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 僕は“田舎にいる両親の具合が悪いため、数日実家に戻る”という理由でお休みを難なく貰うことが出来た。日々真面目に職務にあたっていることが功を奏した結果だ。僕の休暇理由に訝しむ者など誰一人いなかった。それどころか、残念がる女性達が大半だった。
「……田舎の両親ねぇ」
 そう、この女以外は。
「一番手っ取り早い理由なんですよ」
「バーボンだからママの了解を得られたのよ。私や他の子じゃ無理ね」
 組織の女性幹部である女の自宅で、手料理を振る舞うこともいつの間にか当たり前になっていた。
 僕は、訝しげにこちらを見て来るコードネームへにこにこ笑ってみせた。彼女は僕が作ったお粥を大人しくペロリと平らげていた。どうやらコードネームの胃を掴むことは出来たようだ。トリプルフェイスという多忙な毎日を送る僕にとって、唯一心安らぐ瞬間が料理である。それを百歩譲って風見に披露するならまだしも、武器として敵の懐柔に使うことになるとは思ってもみなかったが。
「ママも他の女の子達も、貴方に数日会えないって寂しがってたもの」
「それじゃあ僕の方でも調べてみます。数日会えませんが、寂しがらないでくださいね?」
「はぁ?私が?何言って――、」
 女の額に軽くキスをすれば、気安く触らないでと相変わらず棘を含んだ言葉が飛んで来る。
「あ、ああ、相変わらずスキンシップが多いのよ、貴方は!」
 不機嫌を露わにしたコードネームは、そのままベッドに横になってしまった。僕は布団の膨らみを眺める。あの態度が彼女の精一杯の強がりだと思うと、何だかいじらしく感じてしまう。眠りが浅いと言っていたコードネームを僕が寝かし付ければ、彼女は小さな子供のように瞬時に眠ってしまう。
 似合わない作り笑顔ばかりのコードネームも、寝顔はとても穏やかなものだった。すぅすぅと寝息を立てる女を見て、こんな顔をすることも出来るのかと僕も素直に思ったものだ。本人は、それに気付いていないだろう。
 大人しく眠っていれば年相応の女性で可愛らしいのに、本当にプライドが高い女だと思う。
 ご飯の件や睡眠の件と言い、割と女を手懐けることが出来たと思っている。だが、今までの女の振る舞いを思い返せば彼女自身、表面上は認めたくないのだろう。彼女とペアを組まされて任務に当たってからひと月程経つ。初対面の時に比べれば、相手の反応も些か丸くなったような気がしなくもない。
 プライドが高い女程、手に取るように解ってしまう。何せ僕もプライドが高いからこそ解るのだ。同族だからこそ通じてしまう何かがあるのだろう。
 これまでコードネームと関わって来て解ったことと言えば、彼女は自分を見せることを何よりも怖がり、そして相手に自身を暴かれることに脅迫観念でも抱いているようだ。あの組織内で生き延びるには、己を隠すことが一番利口だ。組織内では中立の立場を保つことでその地位を確立して来たらしいコードネーム。だが、度重なる裏切り者の脱走、各国の公的機関から潜入しているNOCの存在によって、組織内はNOCを全て始末しようと躍起になっている最中だ。

