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「明日もお仕事なのに、こんな遅くまで付き合ってくれてありがとうございます」
「僕は午後からだから、気にしないでくれ」
「お仕事、順調ですか?金融システムの開発を任されたと仰ってましたよね」
 マネロン対策でしたっけ?と首を傾げてみれば、佐武が感心する。
「良く覚えているね、嬉しいなぁ」
「貴方に関することなら、どんなことでも忘れないわよ」
「それじゃあなまえちゃんに特別に少しだけ教えようか」
 今日も新しい一日を知らせる太陽が昇り始める前に、私達はホテルをチェックアウトした。佐武を乗せたタクシーは街中に消えて見えなくなり、私は欠伸を一つする。佐武が眠っている間、私は彼のノートパソコンのデータを隅々まで調べたのだがめぼしい情報はなかった。
 従来の金融犯罪対策システムは、定期的なモニタリングとフィルタリングの二種類で稼働しているのだが、リアルタイムに取引ログの監視は出来なかった。新しいシステムは、多額の資金を注ぎ込み大幅に改良したと佐武が喋っていた。最終チェックが始まったばかりで、実装と運用開始日については教えてくれなかったものの――この情報を得られただけでも身体を使った甲斐はあった。後でバーボンと共有しなければ。
「その様子だと新しい情報が手に入ったようですね」
 黒服姿のバーボンが私を出迎えた。
「……何で貴方がここにいるの」
「言ったでしょう?待つのも待たないのも僕の自由だと」
 不機嫌気味の私に対して気にする素振りもなく、にこりと微笑むバーボン。それに、とバーボンが言いながら私の方へやって来たかと思えば、白い手袋を嵌めた彼の手がしなやかに動いて顎をくいっと持ち上げられる。私は不覚にも、瓶底眼鏡を掛けていない男の整った顔を見上げる形となった。
「ボーイの仕事は、ホステスの送迎も含まれてますから」
 彼は表向き、業務の一環で待機していたと言いたいらしい。
「酷い顔色だ。せっかくの美人が台無しですよ」
「……これから帰って寝るから、マンション前までお願い」
「解りました。さぁ、どうぞ乗って下さい」

 私は手に入れた情報をバーボンと共有する。バーボンは、アフターからホテルの一室に入るまでの私と佐武の様子をしっかりと写真に収めたことを報告してくれた。着々と進む任務。ここまで大きな問題は発生していないので、ふぅと一息吐く。心地良いエンジンの振動で普段なら眠くなるのだが、ターゲットと一夜を共に過ごした次の日は神経が昂ぶってしまって眠れないのだ。何よりシャワーを浴びてさっぱりしたい。チェックアウト前にも浴びて来たのだが、昨夜の情事の痕跡が未だに身体に染み付いているようで気持ち悪い。そんな状態のままでベッドに横になりたくなかった。
「お疲れ様でした、着きましたよ」
 バーボンが車のドアを開けてくれる。
「ありがとう……。それじゃあ――」
 御礼もそこそこに、私はマンションのエントランスへ入ろうと踵を返すとバーボンに手首をぐっと掴まれてしまった。
「顔色が青白いですよ。本当に大丈夫ですか?」
「……平気。いつものことだもの」
「それは関心しませんね。何にせよ、体調を崩したら任務も上手く行きませんよ」
「……解ってるわよ。もう寝たいから……バーボン、離して」
「離せませんよ。今にも倒れそうな貴女を放っとく訳ないじゃないですか」
 男に掴まれた手首がじんわりと温かく感じる。人の温もりというものだろうか。
 何故だろう。昨夜、他の男に好き勝手された時は温かさも冷たさも何にも感じなかったというのに。バーボンと話していると、自分のペースが乱されてしまう。
「お腹空いてますか?良ければ簡単なものを作りますよ」
