを抱いたものだ。医者曰く、母子共に健康だそうだ。いよいよ臨月に入り、いつ生まれてもおかしくないという。
 数年前アイヌの村で、赤子を抱っこしたことがある。ふわふわして小さいのに、どこにそんな力があるのかと思うほど、私の指を力強く掴んで離してくれず、慌てふためいたものだ。あの時の赤ん坊達は、今頃どうしているだろう。すくすく育っていると良いのだが。
「寒うなかか? 身体を冷やしたや、お腹ん子にも良うなか」
「音さん、ありがとう」
 私は着ていた半纏を、彼女にかけてあげる。
 今は安定しているようだが、妊娠したばかりの名前は、悪阻が酷くて床に臥せることが多かったのだ。せっかく母子共に健康なのに、身体を冷やして風邪を引いてしまったら、大変なことになってしまう。
「あっ、また蹴ったわ」
 私の心配をよそに、嬉しそうに言う名前。ほら、と私の手を取って腹に添えてくれる。じんわりと、彼女の体温が伝わってくるだけ。胎動とはどんな感覚なのか、私には当然分からない。お腹の中で水がぽこぽこする感覚とか、内側からぽんぽん蹴られると、時々痛みを感じることもあるらしい。
「おいん子は、よう蹴っ子や」
「こうしてお腹を触ってると、この子もお返ししてくれるんです」
 そう嬉しそうに話す彼女の姿。見ているだけで、私も微笑ましい気持ちになるのだ。
「元気なんな良かこっじゃ!」
「音さんに似て、わんぱくかもしれませんね」
「お転婆娘かもしれんな」
「ふふ、そうかも」
「元気に産まれてくれれば、おいはどっちでん構わん。早く会いたい」
 私がお腹の子に語りかけるように言うと、名前も同意する。
「この子の名前は、もう決めましたか?」
「男ならおいから、おなごなら名前から、一文字ずつ取ろうち思うちょっ」
 名前はお腹の子に、楽しみだねと語りかける。
「さあ。もう寝よう。ほら、」
 そう言って私は、洋燈を消す。辺りが暗闇に呑まれる前に。私は愛しい妻の手を取り、共に寝室へ向かうことにした。
 あと何日寝れば我が子と会えるか。新しい家族の誕生に胸を膨らませながら。

貴き平行線


Happy end
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