 中立な立場が取れる人間は、精神的にも社会的にも“自立”していなければならない。どちらの主張も的確に分析し、合理的な判断をする力を持つ人間にこそ相応しい。今まではどっち付かずの対応だけで対面を保てていたのだろうが、今後はそうも行かないだろう。何を考えているか解らない立ち振る舞いが、不信感を持たれてしまっていることに彼女は気付いていない。もう少し、幹部とコミュニケーションを取らなければ、置いてけぼりを喰らってしまう。
 だから今回、NOC疑惑を掛けられた僕と一緒に組まされることになったのだ。恐らくジン辺りの差し金だろう。“疑わしきは罰する”が流儀の男にとって、コードネームが任務でヘマをすれば始末する口実が出来る。そこに僕がいれば尚更都合が良いのだ。
「調べ終わったら連絡します」
 布団を被って丸くなっている彼女に向かって、僕はそれだけ言うと部屋を出た。
 いつの間にか太陽が昇り、新たな一日が忙しなく始まっていた。太陽の眩しい光を浴びて視界が霞む。そう言えば、コードネームをホテルから送迎してからずっと彼女の自宅にいたので、一睡もしていないことに今更気が付いた。しかし、時間は無駄に出来ない。徹夜は慣れっこだ。少々無理矢理だったが、こうして監視の目が一時的に外すことが出来たのだ。風見に無事であることを連絡しなければならない。東都水族館をジン達が襲撃して以降、僕の周辺を組織の構成員が嗅ぎ回るようになり――極め付けはコードネームのお出ましだ――本庁と連絡が取れず仕舞いだったのだ。
 そもそも、本気で僕の監視に力を入れるのであれば、コードネームと同棲しろと命令が下った方が理に適っている。そうならないということは、僕のNOC嫌疑もあと少しで解けるのだろう。僕を最終チェックするために彼女は差し向けられたのだろう。
 僕はスボンからスマホを取り出した。相変わらずバッテリーの減りが早く、残り三十パーセントと表示されている。コードネームにバッテリーの件をそれとなく探りを入れたものの、何食わぬ顔のまま躱されてしまった。彼女が盗聴器を仕掛けたに違いない。大方、初日に送られたデータと一緒に添付されていたのだろう。
 この手のタイプの盗聴アプリは、デバイスの容量を異様に占めてしまうため、バッテリーの消耗も激しいのだ。公安で使用したことがあったからもしや……と思い、調べてみたらビンゴだった。“降谷”のスマホに盗聴器や発信機を仕込まれてしまったら一貫の終わりなので、本庁の自分のデスクに置きっ放しにしておいて良かった。別にスマホがなくても問題ない。風見の電話番号は、僕の頭の中にしっかりと記憶してある。
 ご丁寧なことに、コードネームは愛車の助手席の真下に発信機も貼り付けていた。僕はそれを敢えてそのままにしている。彼女はスマホを通して監視を行っている可能性が高いのだ。彼女のスマホもバッテリー消費が激しかったのが何よりの証拠だ。監視に気付いていませんと思わせておいた方が良いに決まっている。
「“降谷”としての仕事は徒歩だな」
 一度着替えるために、メゾンモクバに戻らなければ。

『降谷さん、御無事で何よりです……!』
 部下は僕の声を聴くと安堵の息を吐き出した。
「心配を掛けさせてすまない。今まで監視が付いていて連絡が取れなかった。今は組織の仕事をメインに監視を遣り過ごしているよ」
『それで……NOCの疑惑は晴れたんですか?』
「いいやまだ監視されている。数日間だけ監視の目から外れるよう手配した。時間があまりない。……東都水族館の後始末の首尾は?」
 今では街中で見掛けることが少ない公衆電話ボックス。僕はとても重宝している。自分だけの密室空間。第三者に内密な会話を聞かれる可能性も低いし、相手の着信履歴に番号も残らない。
『滞りなく完了いたしました。キュラソーの行方は現在も不明です。爆発したトレーラーから発見された身元不明の黒焦げの死体が彼女の可能性が高いです』
「そうか……。僕はこれから組織の仕事でいくつか調べることがある。今から言う人物の口座データを、君の方で洗いざらい全て調べてくれ。別名義のものも全てだ」
 僕は佐武と金融庁長官秘書の口座番号を風見に伝える。この情報は、マデイラから渡された情報である。彼らの口座について調べることが、僕の推理にはとても重要なのだ。
『……解りました。こちらで調べておきます』
「明後日の午前八時に川品駅前で待っている」
手短かに用件を伝え終わると僕は電話を切った。次は、佐武の会社のサーバールームに用がある。