 今だって、例え私が断ってもバーボンは従うつもりは微塵もないだろう。今までの言動を振り返ってみると、彼は秘密主義者の癖に外交的なのだ。私とは真逆だ。
 肯定も否定もせずエントランスに進む私を見て、目を丸くするバーボン。
「……断っても引かないのでしょう?」
 私はバーボンをマンションへ招き入れた。

 私達は無言のままエレベーターで三階まで昇った。特に気まずさは感じなかった。「……どうぞ」と、バーボンを部屋に招く。
「お邪魔します」
 彼は私に一声掛けてから靴を脱いで部屋に上がった。
「お部屋綺麗にしているんですね。まるで生活感がない」
「殆ど寝に帰るだけだから。これで十分よ」
 彼の言う通り生活感が全くない、家具家電付きの仮住まい。身軽に引越しが出来て、入居初日から生活が出来るので有り難かった。ワンルームなのに広々と感じるのは、家具や家電が壁と同じホワイトだからだ。勿論、殆ど私物がないのも理由に挙がるだろう。
「観葉植物がお好きなんですね」
 玄関のシューズ入れの上、窓際の一角、ローテーブルの真ん中、対面キッチンの隅っこに、サンスベラとエバーフレッシュの鉢がいくつか置いてある。バーボンは対面キッチンの隅にちょこんと鎮座しているサンスベラを指差した。
「ええ、白だけじゃ味気ないから」
「それじゃあ何か簡単なものを作りますね。冷蔵庫を開けても?」
 対面キッチンからバーボンが尋ねる。
「ご自由に。大したもの入ってないと思うけど」
 仕事柄、どこかしらに潜入することが多く外食することが殆どなのでまともに自炊をしていない。キッチン周りには、鍋とフライパンが一つずつあるものの大した調味料もないし、冷蔵庫の中は飲み物やジャムなどそういったものしか入っていないだろう。玉葱と人参ぐらいは残っていたと思う。バーボンが冷蔵庫の中身をチェックしているので、私はその間にさっさとシャワーを浴びることにした。
 任務期間中に監視対象を部屋に招くことになるとは想定外だったが、敵対勢力が侵入する場合を考えて部屋に仕掛けた小細工がこんな形で役に立つとは思わなかった。私がシャワーを浴びている最中に、部屋中を物色している男の映像や音声を手に入れることが出来れば、彼を即NOCと判断する腹積もりでいる。彼がNOCだろうとなかろうと、私にとってはどちらでも良い。寧ろ白か黒か解らない現状よりマシだ。私とバーボンの間柄なんて、所詮その程度なのだ。
 組織の人間を自分のプライベート空間に上がらせることなんて今まで絶対になかった私に対して、知ったこっちゃないと言わんばかりに――バーボンはごく自然な仕草で私のパーソナルスペースに滑り込もうとして来る。お陰で自分のペースが容易に崩れてしまうので、本当にタチが悪い男だ。
 ベルモットが言うように、私は組織内でも中立の立場を貫いているつもりだ。だからこそ、こんな面倒な役目に白羽の矢が立ったのかもしれない。ライがFBI捜査官だと露見して以降、組織内で裏切者を探る目が更に厳しくなったと思う。ネズミかどうか判断するのに公正な目が必要になったのだろうと――面倒な仕事を言い渡された苛立ちに、強引に理由付けをしてみる。
 温かい無数の粒が私の身体に降り注ぎ、いくつもの雫となり流れ落ちた。

 部屋着に着替えてリビングに行くと美味しそうな匂いが漂って来た。ふと、子供の頃の懐かしい記憶が甦り、空腹感と共に寂しさも覚えてしまう。家族が生きていたら、今頃どこかの会社で社畜をしながら平々凡々と暮らしていたのだろうに。生きているだけで辛いこともあるけれど、その分人の温かさも感じることが出来ていた筈。犯罪に手を染めることもなく、真っ当な人間として社会の歯車の一部になっていただろう。
 リビングからキッチンにいるバーボンの姿をぼんやりと眺めながら、どうしようもないことを取り留めもなく考えている私に気付いたのか、「さっきよりは顔色良くなりましたね」と彼がにこっと笑った。
「身体が温まると思って」
 カウンターに置かれたのは、ほわほわと湯気が昇るコンソメスープだった。透き通るような琥珀色の液体に浮かんでいるのは、一口大にカットされた残り物の玉葱と人参、ベーコンだ。残り物の具材も、冷蔵庫の中で腐るだけを待つより本来の役割を果たすことが出来て嬉しそうに見えてしまう。きっとこれは私の目の錯覚に過ぎないのだが。
「食べないんですか?」
「食べるわよ」
 傍に置かれたスプーンを手に取った私は、美味しそうなコンソメスープに視線を向けた後バーボンの顔を見遣った。
「……どうしたんですか?」
「別にどうもしてないわ」
「冷めちゃいますよ」
 スプーンを手にした私がいつまで経ってもスープを口にせずバーボンの顔ばかり見ているので、彼は居心地が悪く感じたのかキリッとした形の良い眉毛を顰める。暫くの間対面越しにお互い見つめ合った――と言えばロマンチックな雰囲気を感じるけれど実際は腹の探り合いに近い殺伐とした視線を無言で投げ付け合ったのだ。
「……ああ、やだな。僕がそんなことする訳ないじゃないですか」
 無言の攻防戦を降参したのはバーボンだった。彼は眉根を下げて困ったように笑った後、私の手からスプーンを取った。そして私が見ている目の前でスープを一口飲む。
「毒なんて入れる訳ありませんよ。そんなことしたら任務が失敗してしまうでしょう?」
 ほら、この通り何も混入していませんと続けた。
 私は基本的に自分で調理したものか、格式ある店で出されたものしか口にしないようにしている。得体の知れない相手が作ったものは食べない。相手はNOCの嫌疑が掛かっている男だからこそ、用心するに越したことはないのだ。せっかく作ってくれたものにケチを付けるようで気が引けるが致し方ない。
「あんな組織の一員なんだし、どこで恨みを買っているか解らないでしょ?」
「……ごもっともです」
 睡眠薬や自白剤、ヒ素や青酸カリなどの毒物を飲食物に混ぜるのは私もやる手口である。ターゲットに情報を吐かせたり、罠に嵌めたことを有耶無耶にさせることや、時には毒殺もある。薬物は刃物や鈍器と違って特別力が必要でもないし返り血を浴びることもない。量を調整すれば効き目を遅らせることも出来る。女にはもってこいの道具なのだ。
 バーボン自身も私が投げる視線の意味を察した辺り、自分の置かれている現状を理解しているようだった。スープに何かしら薬物を混ぜてあったとしたら彼は私の目の前で毒味などしないだろう。このコンソメスープには何も混ぜていないのは明らかだった。
「すみません、僕が口を付けてしまったので代わりのスプーンを――」
「これで食べないと意味ないの」
「あっ……」
 バーボンの手からヒョイとスプーンを奪い取った私は、頂きますと一声掛けて琥珀色の液体を口に運んだ。
 ブイヨン特有の牛や鶏の肉の旨味と野菜の出汁が、温かさと共に優しくふわりと口の中いっぱいに広がった。具材も丁度良く味が染みていて、思わず本音が零れてしまう。
「……美味しい」
 小さく呟いた私の声に、バーボンがホッとしたように胸を撫で下ろす仕草をする。
「お気に召したようで良かった。夕方起きた時の分も作ったので食べて下さいね」
 バーボンが指を指す先には鍋が一つ。今夜の出勤前に、ちゃんと腹に食べ物を入れてから出勤しろと言いたいようなので、私は相槌を打つ。それを確認したバーボンは納得したのか、洗物を始めた。ザアァァと水が流れる音とカチャカチャと食器を洗う音だけが狭いワンルームを満たす。私はスープを飲みながら、洗物をしているバーボンを見つめていた。別に会話をするつもりはなかったが、気が付いたら疑問を口にしていた。