 昼間の侵入は堂々とした方が目立たない。コソコソするから不審がられるのだ。
「え?前回の点検でサーバールームに忘れ物をした?」
「ええ、申し訳ございません」
 コードネームが前もって調べてくれた情報によると、佐武の会社ではサーバールームの管理を別会社に委託しているようだ。僕は、委託先の担当者に扮して佐武の会社に白昼堂々とやって来た。アポなしの突然訪問に、担当者は些か迷惑そうだ。
「安室……透さんと言うんですね。前の担当者とは違うようですが……」
「ああ、彼は別件で立て込んでいるので僕が代理で取りに来たんですよ」
 よくもまぁ口から出まかせがポンポンと出るものだ。警察組織内でも秘匿事項が多い公安に所属していると、嘘を吐くことが当たり前になってしまう。全ての嘘は自分の正義を通すためとは言え、ちょっとだけそんな自分に呆れてしまった。
「そう言うことならどうぞ」
「ありがとうございます。お手を煩わしません。十分以内に戻りますから」
 サーバールームの鍵を情報セキュリティ担当者から難なく受け取ることが出来た。さっさと目的のものを手に入れて離脱しなければ。
 何本ものケーブルをPCに繋ぎ、社内サーバーに侵入することが出来た。ネットワークの海を彷徨うこと数分。目的のデータファイルは影も形もない。画面に表示されるフォルダの中身はまっさらだった。
「閲覧権限を制限しているのか……?」
 ハッキングで権限を切り替えると、まっさらだった画面にもう一つのフォルダアイコンが表示された。思った通り、佐武直下のファイルサーバーに保管されているみたいだ。保存日時はつい最近の日付である。クリックするとパスワード入力を求められた。社内の機密事項――いや、重要機密データなのだからロックが掛かっていて当然である。佐武が考えそうなパスコードは一体何だ。生年月日や電話番号を入力しても開かない。
「もしかして……」
 思い当たるコードを入力すればロックは解除された。ふぅ、と小さく息を吐いた僕はUSBメモリを差し込み、ファイルをコピーするようセットした。腕時計を確認すると十分も経っていなかった。
「どうもありがとうございました」
 ケーブルを元の位置に戻し、ささっと帰り支度を済ませた僕は颯爽とサーバールームから出る。そんな僕を担当者が不思議そうな顔をして見ていた。
「も、もう良いのですか?」
「ええ。お陰様で忘れ物は……見付かりましたから」
 掌に握られる確かな証拠。その小さな感触を僕は確かめた。
「それは良かったです」
 白昼堂々と社内の機密情報が盗まれたことに気付いていない担当者へ、僕は手を軽く振り上げた。
 まさかデータのパスワードが、あの女の源氏名だとは思わなかった。余程コードネームに惚れ込んでいるらしい。残念ながら、彼女は任務でハニートラップを仕掛けているに過ぎないが、その努力も無駄ではないようだ。
 この状況を利用しない手はないだろう。風見に調べて貰っている内容とこのデータが合致すればヤツは公安のものだ。悪いがコードネーム――お前には渡さない。

 川品駅前広場。東都環状線の乗り換え駅として、ここは昼夜問わず常に人が集まり騒がしい場所だ。どこからこんなに大勢の人間がいっぺんに沸いて出るのか、僕はいつも不思議に思っている。待ち合わせをする者。キャッチで客を掴もうとする輩達。大勢の通行人。観光バスや、タクシー、トラック、乗用車が行き交う大通りは今日も賑わっている。電光掲示板から流れる映像と音楽が、一層駅前を騒々しくさせていた。そんな場所で、僕はただ立っている。目的の人物がやって来ても僕は挨拶をしないし、目も合わせなかった。それは男――風見も同じだ。僕達は、隣に立っているが全くの赤の他人を演じている。
 僕は、パーカーに入れていたUSBメモリをさっと隣に手渡すと瞬時に回収された。
「僕が調べた内容をまとめてある。例の件はどうなっている?」
「……別名義まで調べ尽くしました。どうやら海外の銀行にも口座を持っているようで、何度か送金されたログも取れました。詳細データはそちらに記録しています。違法な金の臭いがします」
 風見は耳にスマホを当てながら話している。傍から見れば、誰かと通話しているように見える。風見から渡された茶封筒を受け取った僕は中身を確認した。そこには同じようなUSBメモリが入っていた。
「やはり僕が思っていた通りという訳か。彼女はこのことに気付いていないんだろうな……」
「彼女、とは貴方に張り付いている組織の人間ですか」
「ああ。その女と一緒に任務に当たってる最中だ。だが、君のお陰で早急に任務と監視に片が着きそうだよ」
 僕は当てもなくふらりと歩き出すと、数歩遅れて風見も着いて来る。付かず離れずの絶妙な距離を保ちながら歩く。
「明日の夜、動く。僕が対応するから公安部から応援を寄越せ」
「了解しました」
 その一言が雑踏に混じって消えると同時に、後ろに着いていた風見の気配も消えた。
 自宅へ戻ると、風見から渡されたデータの確認作業をすることにした。データには佐武と旧友の名前と、それぞれの銀行口座番号と預金額から送金額などの膨大な量が入力されている。そして、佐武名義の複数の口座から旧友名義に送金された金額と、僕が入手したデータの金額がどれもピッタリと一致していた。
「思った通りだ」
 資金洗浄マネーロンダリングソフト開発を隠れ蓑にした犯罪の証拠である。これを証拠に佐武を追い詰める。