「バーボンって普段何しているの」
 無意識に滑り落ちた私の問いと、バーボンが最後の皿を水切りカゴに置くのは同時だった。彼は手を拭きながら答えてくれる。
「私立探偵をやってます。もし依頼があれば喜んでお受けしますよ」
「ふぅん……」
 手渡された名刺には、“私立探偵 安室透”の名前と連絡先が印字されていた。組織随一の探屋の正体は私立探偵だったのだ。バーボンの鋭い洞察力や観察眼、情報収集力は普段の仕事で培われた能力なのだろう。
「貴方、ハニートラップしたことあるの」
 人当たり柔らかい対応と細かな気遣いはボーイの仕事に役立っているようだし、数人のホステス達がチラチラと熱の篭った視線をバーボンに投げているのを私は何度も目にしている。これだけ容姿が整っていれば、情報を手に入れるためにターゲットと性的関係に持ち込むことも容易いだろう。
「やったことないですし、僕には出来ませんよ」
「どうして?貴方なら上手く相手を籠絡出来そうなのに」
「女性を傷付けることはしたくないですから」
「……そう、ね。立派な心掛けだわ」
 穏やかに笑みを浮かべるバーボンの答えに、私は毒気が抜けれてしまうが妙に納得してしまう部分もあった。
 ホステス達が送る熱い視線を澄ました笑顔で受け流し、頑なにボーイとホステスの線引きを解こうとはせず――寧ろ紳士的な振る舞いに徹している節があったのだ。ホステスに手を出す黒服もいない訳ではないが、水商売業界のタブー行為である。顔が変わる程制裁を受けただとか、何十万円の罰金を払ってクビになったとかそんな話を聞いたこともある。
 何より私とバーボンは組織の任務のために潜入しているのだ。余計なところで荒波を立てて任務が失敗すれば、それこそ命が危ない。顔をボコボコに殴られたり、罰金を払ってクビになる方がマシなレベルだ。
「その言葉、貴方を狙ってるホステス達に聞かせればもっと仕事に精を出すでしょうね。ママも大喜びだと思うわ」
「彼女達にそう囁いてあげましょうか。……お店が儲かりますね」
 あくまでも仕事の一環だと言わんばかりの言葉。バーボンは甘やかすような口調でこういう台詞を口にするが、瞳は冷ややかな時がある。目は口ほどに物を言うなんて諺があるが、あれが彼の本心だと私は思う。皆、この男の甘い外見に惑わされているのだ。
 きっとバーボンは仕事であれば何だってやってのけてしまう。そんな男に、女という性を前面に押し出すハニートラップを仕掛けるだけ無駄なことは明らかだった。
「一匹狼の貴女も僕に興味を持ってくれたんですね?」
 嬉しいです、なんて目の前で嘯く男を私は無視して黙々とスープを食べ進める。こうやって私をおちょくって遊んでいる男が犯罪組織の幹部だとは誰も思わないだろう。

「……ところで、佐武から引き出した情報の共有をしましょうか」
 この男、本当に本心が読めない。
 私は佐武から引き出した情報をバーボンに伝えた。新しいシステムに多額の資金を注ぎ込んだこと。最終チェックが始まったばかりだということ。
「成る程……まだ納品前のテスト段階ということですか」
「それって時間が掛かるのかしら?」
「システムには納品前と後に受け入れテストがあるんですよ。詳しい内容は省きますが、不具合等の問題を検出し、システムの品質を安定化させるためのものです。工程表を見ないと解りませんが暫くは掛かるでしょうね……」
 やっぱり早いとこ設計図を手に入れなければならない。
 それから暫く、バーボンは考え込むような仕草のまま黙り込んでしまう。私はやきもきした気持ちで続きの言葉を待つしかなかった。
「……もう少し調べてみる必要がありそうだ。その役目、僕にやらせて貰えませんか?」
「ちょっと、貴方には脅迫材料の写真を撮る役目があるんだけど?」
 勝手に動かれてヘマをすれば半年間の潜入活動が全て台無しになってしまう。それは何としてでも避けたい。
「コードネームの御手を煩わせるつもりはありません。御安心下さい」
 不敵に笑うバーボンの顔は、店で振る舞う柔らかなものではなかった。まさしく組織の幹部に相応しい冷たい色を瞳に宿していた。
「タネが解ってしまえば一日半で調べられますよ……」
 何だか背筋にぞくりとしたものが駆け抜ける。バーボンに対して恐怖を感じた訳ではない。殺気、というものだろうか。見た目と人当たりが良くても、彼はれっきとした犯罪組織の幹部なのだと私は今更ながら自覚した。
「……解ったわ。そっちは貴方に任せる」
「ありがとうございます。今週のどこかでお休みを頂きますので、送迎は出来ませんよ」
 先程の殺気は鳴りを潜め、いつもの甘い笑顔のバーボンが対面キッチン越しにいた。
「……御馳走様。美味しかったわ」
 空になったスープ皿をバーボンへ渡した私は、鞄の中をゴソゴソと漁りスマホを取り出した。ぽちぽちと八桁のコードを入力すればロック画面が解除される。最近は指紋や顔認証でロック解除出来る最新モデルが出回っているが、いつ誰にどこで悪用されるか解らないので私は未だに古い機種を使用している。ベルモットや他の幹部から何か連絡が入っていないか確認したが、特に何も入っていなかったので充電器に差し込んだ。それを見たバーボンがおもむろに自身のスマホを取り出す。
「最近スマホのバッテリー切れが早いんですよ。午前中充電満タンだったのに午後になると一気にバッテリーが消費されてて」
 見せろと頼んでもいないのに彼は、ほら、と言ってスマホ画面を見せてくれた。画面の右上の電池マークが真っ赤な状態で残り二十パーセントと表示されている。
「替え時なんじゃない?バッテリーも劣化するって聞いたことあるけど」
 私は何食わぬ顔でそう言った。初対面の時にデータと共に送った遠隔操作アプリの影響だろう。アイコンが透明タイプで一見解らないのだが、バックグラウンドで常時作動しているためバッテリー消費が激しい。加えて一番の難点は、スマホの空き容量を大きく食ってしまう点だ。
「確かに二年半使ってますから、その可能性ありそうだ」
 バーボンは納得したようで、スマホをポケットに入れた。
「おや、コードネームのスマホもバッテリーが少ないんですね?」
「私のスマホは機種が古いからすぐに電池がなくなっちゃうのよ」
「今度一緒に変えた方が良さそうですね」
「そうみたい」
 バーボンは私の回答に何ら不信感を抱くこともなく、私達の会話は漸く途切れた。何故だかどっと疲れたような気がする。
 部屋の時計は午前七時を指しており、世間は新しい一日の始まりだが、私にとっては就寝時間だ。どうせすぐに眠れないだろうが――横になろうとベッドの方へ目を向けたものの、私は自分が置かれている状況を思い出してすぐに考えを改める。今は私一人ではなく、皿を洗っているバーボンも部屋にいるのだ。幹部の前で、無防備な姿を晒すのはいくらなんでも嫌だった。先程ターゲットに関して情報共有をし終えたので、彼と話すことなど何もない。皿洗いが終わったら帰るだろう。
 私はバーボンが皿を洗い終わるのをキッチン越しから待つことにした。水を止め、健康的な褐色の手の甲にするりと水滴が伝う。伏し目がちに片手を皿の縁に添え、もう片方の手でタオルを滑らせるように皿を拭いている男の姿は何故か様になっている。
「寝ないのですか?」
 不意に飛んで来た男の声に、私の意識がバーボンの手元から顔へ引き戻された。