 押入れから愛銃を取り出した。グリップを握ると僕の手によく馴染む。組織から配給された銃ではなく、降谷零として長年使用しているコイツの方が好きだ。ここ数ヶ月は組織から掛けられた疑惑を払拭するために、本庁との連絡を切り尚且つポアロのバイトを一旦休みにしてバーボンとして活動して来た。コイツの手入れも暫くしていない。
 銃は手入れしないだけで標準が狂ってしまう繊細な道具なのだ。明日は久しぶりに降谷として仕事をするので、相棒の手入れをしなければならない。
「そう言えば、車も洗車しないとな」
 僕は手入れの作業が嫌いではない。寧ろ好きだ。
 いつも世話になっている白い愛車のことを思い浮かべると、自然と頬が緩むのを僕は感じた。気を緩めることが出来ないトリプルフェイス生活において、本来の自分――降谷零に戻れる瞬間は何よりも貴重である。
 愛銃を解体し、銃身内にガンオイルを塗る。ブラシを通すとフワッと煤が溢れ出た。クリーニングロットの先端に着古したTシャツを小さく切ったものを引っ掛けて、銃身内へ回しながら入れる。銃身内を何往復した布を取り出すと、煤で真っ黒に汚れていた。シュッシュッとガンオイルを銃身の外側に吹き着けて、布で指紋等を拭き取り丁寧に磨き組み立てれば、愛銃が本来の輝きを取り戻す。僕は感触を確かめるためにグリップを握り、何度か構えを取ってみる。
「こんなもんか」
 ふぅと息を一つ吐いた。感覚は鈍っていないようで安心した。

 ベッドとローテーブル。段ボール一箱にギターが一つ。それ以外は何も置いていない殺風景な畳の部屋は、まるで家主である“安室透”そのものを表しているみたいだと――僕は思った。“安室透”という名前が付いた箱を開けると空っぽなだが、もう一つの箱が出て来る。それを開けると更に小さな箱が存在する。まるでマトリョーシカみたいだ。“安室透”も“バーボン”も蓋を開けても何も出て来ない。彼ら二人は、“降谷零”という大きな箱の一部に過ぎないからだ。僕は、この部屋と同じ位殺風景なコードネームの部屋を思い出す。
 ならば彼女はどうだ。眠らない大都会を彩る夜の蝶。ぎこちない作り笑いばかりするには、何にも詰まっていないと言うのか。いや、彼女の箱には無駄に成長して肥大化してしまったプライドだけが詰まっているのだ。僕はそいつを潰したい。潰してこそ、本来の彼女を知ることが出来るのだと思う。
「……少しだけ眠ろう」
 一体どうしたんだ、僕は。らしくないじゃないか。
 目頭を押さえると、じんわりと疲れが滲み出る。ベッドに横たわった僕は、瞬時に夢の中へ堕ちて行った。


虚実のボーダーライン


Title By icca
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