「私、ターゲットと寝た後ってどうしても寝付きが悪いの。いつものことだから気にしないで貴方は帰って良いわ」
 貴方が帰ったら寝るから、とは言わなかった。
 部屋に招き入れたのは私だし、美味しいコンソメスープも作ってくれた手前そんなことを言うのは憚られた。人を見透かしてしまうようなスカイグレーの瞳の持ち主は、私の心の小さな葛藤を知っているくせにニコニコしている辺り、本当に良い性格していると思う。するとバーボンがキッチンからダイニングにやって来て、とんでもないことを言い出した。

「寝かしつけてあげましょうか?」
「………は?」
 私は今、とても呆気に取られた顔をしているのだろう。その証拠に、バーボンは私の反応を楽しむような口調で言う。
「聞こえませんでした?」
 バーボンは私の頬をするりと軽やかに撫でた後、耳元へ熱い吐息を吹き込むように囁いた。
「僕が貴女を寝かしつけてあげましょうか……?」
「……ッ」
 耳元がこそばゆい。無駄な色気が含まれた耳打ちが、余計に二人だけの秘め事のように感じてしまって、私の肩がピクリと勝手に反応してしまう。囁かれた耳と撫でられた頬にぶわっと熱が集まって行くのが自分でも解った。その反面、監視対象の男に手綱リードを握られてしまったことが悔しくて、私はいつもより強めの口調で反論する。貴方を監視しているのは私なのだと言うように。
「子供じゃないんだから一人で眠れるわよ。さあ、早く帰っ――、」
「幹部であろう貴女がこんなに隙だらけとはね」
「あっ――!」
 両膝裏を抱えられ、グッと肩を引き寄せられたかと思いきやバーボンの整った顔が目の前にあった。そこで漸く私はバーボンに横抱きされたことに気が付く。情けない有様に自分自身に腹が立った。
「ちょっと!何するの、降ろして!降ろしなさいよ、バーボン!」
 鍛えられた筋肉の存在を横抱きされた状態で感じながら、私はバーボンの腕の中で身を捩り子供のようにギャンギャン喚く。喚く子供を無視したバーボンが部屋の電気を消せば、薄暗いワンルームのカーテンの隙間から、朝日がほんの少し部屋に侵入して来る。
 男と女の力の差は埋められることはなく、私が身を捩れば捩る程がっしりと抱えられてしまう。子供のような抵抗も虚しく終わりベッドへ乱雑に放り出され、私の身体が転がるのと同時にスプリングがギシギシと音が立つ。ベッド側に腰を下ろすバーボンに、急に何をするんだと文句を言おうと睨むと彼の双眸が既に私を捉えていた。部屋が薄暗いせいで男の表情が解りづらいけれど、冷ややかな眼差しを私に送っているような気がする。
「ひょっとして……僕が貴女を襲うとでも思ったんですか?」
「……っ!そんなこと、」
 図星に近いことを言い当てられてしまう。トン、と固い壁が背中に当たり、私は無意識にバーボンから距離を取ろうと後ずさっていたことを知る。
 くつくつと面白そうに笑みを零すバーボンが手を伸ばし、私の顎をそっと持ち上げた。その仕草すら手馴れていて、そこはかとなく色気を感じてしまうのは女の性だ。
「コードネームは魅力的ですが、仕事で疲れている貴女に無理強いはしませんから安心して下さい」
「な……、」
 私はこの男に一体何を期待していたのだろうか。好きでもない男に、散々皮膚を舐められ身体の奥を突かれた記憶を、好きでもない男に真っ黒に塗り潰して欲しかったのか。それとも、私には襲われたい願望を持っているのか。いや、決してそんな訳ないのに私の顔は羞恥で赤く染まっている筈だ。薄暗くても、顔に熱が集まっているから解る。穴があったら入りたい気分である。
 バーボンの手を払い乱暴に布団を被った私は「……もう寝るから。帰って」と言うのが精一杯だった。
「ふふ、拗ねてしまうなんて可愛らしい方ですね」
 布団の外でクスクスと笑うバーボンは一向に帰ろうとしないので、私は畳み掛けるように言い放つ。
「人がいると気が散る。帰って」
「言ったでしょう、“寝かしつける”って」
 布団から顔を出して男を睨んだ私の視界が一瞬で暗くなる。瞼の上にバーボンの大きな掌が乗っているらしく、じんわりとした暖かさに身体の緊張が幾分解けた。
「外は朝ですから、こうした方が夜っぽいでしょう?」
「……夜の方が安心する」
 私は所詮、夜に生き夜に死ぬ人間だ。いつか、キールが言っていた。“我々の功績は日の目を見ることはないけれど、失敗はすぐに知れ渡るのだから”と。何もかも白日の下に曝してしまう太陽の光よりも、後ろ暗いもの全てを抱き込んでしまう月の青白い光の方が私の性に合っている。この組織に身を置き過ぎた結果だ。
 私は、そっと瞼に置かれた彼の手を掴んでぼんやりと眺めた。何でこんなことしているのか、自分でも解らなかった。私のものよりも大きい男の手。手の甲に浮かぶ血管のお陰で、適度にごつごつしているように見え、節くれ立った指は長く爪はしっかりと切り揃えられている。この男らしい無骨な手で、残り物の具材を包丁で切り、優しい味わいの料理を作ってくれたのだ。皿の縁を行き来する動きも、手の造りに似合わずしなやかだった。
 私がやわやわとバーボンの手の感触を確かめている間、彼は嫌がる素振りもせず何も言わないで私にされるがままだ。お互い無言だった。拳の出っ張り部分に指を這わせると、他の部分より皮膚が膨れて少し厚くなっていることに気が付いた。
「これ、タコ……?」
「ええ、拳ダコです。趣味でボクシングを嗜んでて、サポート用の包帯を巻いてるんですけどね」
 バーボンの答えに私は心の中で納得した。体格もしっかりしているし引き締まっているのは、ボクシングの賜物なのだろう。日々ストイックに自分を磨いている証拠だ。
「綺麗……」
「……、初めて言われました」
 自分でも驚く程うっとりした台詞。バーボンが少し照れたような口調と共に、優しく私の髪を梳いてくれる。まるで、硝子細工のような繊細なものをそっと撫でる柔らかい手付きだった。
「ほら、もう何も考えないで寝て下さい」
 私の思考を強制的にシャットダウンさせるために、バーボンの掌が再び瞼を覆う。髪を梳かれる心地良さを感じていると、次第に意識がゆらゆらと生温い水の中に沈んで行く感覚を覚えた。まだバーボンが部屋にいるのに。睡魔が私の体を支配する直前に。
「お休みなさい、コードネーム」
 幼な子をあやすような声が聞こえた気がした。

 すっと目が覚めると、バーボンの掌はなかった。壁掛け時計を見ると、十三時を過ぎていた。いつもより一時間程早い目覚めだが、不思議と頭の中はすっきりしている。普段なら眠いし身体も重いのに、今日はすんなりと起き上がることが出来た。部屋を見回してみても、味気ない殺風景なワンルームの光景が目に入る。一瞬、バーボンがこの部屋にいたこと自体私の夢だったんじゃなかろうか――そんなことを考えたが、キッチンコンロには鍋が一つ置いてあり、蓋を開けると冷えてしまったコンソメスープが残っている。彼がこの部屋にいた何よりの証拠である。
「……あ、玄関の鍵!」
 バーボンに部屋の鍵を渡していなかったことに気付いた私は、急いで玄関を確認すると施錠されていた。あの男、一体どうやって鍵を掛けて出て行ったのだろう。それに私が寝ている間に部屋荒らしはしたのだろうか。証拠は全て、部屋に置いてあるサンスベラとエバーフレッシュを確認すれば良い。
 鍵を掛けた引き出しからノートパソコンを取り出し電源を付けて、該当ファイルをクリックすると画面に四つの映像が映し出される。観葉植物の繁みに取り付けた監視カメラの映像だ。画面の下に盗聴データも格納されている。ひとまず私とバーボンが帰宅したところまでデータを巻き戻して再生することにした。私がシャワーを浴びている間と寝ている間に何か不審な動きがあれば、NOCと判断してベルモットへ報告するのみ。一時間早めに目が覚めて良かったかもしれない。起き抜けに吸うメントールが口の中に広がる。お陰で頭の中が冴えて来た。
 私がシャワーを浴びている間、バーボンはキッチンでスープ作りに勤しみ、私が寝た後はすぐに玄関から外へ出て行く映像が残されていた。
「ピッキングで鍵閉めたのか、あの男……」
 キッチンに寄って鍋に残ったスープに何かを混ぜたり、私のスマホを触る映像もなかったので、彼がNOCか判断することは出来そうにない。バーボンは探屋に役立ちそうなスキルを持っているようだ。溜息と共に吐き出された紫煙は空気に溶けて消えて行く。
 今回バーボンを部屋に招き入れて再確認出来たことと言えば、何を考えているか解らないという一点に限る。時折見せる絶対零度の冷たい瞳は堅気の人間には出来ないもので、彼が幾度か修羅場を潜り抜けて来た裏社会の人間であることは間違いない。あれが彼の本性の一部なのだと思う。外面良い外見と柔らかな物腰という仮面を被って人混みに紛れて生活しているのだ。
 全くもって進展しない監視。ここまで来ると、“バーボンはNOCじゃない”という場合も考えた方が良いかもしれない。私は支度をする前にシャワーを浴びるために、ホルダーからヒートスティックを外して灰皿に押し付けた。
 さっぱりした身体に下着を身に付けたまま、キッチンコンロに火を点けて弱火で鍋を温めれば、ぐつぐつとコンソメスープが丁度良く煮えた。頂きます、と手を合わせて口に人参を放り込み咀嚼する。作ってもらってから時間が経ったせいか、朝食べた時よりも味が染みていて美味しかった。スープを食べ終わり、ささっと化粧を施して最後にお気に入りのルージュを唇に乗せれば出勤準備完了である。
「安室さん、おはよう!」
「おはようございます。今日も頑張って下さいね」
 お店に出勤すれば、バーボンは“安室透”という仮面を被り笑顔で同僚達に挨拶していた。いや、どちらかと言うと“バーボン”が仮面か。
「……おはよう」
 普段バーボンに挨拶をしない私が声を掛けて来たことに一瞬丸くしたバーボンだったが、すぐに笑顔で挨拶を返してくれた。相変わらず外面が良い男である。控え室から数人の同僚達が目をハートにしつつ、溜息混じりにバーボンを見つめている。
「はぁ……。本当カッコ良いよね、安室さん」
「あんなダサい眼鏡の下にイケメン顔が隠れてたなんて」
「眼鏡取って正解よね!」
「さっき安室さんから頑張って下さいって言われちゃった」
「何それ、ズルイ!」
「抜け駆け禁止!」
 キャイキャイと騒ぐ彼女達を尻目に、私は今夜のドレス選びをすることにした。

 佐武とアフターでホテルに行く度に、バーボンは明け方まで待機して私をマンションまで送り届けてくれる。たまに軽食を作ってくれたり、寝かし付けてくれることもあったが彼は私に手を握って来ることは一度もなかった。店の同僚達に話せば羨ましがられること山の如しだろう。
 バーボンはセックスする時、一体どんな顔をするのだろう。あの端正な顔が快楽に歪む様を見てみたい。欲に塗れた灰色がかった青の瞳で見下ろされたまま攻められるのも良いし、冷ややかな瞳でねちっこく攻められるのも一興だ。金髪と小麦色の肌を持つ男について思いを巡らす。そんな私がこの世で一番滑稽だ。
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